金田一耕助ファイル13    三つ首塔 [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  序 詞  第一章 悲しい思い出  第二章 恐ろしき群像  第三章 暴 露  第四章 |焙《ひあ》|烙《ぶり》の刑  第五章 三つ首塔炎上  大団円     序  詞  私はとうとう三つ首塔をはるかにのぞむ、たそがれ峠までたどりついた。  文字どおりそれはたそがれどきの、しかも曇った日のこととて、せまい盆地をへだてたむこうの丘の中腹に、|薄《うす》|鼠《ねず》色の森や林を背景として、にょっきりとそそり立つ、三重の塔を望見したとき、あまりの感慨ふかさに、古いことをいうようだが、私には夢かまぼろしのようにしか思えなかった。  ああ、私たちはこの塔へたどりつくまで、いったい、|幾《いく》|日《にち》かかったのか。そして、そのあいだに幾人の血がながされたのか。思えば私たちは血の海をおよいで、やっとここまでたどりついたようなものなのだ。  しかし、私は知っている。いや、本能的に感ずるのだ、ここはまだ終着駅ではないことを。三つ首塔はたんなる乗り換え場所にすぎないことを。三つ首塔の発見を転機として恐ろしい事件はまだつづくのではあるまいか……。  私はしばらく放心したように、|凶《まが》|々《まが》しい塔の影を見まもっていたが、ふと気がついて、かたわらに立っている男をふりかえった。  その男はひとめをはばかる人間のつねとして、鳥打ち帽子をまぶかにかぶり、ふかぶかと立てた|外《がい》|套《とう》の襟に|顎《あご》をうずめているが、帽子のひさしのしたから|喰《く》い入るように、三つ首塔をながめている視線のはげしさには、私などとはくらべものにならないほど、ふかい執着を秘めている。  私は思わず身ぶるいをした。  私はこの男を恐れているのだ。この男は悪人なのだ。じぶんの欲望をとげるためには、どんなことでもやってのけるのだ。ひょっとすると、いままでに流されてきたひとびとの血も、みんなこの男の手によってなされた所業かもしれないのだ。  私の心はこのうえもなく、この男を恐れている。  ひょっとすると、私はこの男にだまされているのかもしれないのだ。じぶんの欲望をとげるためには、私のような女ひとりを、だますくらいは朝飯前の男なのだ。げんにこの男にだまされて、さんざんおもちゃにされたあげく、ちりあくたの如く捨てられた女を二、三知っている。  この男にとって私が必要なのは、あの|莫《ばく》|大《だい》な財産が、私のふところにころげこむ、それまでのあいだだけかもしれないのだ。首尾よく財産が私のものになったら、たくみにそれを横領して、私を捨てるかもしれないのだ。  いや、いや、捨てるくらいならまだよいけれど、私というものの存在を、この世から抹殺しようとするかもしれない。  ああ、恐ろしい。私は恐れる、この男を……。  しかし、それでいて、私の体はこの男から、はなれることが出来なくなっているのだ。私の体は、皮膚の感触は、この男のたくましい腕の力を、抱擁を、それから|咬《か》みつくように乱暴なくちづけを、忘れることが出来なくなってしまっている。そんな女にしてしまったのだ、この男が。 「あなた……」  まだ|眼《ま》じろぎもせずに、三つ首塔を|視《み》つめている、男の腕に私はそっと手をおいた。 「とうとう|辿《たど》りついたのね」 「ああ、とうとう辿りついたよ、三つ首塔にね」  そういいながら、私のほうをふりかえった男の眼には、兇暴なまでにも欲望と執着がかぎろうている。私は思わず身ぶるいをせずにはいられなかった。 「どうしたの、|音《おと》|禰《ね》、何をそんなにふるえるんだい、寒いんじゃないだろ」 「あなた」 「うん?」 「三つ首塔は見つかったけれど、事件はこれでおわったわけじゃないんでしょう。まだまだ何か起こるんでしょう。|怖《こわ》いことが……」 「うん、その可能性は大いにあるね。君があの莫大な遺産の相続人と、はっきり決定するまではね」  遺産なんかどうでもいい。私はそれよりこの恐ろしい事件の渦中から身をひきたいのだ。しかし、この事件から身をひくということは、とりもなおさずこの男から、はなれていくことを意味しているのだ。この男が私をつかまえてはなさないのは、私の背後に、あの大きな遺産の幻影がぶらさがっているからにすぎない。  幼いときから私はきれいな子だといわれてきた。|年《とし》|頃《ごろ》になると、絶世の美人ともてはやされた。しかし、私はこの男をしっている。いかに私がきれいだといって、一文なしの女なら、|洟《はな》もひっかけないにちがいない。  ああ、この男をはなさぬためには、私はどこまでも、どこまでも、血の海を泳いでいかねばならぬ。  とつぜん、はげしい激情の|嵐《あらし》が私の体内をゆすぶった。私はたくましい男の胸にむしゃぶりついて、気がくるったようにうったえた。 「あなた、あなた、あたしを捨てちゃあいやよ。これからさき、どんなことが起ころうとも、あたしを捨てちゃいや! 死なばもろとも、地獄へいくのも、極楽へいくのもいっしょだと、いつかちかった言葉を忘れちゃいやよ。あなたに捨てられるくらいなら、あなたに殺してもらったほうがいいの」 「捨てやあしない、捨てやあしない。おまえが遺産の相続人ときまるまで、おれゃあ絶対におまえを捨てやあしないぞ」  遺産の相続人ときまるまで……? 私の胸をまた不安な|怯《おび》えの影がかすめて走ったが、しかし、そんな感情にこだわっているひまはなかった。男はいきなり強い力で私のからだを抱きよせると、ひとめを避けるためにかけている、私のサン・グラスをむしりとり、それから咬みつくようにはげしく私の唇を吸った。  こうして私はまた、男のたくましい腕のなかで、しびれるようなひとときの陶酔境におちていったのだ。  警官に追われている現在の不安な境遇も、三つ首塔に待ちかまえているであろう、将来のさまざまな恐怖もわすれて……。      第一章 悲しい思い出  いったい、どうしてこんなことになったのか。  まったく世間しらずの、昭和三十年、すなわち去年の春、女子大を出たばかりで、つつましく家庭にあってお手伝いをしていた私、いわば花嫁修業にいそしんでいただけの平凡な娘が、男とともに警官たちの眼をかすめて、逃避行のスリルを味わうようになろうとは……。  われながら、ここ三か月ばかりの境遇の激変には、|茫《ぼう》|然《ぜん》としてじぶんを見なおさずにはいられない。  いったい、どうしてこんなことになったのか……。私はいまそれを回想してみようと思う。ずいぶんながい話になりそうなのだけれど。  そもそものことの起こりは、|伯《お》|父《じ》さまの還暦祝いの晩のことだった。  この伯父さまというのは、上杉誠也といって、某私立大学の文学部長で、英文学者である。私はこのひとのことを、おさないときから、伯父さまとよんで育ってきたが、ほんとうは肉親の伯父ではなく、亡くなった私の母の姉、すなわち|伯《お》|母《ば》のつれあいである。  私の母は三人きょうだいで、いちばんうえの和子というのが上杉の伯父にとつぎ、この伯父の世話でつぎの節子というのが、伯父の友達の宮本省三という国文学者にとついで、私をうんだ。だから、宮本|音《おと》|禰《ね》というのが私の本名なのである。  ところが、私の十三のとき、とつぜん母がみまかった。病気は肺炎をこじらせたので、戦争中のこととて、手当てがいきとどかなかったのである。それから、半年もたたぬうちに、こんどは父がなくなった。これはあきらかに母をしたうのあまり、悲歎に身をやぶったのだ。それほど父は母を愛していたのである。  こうして、いっときに両親をうしなった私は、ほかにきょうだいもなかったので、天涯の孤児になってしまった。  それを|憐《あわ》れんで、ひきとってくだすったのが上杉の伯父さまで、当時は和子伯母さまもお元気だったが、おふたりのあいだにお子さんがなかったので、いくいくは私を養女に……と、いうお|肚《はら》でいられたので、私はしんじつの子供のように、伯父さま伯母さまからかわいがられて成長した。もし、伯母さまが生きていられたら、去年学校を卒業すると同時に、私は伯父さまの養女として入籍していたことだろう。  ところが、そのことがあるまえに、一昨年伯母さまが|乳癌《にゅうがん》でお亡くなりになるし、去年に入ってからは、とつぜん、私の境遇に一大異変が起こって……それ以来、私はいまだに、血みどろの地獄の恐怖のなかを、|彷《ほう》|徨《こう》しつづけているのである。  だが、その話はもうすこしさきへいってすることにして、ここはこの物語に関係のふかい、ふたりの人物を紹介しておくことにしよう。  私の母が、三人きょうだいだったということはまえにもいったが、いちばん下が男で佐竹建彦といい、この物語がはじまった去年では四十五歳であった。私にとっては母方の|叔《お》|父《じ》である。  このひとは某私立大学の経済学部を出て、さる商事会社につとめ、|頭脳《あたま》もよく、腕もあり、将来を嘱望されていたのだが、戦争中、独身のまま軍隊にとられて、長いあいださんざん苦労をしたせいか、昭和二十四年に復員してくると、以前とはがらりと人間がかわってしまった。  ひとつには、以前つとめていた商事会社が、復員してみればつぶれていて、職がなかったせいもあろうが、軍隊時代の仲間と共同して、|闇《やみ》ブローカーのようなことに手を染めたのが病みつきで、すっかりそのほうへ深入りしてしまった。それも扱う品というのが、モルヒネだの、密輸の時計だのというように、危い橋ばかりわたっているので、人間もかわれば、眼つきもかわった。  じっさい、変われば変わるものというのは、この建彦叔父のことであろう。  この叔父が軍隊にとられたのは、私がまだ十か十一の年頃で、両親も健在だったが、その両親をのぞいては、世のなかで、いちばん好きなのはこの叔父だった。叔父は学生時代、ボートの選手をしていて、体もよく、性格も|闊《かっ》|達《たつ》で、音禰、音禰とよく私をかわいがってくれた。  その叔父があんなにすさんでしまったのを見るにつけても、私は戦争というものを憎まずにはいられない。去年亡くなられた和子伯母さまなども、この叔父をひどく|怖《こわ》がり、また伯父さまにたいしても面目ながって、げんざいじぶんの弟だのに、たまにやってきてもよい顔をしないようにつとめていた。  しかし、そんなことで|僻《へき》|易《えき》するような建彦叔父ではなかった。  金につまるとしゃあしゃあとして、伯父さまのところへ無心にやってきた。そして、いつも大きなことばかりいっていたが、じっさいまた、|儲《もう》かるときにはすごく儲かるらしいのだが、悪銭身につかずのたとえのとおり、金があるといかがわしい女にかかりあったり、それにずいぶん大きなギャンブルをやるらしく、いつもそれですってしまうらしかった。  しかし、伯母さまが苦に病んでいらっしゃったほど、伯父さまのほうでは、このやくざな叔父を毛嫌いしていらっしゃるふうもなかったようだ。 「なあに、いまに眼がさめるよ。元来が頭脳のいい男なのだから、おまえのようにそういちずに、悪くいったものではない」  と、いつも伯母さまを慰めて、建彦叔父がやってきても、けっして玄関払いにするようなことはなく、快く面会しては、叔父の大きな|法《ほ》|螺《ら》話を、にこにこしながら聞いてあげ、あげくのはてに無心を切りだされると、いやな顔ひとつせず、|用《よう》|達《だ》ててあげていられたのには、ずいぶんお心のひろいかただと、私はいつも心のなかで、感謝せずにはいられなかった。  さて、この物語に関係のふかいもうひとりの人物というのは、上杉の伯父さまのお姉さまにあたるかたである。  そのかたは品子さまといって、大きな声ではいえないけれど、昔、|新《しん》|橋《ばし》で芸者をしていられたことがおありだとか。つまり、上杉家が没落したので、みずから芸者に身を売って、たったひとりのきょうだいの、上杉の伯父さまを仕立てられたのだという話で、伯父さまの今日あるのは、みんなこのかたのおかげだとか。だから、伯父さまにとってこのかたは、お姉さまでいらっしゃると同時に、親代わりでもあり、恩人でもあった。したがって、伯父さまがこのかたを大切にされ、品子さまのほうでもまた、 「誠也さん、誠也さん」  と、伯父さまを大切にされることといったら、はたの見る眼もおうらやましいほどである。  もとは|渋《しぶ》|谷《や》のほうに一家をかまえて、お茶とお花の先生をなすったり、また、伯父さまからのお仕送りもあって、ものしずかな老後の生活を送っていられたのだが、去年、和子伯母さまがお亡くなりになったので、伯父さまの面倒を見てあげるために、渋谷の家をひきはらい、|麻《あざ》|布《ぶ》にある上杉家へ入ってこられた。  さすが昔、|新《しん》|橋《ばし》でも|名《めい》|妓《ぎ》といわれたかただけに、それはそれはきれいなかたで、女としてのおたしなみも、いろいろ深いかたである。お|年《と》|齢《し》は上杉の伯父さまよりも六つうえの、かぞえ年でことし六十八におなりだけれど、とてもお達者で、髪こそ真っ白におなりだけれど、その髪を切り髪になされて、いつも茶がかった|被《ひ》|布《ふ》をお召しになっていらっしゃるところは、お姿もよく、お上品で、それはそれはやさしいおかた。  小さいときから私をかわいがってくだすったのに、その私が男とふたりで警察の眼をのがれて、逃避行をしているとあっては、どのようにお歎きであろうか。それを思うと私の胸は、きりきりと|剔《えぐ》られるようにいたむのだが、では、どうしてそんな破目になったのか、いよいよ、そのほうへお話をすすめていくことにしよう。      百億円の使者  上杉の|伯《お》|父《じ》さまにとっては、去年の十月三日が第六十回目の誕生日であった。  そこで友人、知己、門弟のかたたちがあいつどうて、盛んな還暦祝いをしてさしあげようということは、去年の春ごろからよりより話にのぼっていた。  上杉の伯父さまは学者としても高名なかたで、御専門の英文学についても貴重な著述がいろいろおありだけれど、けっして書斎にばかり閉じこもっているようなかたではなく、ずいぶん交際のひろいかたである。ことに若いころからお芝居がお好きで、みずから史劇の脚本をお書きになったり、舞踊の台本をお書きになって、それが上演されたことも幾度かあるので、|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》役者や日本舞踊のお師匠さんがたのあいだでもお顔がひろかった。そのうえに、政治的手腕がおありになって、ずいぶん後進や、門弟のかたたちの面倒をごらんになるので、そのおつきあいの範囲は多彩をきわめていた。  それらのひとたちが心から、上杉先生の還暦をお祝いしようと、夏のおわりごろから着々準備をすすめているのだから、いったいどのように|華《はな》やかな会になるであろうかと、その日のくるのを楽しみにお待ちしていたが、十月三日もあと半月というところになって、突如、私の身のうえに、世にも思いがけない一大事が起こったのである。  忘れもしない、あれは去年の九月十七日のことである。ピアノのお|稽《けい》|古《こ》からかえってくると、表に高級車がとまっていた。まえにもいったようにお顔のひろい伯父さまのこととて、こんなことは珍しいことではなかった。また、お客様であろうと気にもとめず、内玄関からなかへ入っていくと、出迎えた女中の茂やが、 「おかえりなさいまし、あの、お嬢さま」 「ただいま。茂や、なにか御用」 「はあ、おかえりになりましたら、応接室へいらっしゃるようにと、先生がおっしゃっていらっしゃいます」 「あら、そう、でも、お客様じゃなくって」 「はあ、そのお客様がなにか、お嬢さまに御用がおありだそうで」 「どんなかた」 「弁護士さんじゃございますまいか。丸の内のなんとか法律事務所という名刺を持っていらっしゃいました」  弁護士——と、聞いて、私は思わず眼を|視《み》|張《は》った。弁護士がいったい私にどのような用件があるのだろうか。 「どんなかた、お年を召したかた」 「はあ、うちの先生より、すこしお若いかという御年輩でございましょうか」 「ああ、そう」  私がいきかけようとすると、 「あの、それから|池袋《いけぶくろ》の|旦《だん》|那《な》さまもごいっしょでございます」  と、うしろから茂やが付け加えた。池袋の旦那さまというのは佐竹の|叔《お》|父《じ》のことなのだ。建彦の叔父は池袋にあるかなり高級なアパートを根城として、放縦な生活を送っているのだ。 「あら、まあ、それじゃ佐竹の叔父さまが、その弁護士さんを御案内していらっしゃったの」 「いいえ、そうではございません。池袋の旦那さまがいらしてるところへ、その弁護士さんがいらっしゃいましたので。それで先生がお会いになりましたところ、しばらくすると、御隠居さまと、池袋の旦那さまをお呼びなさいました。そのとき、お嬢さまがおかえりになったら、すぐお呼びするようにとのことでございました」  私ははっと胸がとどろき、顔があからむのをおぼえずにはいられなかった。ひょっとすると縁談ではないか。 「ああ、そう、それじゃすぐにまいりましょう」  私はいったん、じぶんのお部屋にかえると、お客様に失礼でない程度に身づくろいをして、応接室のドアをノックした。 「誰……? |音《おと》|禰《ね》かい」  そうお|訊《たず》ねになったのは上杉の伯父さまだった。 「はあ、ただいまかえりました。おそくなりまして……」 「音禰や、ご免こうむってこちらへ入っていらっしゃい」  そういうお声は、御隠居さまとよばれる品子さまだったが、どういうわけかお声がふるえているようなので、私ははっと胸さわぎをおぼえ、|把《とっ》|手《て》をまわそうとするところへ、なかからドアを開いてくれたのは建彦の叔父だった。 「音禰、こっちへおいで。あのかたがおまえのことで、とてもたいへんな|報《し》らせをもってきてくだすったのだ。おまえ、眼をまわしちゃいけないぜ。あっはっは」  叔父の声には、なにかしらどくどくしいひびきがこもっている。はっとしてその顔を見ると、うえから見おろす叔父の眼に、すごいほどの感情がほとばしっていた。むろん、そういう表情は、一瞬にして消えたけれど……。  私がもじもじしていると、 「音禰、こっちへおいで」  と、むこうから助け舟を出してくだすったのは、上杉の伯父さまである。それをしおに、建彦の叔父のそばをすりぬけて伯父さまのそばへいくと、円卓のむこうに|縞《しま》のズボンに黒いドスキンの上着という、略式ながらも礼装をした、五十前後の紳士が、|眼《ま》じろぎもせず、私の顔を見ながら立っていた。私はまたちょっと|赧《あか》くなる。伯父さまも|椅《い》|子《す》から立ちあがって、 「これがいまお話のあった、佐竹善吉の|曾《そう》|孫《そん》にあたる宮本音禰です。音禰、こちらは丸の内に法律事務所をもっていらっしゃる黒川弁護士。おまえのことでわざわざ来てくだすったんだよ」 「はあ」  私はなんと|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》をしてよいかわからず、ただだまって頭をさげた。 「よいお嬢さんですね。さあ、どうぞおかけなすって。私もかけさせていただきましょう」 「はあ」  黒川弁護士が腰をおろすのを待って、私も伯父さまのそばへ腰をおろした。品子さまがむこうから、いたわるような|眼《まな》ざしで私を見まもっていてくださる。なにかしら緊張した空気に、私は体をかたくした。 「黒川さん、あなたからお話しくださいますか。それとも私から言ってきかせましょうか」 「はあ、先生からだいたいのお話を……」 「ああ、そう、それでは……音禰」  伯父さまもちょっと、|咽《の》|喉《ど》のかすれるようなお声であった。 「おまえは佐竹善吉という、おまえにとっては、ひいおじいさんにあたるひとのことを聞いたことがある?」 「はあ、お名前だけは……」  そう答えたものの私は不思議でならなかった。さっきも私を紹介するのに、|曾《そう》|祖《そ》|父《ふ》の名前がもち出されたが、遠い昔に亡くなった曾祖父の名前が、どうしていまごろ必要なのだろう。 「それじゃ、その善吉というひとに、玄蔵という弟があったことを聞いちゃいないか」  私ははっとして、伯父さまのお顔をふりあおいだ。  その玄蔵という私の母や、和子伯母さまにとって大叔父にあたるひとの名は、伯母さまや母にとってタブーになっていたらしく、そのひとの話をするときふたりはいつも声を落として、ひそひそ話になるのが常だった。 「ああ、おまえ聞いたことがあるんだね」 「はあ、二、三度……でも、どういうかたか存じません。むろん、もうとっくの昔にお亡くなりなすったのでしょうけれど」 「いや、ところが、そのひとがまだ生きていらっしゃるんだそうだ。百歳ちかいお年でね。しかもアメリカで成功なすって、たいへんなお金持ちになっていらっしゃるんだが、その財産をおまえに譲ってくださろうというんだ」 「邦貨に換算すると、百億にちかい財産だとさ。あっはっはっは」  長いソファにふんぞりかえった建彦の叔父は、ちかごろ肥満してきた腹を、大きくゆすって笑いあげた。  私はなにをいわれているのか、しばらくはわけがわからぬ気持ちだった。      世にも不思議な物語 「いや、お嬢さまがびっくりなさるのも無理はありませんが、これはけっして|出《で》|鱈《たら》|目《め》の話ではないのです。アメリカでも信頼出来る法律事務所からの連絡なので、ちかくむこうからひとがくることになっているんです」  あとでわかったことだけれど、この黒川法律事務所というのは、パテントのことやなんかで、外国の弁護士相手に交渉するのを、専門のようにしている、とても高級な法律事務所だった。  私はなにがなにやらわからぬながら、にわかに空恐ろしさが身にせまってきた。  百億円の遺産相続人……? この私が……? 私ははじめて建彦|叔《お》|父《じ》の、あのどくどくしい笑い声の意味がわかるような気がしてきた。 「あたし、あまりだしぬけで事情がよくわかりませんが、その玄蔵というひとが生きているとすれば、どうしていままで、こちらへお便りがなかったのでしょうか」 「いや、その事情はわれわれにも詳しくわかっていないのですが、なにかそのかたには、やむを得ない事情があって、じぶんが生きていることを、かくしていらしたのではないでしょうか。げんに最近までそのかたは、陳和敬と名乗って、中国人で押しとおしていたそうですから」 「何かうしろ暗いことでもあって、日本を脱走したんじゃないかな。|音《おと》|禰《ね》、おまえそんな話を聞いちゃいない?」  ああ、そのことなのだ。果たしてそれが玄蔵というひとのことかどうかわからないけれど、佐竹の身内に殺人の嫌疑をうけて、ゆくえをくらましているひとがあるということが、|伯《お》|母《ば》さまや私の母の苦労の種らしかった。建彦|叔《お》|父《じ》もそのことは知っているはずだのに……。 「でも、それにしても、そのひとはなんだって、あたしに財産を譲ろうとおっしゃるんです。尊属関係からいえば、そこにいらっしゃる佐竹の叔父さまのほうが、あたしより、そのかたにちかいわけではございませんか」 「いや、それですから、お嬢さん、ここにひとつ条件があるんですよ」  黒川弁護士は|眼《め》|尻《じり》に|皺《しわ》をよせて、にこにこ笑いながら、 「お嬢さんはもしや、|高《たか》|頭《とう》俊作という名前をお聞きになったことはございませんか」 「いいえ、それ、どういうかたでございますの」 「さあ、それがよくわからないんですが、昭和二年のうまれだというから、生きていればことし二十九、かぞえ年でですね。お嬢さんと五つちがいだが、条件というのはそのひとと結婚してほしいというんですよ」  私は急にいやあな気がした。私だって人間だもの、欲がないわけではない。しかし、金額にもよりけりで、百億というケタはずれの数字を持ち出されたうえ、そういう条件を付け加えられては、まるで人格を無視されているようで、よい気持ちがしないのは当然だろう。 「いま、先生はそのかたが、生きていらっしゃればとおっしゃいましたが、そうすると……」 「それなんですよ、お嬢さん。いまのところまだ居所がわかっていないんです。それで、私のほうでも至急手をつくしてさがしますが、こちらの先生のほうでも秘密探偵でもやとってさがそうとおっしゃるんですがね」 「音禰、それはなんとかしてさがし出せると思うよ。新聞やラジオをフルに使えばね」 「でも、伯父さま、そのかた生きていらっしゃるとしても、二十九歳といえばもう結婚していらっしゃりはしないでしょうか」 「いや、それについては依頼人、すなわち玄蔵さんも確信を持っていらっしゃるらしいですね。と、いうのは……」  弁護士は大きなハトロン紙の封筒から、一枚の写真をとり出すと、私のほうへ押しやりながら、 「これが高頭俊作君十一歳のときの写真だそうですがね。玄蔵さんが帰国して、みずから撮影したのか、それともひとに頼んでとらせたのか、そこまではわかりませんが、とにかく、俊作君とあなたには、しじゅう関心を持っていられて、俊作君にはそのことをほのめかしてあるんじゃないかと思うんです。結婚と遺産のことですね。ほら、ここにあなたのお写真もありますよ」  最初に見せられたのは、頭をまる坊主にして黒い小倉の詰め襟を着た、いかにも|怜《れい》|悧《り》そうな少年の写真だった。正直に打ち明けるが、その写真を見たせつな、私はなぜか胸がおどって、|頬《ほお》に血ののぼるのをおさえることが出来なかった。  だが、そのつぎに示された自分の写真を見たときには、私は思わず眼を|視《み》|張《は》らずにはいられなかった。それはあきらかに幼稚園時代の私だが、いままでいちどもそんな写真を見たことはなかった。それはあきらかにぬすみどりした写真だった。 「こうして玄蔵さんというひとは、おふたりの御幼少のじぶんから、いくいくは夫婦にして、財産を譲ろうと決めていられたんですね」 「それで、もし、あたしがこのひとと結婚することを拒んだら……?」 「そのときには」  と、黒川弁護士は一句一句に力をこめて、 「百億という財産は、あなたの手からすべり落ちて、ほかのひとへいくことになっているそうです。|但《ただ》し、その詳細な点はまだこちらにとどいておりません。それにもかかわらず私がきょうこうして参上したのは、お嬢さんもお|年《とし》|頃《ごろ》ですし、|且《か》つは学校も出られたことではあり、他に縁談がおさだまりになって、後悔なさるようなことがあってはと、とりあえず御注意にあがったというわけで、当分このことは絶対に、他にもらさぬよう、いまみなさんにもお願いしておいたところです」 「あっはっは、世にも不思議な物語というのはこのことですな」  建彦の叔父がまたどくどくしくわらった。      還暦祝いの夜  黒川弁護士によって、とつぜんもたらされたこの報告が、どのように私の心をかきみだしたか、ことあたらしく述べるまでもあるまい。  私は母と同じように、平静な生活に入ることを望んでいたのだ。|伯《お》|父《じ》さまや品子さまのお世話で、平凡な結婚をし、つつましやかな人妻になることを希望していたのだ。  それだのに……それだのに……平地に波紋をまき起こすような、こんどの玄蔵というひとの処置。むろん、私はその好意に、感謝しなかったわけではない。百億という金が欲しくなかったとはいわない。いや、いや、大いに未練があるだけに私の心はみだれるのだ。いっそ財産をくださるのなら、あんな条件をおつけにならなかったらよいのに……。たいへん身勝手な話だけれど、そんなふうに考えたりした。  だが、私のそんな心の動揺とはかかわりなしに、時はどんどんたっていって、やがて上杉の伯父さまの、還暦のお祝いの日がやってきた。  私はいまでも、その夜のことを忘れることが出来ない。それは伯父さまにとっても、私にとっても、生涯忘れられぬひとときだったろう。伯父さまにとっては一生の晴れの舞台として、そして、私にとってはあの|莫《ばく》|大《だい》な遺産をめぐってひき起こされた、流血の海へ足をふみいれた、|呪《のろ》わしい最初の晩として……。  この還暦祝いの|華《はな》|々《ばな》しさは、ここでは多くを語るまい。  集まったお客様は千有余、|日《ひ》|比《び》|谷《や》にある広い国際ホテルの大広間をうずめつくして、しかも、その職業や専門の多方面にわたることも、当時の語り草であった。会は午後四時からはじまって、まず開会|劈《へき》|頭《とう》、学校からおくられた赤い|頭《ず》|巾《きん》に、赤いチャンチャンコ……と、いいたいが、洋服ではそれもおかしかろうと、赤いベレーに赤いジャンパー。舞台でうつくしい女優さんから、それを着せられた伯父さまは、幸福そのもののようでいられた。  それにつづいてかずかずの花輪の贈呈、伯父さまの|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》。それからえらばれた名士たちのテーブル・スピーチがはじまったが、なにせ、各テーブルでは勝手にのめるようにしてあるので、ホールにはしだいに酒気があふれて、せっかくのテーブル・スピーチも聞きとれぬことが多かった。  伯父さまのテーブルには伯父さまのほかに品子さまと佐竹の|叔《お》|父《じ》、それに私の四人のほかに、大学総長の代理のかたが|坐《すわ》っておられた。みなさまの祝福をうけて、品子さまがたびたび眼にハンケチをおしあてられたのは、さもあるべきことだろう。  やがて、テーブル・スピーチもひととおりおわって、舞台ではみなさまがお祝いに贈ってくだすった、かずかずの余興がはじまったが、ちょうどそのころ、黒川弁護士の来られたのには、私はちょっとドキッとした。  しかし、黒川さんが来られたのは、例の件ではなく、新しくちかづきになられた伯父さまに、ちょっと敬意を表しにこられたのだった。黒川さんは三十分ほど伯父さまのテーブルにいて立ち去られたが、その際のことである。私がはじめて、あの|凶《まが》|々《まが》しい塔の名を耳にしたのは……。 「ときに、お嬢さんは三つ首塔という名を、お聞きになったことがありますか」 「ミツクビ塔ですって? どういう字をかくのでしょうか」 「三つの首の塔と書くんですがね」 「まあ!」  その名前を聞いたとたん、私はなんともいえぬ異様な|戦《せん》|慄《りつ》を覚えずにはいられなかった。 「いえ、あの、そんな名前、いま聞くのがはじめてですけれど……」 「黒川さん、その塔がなにか例の件に関係でも……」  そう|訊《たず》ねたのは建彦叔父である。この叔父はテーブルからテーブルへと泳ぎまわって、めったに私たちのそばにいないのだが、黒川弁護士のすがたを見つけてかえっていたのだ。 「ええ、そう、よほど重大な関係があるらしいんですが、いったいそれがどこにあるのか、どういうふうに関係があるのか、いまのところまだわからないんです。いや、この一件、|高《たか》|頭《とう》俊作なる人物が一日もはやく見つかって、お嬢さんがその男と、結婚することを同意してくださらなければ、相当、複雑怪奇なことになりそうですよ」  そこまでいって弁護士は私の顔色に気がついたのか、 「いや、失礼しました。これはこういうお席で、切り出すべき話じゃありませんでしたね。先生、それじゃこれで……」  黒川弁護士が伯父さまと、握手をして立ち去るのと入れちがいに、ボーイが名刺をもってやってきた。 「こういうかたがお眼にかかりたいと、むこうでお待ちになっているんですが……」  名刺がちょうど私のまえにおかれたので、それが誰であるか私にもわかった。岩下三五郎——。と、いうそのひとは、伯父さまが高頭俊作なる人物を、さがすために依頼した秘密探偵で、うちへも二、三度来たことがある。 「ああ、そう」  伯父さまはその名刺をかくすようにして、ゆっくり|椅《い》|子《す》から立ちあがると、ボーイについてホールから出ていった。建彦の叔父はまたテーブルからテーブルへと泳いでいく。  あの気味のわるいアクロバット・ダンスがはじまったのは、それから三十分ほどしてからのことである。  それは全裸にちかい肉体の、ところどころを申し訳ほど、きらきら光る金具や布で覆うたふたりの女が、まるで軟体動物のようにからみあって踊るのだが、見ているうちに私はなんだかむかむかしてきた。二匹の蛇が|縄《なわ》のように、からみあっているところが連想されたからである。  そこで私は|伯《お》|母《ば》さまにおことわりして、テーブルを立ってホールを出た。さいわい、すっかりお席がみだれて、どのテーブルでも談論風発、神妙に舞台を見ているひとさえすくなかったので、私の行動など見まもっているひともいなかった。ホールの外にもかなりの客が、立ち話をしたり、かえりじたくをしたりしていた。  私は誰もいないところへゆきたかったので、当てもなく廊下から廊下へと歩いているうちに、五分ほどもそぞろ歩きをしていただろうか、私は妙に電燈の薄暗い廊下へさしかかった。すると突然、右手のドアがなかから開いて、男がひとりとび出してきた。私がギクッと立ち止まると、相手もギョッとしたように立ち止まり、うしろ手にガチャリとドアをしめた。  それは三十前後の、背の高い、がっちりとした体格の、眼鼻立ちのかっきりとした、ひとくちにいって、男らしい男ぶりの青年だったが、どこかに建彦の叔父と共通したにおいを持っていた。つまり、すさんだ印象なのである。  ああ、人間のファースト・インプレッションほどたしかなものはない。これこそあの|呪《のろ》わしくもまた慕わしい、あの男との初対面だったのだ。  男は露骨なまでに無遠慮な|眼《まな》|差《ざ》しで、訪問服を着た私の姿を|舐《な》めるように眺めていたが、やがてにやりと不敵の笑みをうかべると、かるく私に頭をさげ、逃げるように暗い廊下を立ち去った。どういうわけかそのとき私は、ぼんやり男のうしろ姿を見送っていたのだが、相手が廊下をまがるとき、こちらをふりかえって手をふったので、急に腹の底から怒りがこみあげてきた。男の無礼を怒ったのではない。はしたない自分の行動に自己嫌悪をおぼえたのだ。  そこで私はもとの道へとってかえしたが、ホールの入り口まできたときだ。突然、中からわっと|湧《わ》き起こったどよめきに、何事が起こったのかとなかをのぞいたが、そのとたん、私は見たのだ。  ひとりのアクロバット・ダンサーが、舞台の中央に立っていた。そして、その腹のところにもうひとりのアクロバット・ダンサーが、十字架のように水平にからみついていた。彼女の顔は客のほうをむいており、その体は、立っている女の背中をひとまわりして、その両脚でじぶんの首をかかえているのだ。それだけでも気味がわるい|恰《かっ》|好《こう》だのに、なんとその唇から滴々として、血のあぶくが垂れているのだった。  ああ、これこそ、その夜国際ホテルで行なわれた、三重殺人事件の皮切りであり、私が足をふみいれた血の川の最初の|淵《ふち》であった。      笠原姉妹  あのときの世にも無気味な印象を、私は終生わすれることができないだろう。  二匹の白蛇のようにからみあった、ふたりのアクロバット・ダンサーのうち、ひとりの口から滴々と鮮血がしたたりおちる。この血は彼女の|頬《ほお》をよこぎって、じぶんの頭をかかえている足首から、|象《ぞう》|牙《げ》のようにまっしろにぬりたてたふくらはぎのほうへ、|幾《いく》|筋《すじ》かの川となって流れていき、そこから点々と舞台のうえにしたたりおちる。しかも、ダンサーの全身を蛇のうねりにも似た|痙《けい》|攣《れん》が、いくたびかつらぬいて走るのだった。  それにもかかわらず私はまだ、それも演技のうちかと思っていた。このグロテスクな踊りに、さらに、グロテスクな趣をそえるために、用意されてあった演技であろうとかんがえた。  いや、これは私ばかりではなく、その夜の客の大部分がそうかんがえたのにちがいない。その証拠には、場内は一瞬シーンと鳴りをひそめて、その異様な演技を|視《み》まもっていた。  だが、やがて、金縛りにあったようなお客様たちのその静寂が、爆発するときがやってきたのだ。共演者の腰に水平にからみついている演技者の肉体を、さいごの痙攣が電光のようにはしったかと思うと、ついに力がつきはてたのか、|芋《いも》|虫《むし》のようにポタリと舞台のうえにおちて……そして、まだ、かすかにうごめいている。  舞台の中央にたって、正面をきっていたダンサーには、いままで共演者の|苦《く》|悶《もん》がわからなかったらしく、びっくりしたようにひざまずいて、パートナーの体をだきおこしたが、そのとたんに、 「きゃあーッ!」  と、いうような悲鳴をあげ、それにつづいて、 「誰か来てえ! お医者様を……お医者様を……」  その叫び声がこの目出度かるべき還暦祝いの会場を、|喧《けん》|騒《そう》と混乱の渦のなかへまきこんだのだ。言下に十人ばかりバラバラと、ホールから舞台へとびあがったが、その先頭にたったのは佐竹の|叔《お》|父《じ》だった。建彦叔父は舞台へとびあがると、すぐにダンサーを抱きおこし、ほかのひとびとがそれを取りまいたので、気の毒なダンサーの姿は見えなくなった。  私よりひと足さきにかえっていられた上杉の|伯《お》|父《じ》さまも、自席をたって不思議そうに舞台のほうへやってくる。私はそのそばへ駆けよった。 「伯父さま」 「ああ、|音《おと》|禰《ね》か。どこへいってたの?」 「少し気分がわるかったので、そこいらをぶらぶらと……でも、伯父さま、あのかたどうなすったの」 「さあ……。建彦君、建彦君、いったい何事がおこったんだね」 「ああ、兄さん」  と、舞台のうえの人垣から、顔を出した建彦叔父の両眼には、ギラギラと兇暴な光がうかんでいる。 「兄さん、いまごらんになったとおりですよ。この子、血を吐いて死んじゃったんです」 「血を吐いて死んだあ?」  上杉の伯父さまもたじろいだように眼を|視《み》|張《は》って、 「もうこと切れたの?」 「はあ、上杉先生、絶望のようですね」  舞台からこちらをふりかえったのは、私もよくしっている井上博士、有名な内科医である。 「その子、病気だったの? 胸の病いかなんか……?」 「病気じゃあないわ。病気じゃあないわ。操ちゃんが肺炎だなんて……さっきまであんなにぴんぴんしてたのに……操ちゃん、しっかりして、操ちゃん、しっかりして……」  人垣のむこうから、生きのこったダンサーの悲痛なさけび声が、|堰《せき》をきっておとしたように聞こえてきた。  舞台の|袖《そで》に張りだしてある掲示板には、 [#ここから2字下げ] アクロバット・ダンス     ナンシー笠原     カロリン笠原 [#ここで字下げ終わり] と、出ているが、それは芸名で、いま死んだダンサーの名は操というらしい。 「先生、毒殺の疑いがありますか。いや、きっと毒殺でしょうねえ」  建彦叔父の声は|咬《か》みつきそうである。 「さあ、それは……解剖の結果を見なければ、責任のある答えはできないが……君、君、この子、なにか自殺するような原因でもあったの?」 「操ちゃんが自殺するなんて、そんな、そんな……それじゃ操ちゃんは殺されたんですの。だれかに毒をのまされたんですの」 「ふむ、まあ、そういう疑いがなきにしもあらずだが、かりに毒殺だとして、君になにか心当たりがある?」 「あっ!」  泣きじゃくっていたダンサーの、|弾《はじ》かれたような声がきこえた。 「それじゃ、あいつだわ。あいつだわ。あいつが毒をのましたのね」 「薫ちゃん、薫ちゃん、君、それをしってるの。操ちゃんに毒をのませたやつをしってるの?」  建彦叔父の声である。叔父はこのふたりをよくしっているらしい。伯父さまと私は思わず顔を見合わせた。 「いいえ、佐竹さん、あたしそれがだれだかしらないの。でも、さっき舞台へ出るまえ、操ちゃんが口をもぐもぐさせているので、何を食べてるのって訊ねたら、いまあちらで、お客さまにチョコレートをいただいたっていってたわ。だからきっとそのチョコレートのなかに、毒がしこんであったんだわ」 「薫ちゃん、しっかりおし。君の妹が殺されたんだ。泣いてるばあいじゃないよ。それで操ちゃん、チョコレートをくれた男……いや、男か女かしらないが、どういうやつだっていわなかった?」 「いいえ、操ちゃん、そんなこといわなかったわ。ただお客さんにいただいたって……あたしもたかがチョコレートのことだから、詳しく聞きもしなかった。佐竹さん、これ、あんたの責任よ。あんたに呼ばれてきたからこんなことになったのよ」  ああ、そうだったのか。あのアクロバット・ダンスは建彦叔父のお祝いだったのか。いかにもちかごろの叔父の趣味らしいと、そのとき、私は何気なく考えたのだが、いまにして思えば、建彦叔父がナンシー笠原とカロリン笠原、すなわち笠原薫と操の姉妹を、その晩そこへ呼んだのには、もっと大きな意味があったのだ。 「わかってる、わかってる。薫ちゃん、おまえの妹のかたきはきっとおれが討ってやる」  叔父の言葉を聞いたとき、私はなぜか|戦《せん》|慄《りつ》が背筋をつらぬいて走るのをおぼえた。まさかそれがじぶんの身の上に大きな関係のあることだとはしらなかったのだが……。      くちなしの花  こうしてはなやかな還暦祝いの席上は、いってんして陰惨な殺人現場にはやがわりした。お客さまたちは三々五々、各自のテーブルにかえって、ひそひそささやきかわしていたが、もうだれも|盃《さかずき》に手を出すひともなく、酒の酔いもさめはてたような顔色で、不安の気が場内にみなぎりわたった。  |伯《お》|父《じ》さまと私がもとの席へかえってくると、品子さまが心配そうに|眉《まゆ》をひそめて、ことの|仔《し》|細《さい》をたずねられた。それにたいして、伯父さまがてみじかにわけをお話になると、品子さまはいよいよ眉をおひそめになって、 「まあ、それではこんやのお客さま、ひとりひとり、おまわりさんに取り調べをうけることになるんでしょうか」  それでは、あまり失礼なという品子さまのお心使いだった。 「さあ、それはどうだかわかりませんね。だって、すでにおかえりになったひともあるようですからね」 「ああ、それはそうね。それではねえ、誠也さん、御婦人がただけでも御自由に、お引き取りねがったらどう? これではあんまり失礼よ」 「ところがねえ、姉さん、あのダンサーにチョコレートをあたえたのが、男か女かわからないんです。ダンサーの姉のことばによると、ダンサーはただお客さんにいただいたといっただけで、相手を男だとも女だともいってないんです。だから御婦人たちに引き取っていただくとすると、男子のかたにもやっぱり御自由にと、申し上げねばならんことになるのです」 「まあ。……どちらにしても、せっかくのお祝いの席上に、とんだことが持ちあがったものですね」  と、いかにも残念そうなお顔色だった。  それにたいして伯父さまは、なんともお答えにならなかったが、むろん心のうちでは同じ思いでいられるだろうと、私もくやしくてならなかった。気がつくと伯父さまは、いつの間にやら赤いベレーとジャンパーをぬいで、モーニング姿にかえっていられる。  ちかくの丸の内署と警視庁から、係官がおおぜい駆けつけてきたのは、それから間もなくのことである。  笠原操の死体はまだ舞台のうえによこたわっていたので、警察からきた医者がそれを調べているのが、私の席から手にとるようにうかがわれる。そのお医者様と井上博士の意見は、完全に一致したらしい。つづいてパチパチ写真がとられ、それから担架がやってきて、死体を楽屋へはこびこんだ。おそらく解剖にまわされるのだろう。  そのあいだじゅう、泣きさけぶ笠原薫をなぐさめているのは建彦|叔《お》|父《じ》だったが、私はそれをみると、なんだかいやな気持ちがしてならなかった。笠原姉妹をこんやの席上へまねいた責任上、叔父が被害者の姉をなぐさめるのは、当然のことかもしれないけれど、なんだかふたりの態度のなれなれしさが、度をこしているように思われるのだ。  何百という眼が見ているまえで、あのグロテスクなアクロバット・ダンサーと、抱きあっている叔父のすがたをみると、私は|羞恥《しゅうち》のために全身が火のように熱くなり、穴があったらはいりたいような気持ちだった。だから、薫が担架につきそって楽屋へ入り、叔父もそのあとを追うていくのをみると、私はほっと胸をなでおろした。  死体がひきとられていくとまもなく、警部の制服をきた人物がふたりの私服をしたがえて、私どもの席のほうへやってきた。 「上杉先生ですね。私はこういうものですが、お目出度い席上でとんだことがおこりましたねえ」  と、差し出した名刺をみると、そのひとは、警視庁捜査一課の|等《と》|々《ど》|力《ろき》という警部らしかった。 「いや、どうも、ご苦労様です。思いがけないことが持ちあがって、私も|面《めん》|喰《くら》っているところです」 「もちろん、先生にはなんのお心当たりもございませんでしょうねえ」 「もちろん。こんやのお客さんのなかに、ああいうダンサーと交渉のあるひとが、おられるとは思えませんからねえ」 「しかし、あの佐竹建彦氏というひとは、だいぶ被害者の姉と、したしいようにお見受けいたしましたが……」 「ええ、そう、あのプログラムは建彦君がお祝いに寄贈してくれたんですが、どの程度のしりあいなのか、わたしはいっこう……」 「あのかたは先生とどういう……?」 「亡くなった家内の弟で、ここにいる|音《おと》|禰《ね》の叔父にあたるわけです」  等々力警部は|赧《あか》くなっている私の顔に、ちょっと眼をはしらせて、 「あのかた、ご職業は……?」 「さあ、なんといいますか、ブローカーみたいなことをやっとるようですな。私にはよくわからんが……」  伯父さまも返事に困ったようだったが、私はふっと不安に胸をさわがせた。  等々力警部はなんだって、こんなにしつこく叔父のことをきくのだろう。ひょっとすると、警部は叔父を疑っているのではあるまいか……。そう気がつくと、そこは肉親のあいだがらだけに、私は不安の念にかられずにはいられなかった。 「ときに、警部さん、死因はやっぱり毒殺ときまりましたか」 「さあ、それは解剖の結果をみなければ、はっきりとしたご返事はできませんが、だいたいそうかんがえてよろしいようですね」  等々力警部がこたえているとき、またホールの外が騒がしくなり、あわただしい警官たちのいきかいのなかに、刑事がひとりとびこんできた。その顔色からして、何かしら容易ならぬことが発見されたらしいことがわかり、場内はさっと緊張する。  刑事はあたりにいあわせたご婦人たちに、手にした白いものを見せてまわっていたが、そのうちに刑事やご婦人たちの眼が、いっせいに私のほうへむけられたのにはおどろいた。刑事はご婦人たちに頭をさげると、テーブルのあいだをぬうて、私のほうへやってくる。刑事がちかづくにしたがって、手にしたものがはっきりしてきたが、それを見ると私は思わず髪に手をやった。  刑事の手にした白いもの……それは私の髪飾り、造花のくちなしの花だった。      相合い傘 「どうしたんだ。何か発見されたのか」 「はっ、警部さん、ちょっとお耳を……」  と、刑事がこわばった顔をして、警部の耳に何やらささやくと、 「な、な、なんだって? そ、そ、それじゃほかにも……」  と、いいかけて、警部ははっと気がついたように、口をつぐんであたりを見まわしたが、そのとき警部の面上にあらわれた、世にもはげしい|驚愕《きょうがく》のいろを、私はいまも忘れることができない。刑事はなおも耳うちをつづけていたが、それを聞いている等々力警部の視線は、いつか私にむけられて、そのままぴたりと動かなくなった。  いったい、どうしたというのだろう。私のくちなしの髪飾りが、なにかこの事件に関係があるというのだろうか。私はなんにもしらないのに……。  刑事の耳うちがおわると、警部はくちなしの花をとって、やおら私のほうへちかよった。 「失礼ですが、お嬢さん、これお嬢さんの髪飾りだそうですね」 「はあ、あの、さようでございます」  満場の視線がじぶんにあつまるのをかんじて、私はかあっと熱くなっていた。 「お嬢さん、これ、どこでお落としになったか、おぼえていらっしゃいませんか」 「いえ、あの、あたし、いままでぜんぜん気がつきませんでした」 「お嬢さんはこのホールから、外へ出ておあるきになりましたか」 「はあ、さっき、アクロバット・ダンスがはじまるとまもなく、なんだか気分がわるくなったので、廊下をぶらぶらと……」 「お嬢さん、それでは恐れいりますが、お嬢さんのおあるきになったところを、ご案内ねがえませんでしょうか」 「警部さん、どうしたんです。|音《おと》|禰《ね》がどうかしたというんですか」  上杉の|伯《お》|父《じ》さまがふしぎそうに、そしていくらか|気《け》|色《しき》ばんで、助け舟を出してくださった。 「いえ、それはあとで申し上げます。お嬢さん、どうぞ」  せきたてられて私はしかたなしに|椅《い》|子《す》から立ちあがる。 「誠也さん、あなたもいってやってちょうだい。どういうわけかしらないけれど、音禰ひとりではかわいそうだから」 「はあ、承知しました。警部さん、わたしもいっしょにいっていいでしょうな」  警部はちょっとためらったのち、 「はあ、どうぞ……。それではお嬢さん」  満場の視線をあびて、テーブルのあいだを縫うていく私は、まるで雲のうえでもあるいているような気持ちだった。ホールから出ようとすると、外からかえってきた建彦|叔《お》|父《じ》にばったり出会った。 「おや、音禰、どうかしたの」 「いいえ、叔父さま」 「兄さん、音禰がどうかしたんですか」 「いや、私にもさっぱりわけがわからんのだが……」 「いや、佐竹さん、あなたもいっしょにきてください」  警部の声にはどこか命令するようなひびきがある。  やがて私はさきほど失礼な男がとびだしてきた、あのドアの外まで一同を案内してきて、 「あたしここまできて、それからあとへ引き返したんです」  刑事がドアのほうへ|顎《あご》をしゃくって、警部になにかささやくと、警部はいぶかしそうに私の顔を眺めながら、 「どうしてここから引きかえしたんですか。ここでなにかあったんですか」 「いいえ、べつに……この廊下、暗うございますし、あんまり遠くまでいって、かえりみちがわからなくなると、困ると思ったものですから……」  ああ、私はなぜここで|嘘《うそ》をついたのだろう。なぜ正直に、無礼な男がこの部屋から出てきたということを、打ち明けることができなかったのだろう。おそらくそれは、|見《み》|識《し》らぬ男を見送っていたという、じぶんのはしたなさに腹をたて、その男のことを口に出すのもいやだったからであろうが、それがために取りかえしのつかぬ疑いをうけようとは!  等々力警部はうたがわしそうに私の顔を|視《み》つめながら、 「お嬢さん、あなたはひょっとすると、この部屋のなかへお入りになったんじゃありませんか」 「いいえ、とんでもない」 「でも、この髪飾りはこの部屋の中に落ちていたんですよ」 「まあ!」  私は眼を|視《み》|張《は》ったきり口もきけない。 「警部さん、この部屋のなかに、いったいなにがあるというんです」  上杉の伯父さまがいささか色をなしてたずねる。 「それじゃ入ってみましょう」  私服の刑事がドアをひらくと、せまい部屋のなかに数名の男がうごめいていた、そのなかに井上博士と、さっきの警察医がまじっているのを見て、私は思わず息をのんだ。  なにかまた、ここにあったのだ!  そこは使用人の宿直室ともいうべき部屋らしく、六畳の部屋のいっぽうに、二段にくぎった棚があり、そこに|行《こう》|李《り》だのトランクだのがつめてある。天井からうすぐらい裸電球がぶらさがっていて、あのはなやかなホテルの裏にも、こんな殺風景な部屋があるのかと思われた。 「先生、それで死因は……?」  くちなしの花をもって私をさがしにきた刑事がたずねた。 「さっきとぜんぜんおなじだよ。右の指にチョコレートのかすがこびりついているんだ」  そういいながら医師と刑事が立ちあがったとき、 「…………!」  私は思わず声なき悲鳴をあげてうしろにたじろいだ。  畳のうえに三十前後の、色の浅黒い、筋骨のたくましい男が、|苦《く》|悶《もん》の形相もものすごく倒れている。派手なアメリカン・スタイルの服装からみると、堅気の職業とは思えないが、その唇から畳へかけて、点々として赤ぐろい汚点がこびりついていた。 「お嬢さん、あなたの髪飾りは、その死体のそばに落ちていたんですよ」  私服の刑事は一句一句に力をこめながら、 「あなた、この男をごぞんじではありませんか」  私はこわごわ男の顔を見なおしたが、ぜんぜん見おぼえのないひとだった。 「いえ、あの、存じません。いままでいちどもあったことのないひとです」 「しかし、それにしちゃ妙ですな。お嬢さんのお名前は音禰とおっしゃるんでしたね」 「ええ、あの、そうですけれど……」 「この男の左の腕に、あなたの名前の|刺《いれ》|青《ずみ》がしてあるんですがね。ほら、ごらんなさい」  私の背後から、上杉の伯父さまと建彦叔父がいっせいに、むきだしになった男の左のかいなをのぞきこんだが、そのとたん、三人の唇からあっというさけびがもれた。  なんと、そこには次のような刺青がしてあるではないか。 ※[#ここに画像]      金田一耕助登場  ああ、しゅんさく、俊作……。  それではこの男こそアメリカにいる玄蔵老人が、私とめあわそうとしている|高《たか》|頭《とう》俊作ではないか。そうだ。きっとそうにちがいない。私の名前とならんだ相合い傘の刺青がなによりもよくそれを物語っている。私はこの男と結婚することを条件として、百億というとほうもない財産を相続することができるのだ。私がこの男との結婚をこばんだら、 「百億という財産はあなたの手からすべり落ちて、ほかのひとへいくことになっているそうです」  いつか黒川弁護士もそういっていたではないか。では、この男が死んだばあいはどうなるのか。恐らく私は相続人の第一候補の地位からのぞかれるのであろう。  さっきも黒川弁護士はこういった。 「この一件、高頭俊作なる人物が一日もはやく見つかって、お嬢さんがその男と結婚することを、同意してくださらなければ、相当、複雑怪奇なことになりそうですよ」  その複雑怪奇な事件はもうはじまっているのだ。さっきのアクロバット・ダンサーの怪死事件も、この事件に関連しているとすれば、それはもはや情痴の殺人とはかんがえられない。百億円の遺産をめぐって、血で血を洗う殺人の幕はすでに切っておとされているのではないか。  さっきから、注意ぶかく私たちの顔色を読んでいた|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部が、そのとき、かるい|咳《せき》|払《ばら》いをして、 「みなさんはどうやらこの男をご存じのようですね。どういうご関係がおありなんですか」 「ああ、いや」  と、上杉の|伯《お》|父《じ》さまは夢からさめたように、 「私たちは誰もまだこの男にあったことはないんです。でも、ひょっとするとこの男こそ、こんや私がここで会うことになっていた、人物ではないかと思うんですが……」 「先生、それはどういう意味ですか。もっと詳しくお話ねがえませんか」 「承知しました」  上杉の伯父さまは落ち着きをとりもどして、 「じつは私岩下三五郎という秘密探偵にたのんで、高頭俊作なる人物をさがしてもらっていたんです。ところがその岩下君がさっきやってきて、こんやまもなく高頭俊作という男がここへくることになっているから、きたらお引き合わせしようと、そういうことになっていたんです。それで私心待ちにしていたんですが……|但《ただ》し、岩下君が紹介しようとしていた高頭俊作なる人物が、はたしてこの男かどうか、それはわたしにもわかりかねる。なにしろ、いちどもあったことのない男だから」 「岩下君なら私も面識がある。すると、岩下君はこのホテルに……?」 「はあ、階下のロビーにいるはずです。高頭俊作なる人物が、やってくるのを見張っているはずだから」  警部のあいずに刑事のひとりがすぐ部屋から出ていった。きっと岩下秘密探偵をさがしにいったのだろう。 「ところで、上杉先生、あなたはどういうわけで、高頭俊作という人物をさがしていらっしゃるんですか」 「それはちょっと……ここでは申し上げかねるんだがね」 「しかし、先生、これは殺人事件ですよ。御存じのことがあったら、包まずいっていただかなきゃあ……」 「しかし、ちょっといまの段階では……」  伯父は心苦しそうに咳払いをした。警部は|憤《ふん》|懣《まん》やるかたなき眼つきだったが、その憤懣のはけぐちは、たちまち私のほうへむけられた。 「お嬢さん、それじゃあ、あなたにお|訊《たず》ねいたしますが、あなたの髪飾りがどうして死体のそばに落ちていたんですか。ひとつそれをご説明ねがえませんか」 「あたし……存じません……。あたし、ほんとうにこの部屋へははいらなかったんです。きっと、この部屋の外の廊下に落としていったのを、だれかがひろってこの部屋へ……」  そんな|曖《あい》|昧《まい》な説明で、納得するような警部ではなかった。何かきびしい調子でいおうとするのを、そばから遮ったのは建彦|叔《お》|父《じ》だ。 「まあまあ、警部さん、かりに|音《おと》|禰《ね》がこの部屋へ入って、そこにいる俊作という男と話をしたとしても、ぜったいにその男を殺すはずがありませんよ。なぜならば……」 「なぜならば……?」 「高頭俊作という男が死んでしまったら、音禰は百億というとほうもない遺産を、相続しそこなうことになるんですからな。あっはっは!」 「な、な、なんですって! ひゃ、ひゃ、百億円の遺産ですって?」  話があまり大きいので、等々力警部をはじめとして、その場にいあわせたひとびとは|面《めん》|喰《くら》ったようである。 「そうです、そうです。ここにいる宮本音禰は、高頭俊作といういままで会ったことも、聞いたこともない人物と、結婚するという条件のもとに、アメリカにいる|親《しん》|戚《せき》から、百億という財産を譲られることになっているんです。だから気がふれたのでもないかぎり、だいじな、だいじな百億円の|旦《だん》|那《な》さまを、殺すはずがないじゃありませんか。あっはっは」 「先生、それはほんとうですか。佐竹さんのいまおっしゃったことは……」 「ほんとうです。まだ詳しいことはわからんのだが……」 「それで高頭俊作なる人物をさがしていられたんですね。いったい高頭俊作というのはどういう人物ですか」 「さあ、それがわたしにもさっぱりわからん。いま建彦君もいったとおり、いままで名前も聞いたことのない人間で……十一歳のときにうつしたという写真を見たきりなんだが……」 「どうでしょう、その写真の面影がありますか」  私たちは改めて死体の顔へ眼をやったが、何しろ|苦《く》|悶《もん》にひっつっているので、はっきりしたことはわからない。しかし、どこかに写真の面影がのこっているようだということに、三人の意見は一致した。 「いや、それは岩下君に聞けば、もっとはっきりするでしょう」  警部のことばもおわらぬうちに、ドアの外からノックする音がきこえた。 「誰……? お入り」  言下に外からドアをひらいて、にこにこ顔をのぞかせたのは、このホテルにふさわしからぬ奇妙な人物である。よれよれのセルのひとえにセルの|袴《はかま》、それにこれまたよれよれのセルの羽織をきて、頭といったら|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭、小柄で、貧相な男だった。  それにもかかわらず等々力警部は、非常なよろこびの色をうかべて、 「あっ、金田一先生、あなたどうしてここへ……」 「いや、ぼくはほかの用事でここへきたんですが、警部さんがきてらっしゃると聞いたもんだから……。警部さん、これはたいへんな事件ですな。三重殺人事件ですな」 「さ、三重殺人事件ですって?」 「そうです。そうです。この裏にあるがらくた部屋へいってごらんなさい。もひとり男が首をしめられて、黒い舌を出して死んでまさ」 「金田一先生、そ、それはほんとうですか」 「ほんとうですとも」 「そして、殺されてるのは?」 「ぼくと同業の岩下三五郎氏!」  電撃のようなショックが、私の体内をつらぬいて走った。その|刺《し》|戟《げき》は私の神経がたえうる限界をこえていたのだ。私はあたりが|朦《もう》|朧《ろう》とかすんでいくのを意識したかと思うと、とうとう、その場に|昏《こん》|倒《とう》してしまったのである。      花散りぬ  それからどのくらいたったのか。  ……ふと正気にかえった私は|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》いちまいで、豪華な寝室のベッドのなかに、寝かされているじぶんを発見した。  部屋のたたずまいから、そこがホテルの一室であることはすぐわかった。|枕《まくら》もとにおいてある腕時計を手にとってみると八時半、あれからまだいくらもたっていないのだ。おそらく、かるい脳貧血と診断されてここへはこばれ、きゅうくつな帯をとかされたのだろう。和服になれない私には、帯をとかされたことはありがたかったが、なんにもしらなかったのが恥ずかしい。  私はベッドのうえに起きなおった。まだ頭がすこしくらくらして、眼がまわるような気がする。  |咽《の》|喉《ど》がやけつくようにひりつくので、枕もとにあった水瓶の水をコップについで飲んだ。こんなうまい水を飲んだことはない。それでいくらか気分がよくなったので、ベッドから出ようとするとき、外のドアがひらく音がして、だれかとなりの部屋へ入ってきた。警官か、それとも|伯《お》|父《じ》さまか建彦叔〈〉|か品子さまか。 「どなた……?」  と、声をかけたが返事はなく、ドアをしめて鍵《かぎ》をまわす音がする。私がぎょっと息をのんでいると、寝室のドアがひらいて、そこからにやっと顔をだしたのは、ああ、なんとさっき殺しのあった部屋から、とびだしてきたあの男ではないか。  私は恐怖のために心臓が、咽喉からとびだしそうな気がし、ひしと毛布を胸のまえにかきいだいた。  男はそういう私のようすを、|舐《な》めるように見まわしながら、うしろ手にドアをしめると、またガチャリと鍵をまわす。私は恐怖の本能で、全身に何千何万本という針を、さされるような|疼《うず》きをおぼえた。 「あなたはだれ……? ど、どうしてここへきたんです」 「見舞いにきてやったんだよ。これから君の介抱をしてあげようと思うんだ」  介抱ということばを口に出すとき、熱をおびた男の|瞳《め》がいやらしい欲望にかがやき、唇がにやりと|歪《ゆが》んだ。 「いやです。いやです。出ていってください。さもないと大声を出してひとを呼びますよ」 「だめだよ。いくら大声を出したところで外へきこえやあしない。防音装置だ。|睦《むつ》|語《ご》が外へもれるような、そんなちゃちなホテルじゃない。ほら、ダブル・ベッドじゃないか」  男はゆうゆうと上衣をぬぎ、ネクタイをはずし、ワイシャツをぬぎはじめる。私は死にものぐるいであたりを見まわしたが、ベッドとドアのあいだには、男のたくましい体が立ちはだかっている。とても逃げるすべはない。 「助けてください。堪忍してちょうだい。あなたはいったいあたしをどうしようというの」 「だから介抱してあげようというんじゃないか。|音《おと》|禰《ね》、おれはおまえに|惚《ほ》れたんだ。ひと眼惚れしちゃったんだ。音禰、おまえもおれに惚れたんだろう」 「|嘘《うそ》です。嘘です。そんなこと……」 「だって、おれのあとを見送ってたじゃないか。おれに|見《み》|惚《と》れて、くちなしの髪飾りをおとしたのも気づかずにさ」 「ああ、それじゃあなたなのね。それをあの部屋へ投げこんで、あたしに罪をきせようとしたのは」 「あっはっは、そんなことはどうでもいい。さあ、抱いてあげよう」  男は靴をぬいでベッドのなかへ入ってくる。 「あれ、助けてえ……堪忍して……悪党! 悪者! |卑怯《ひきょう》者!」  息づまるように強いたくましい男の羽がいじめのなかで、私は全力をあげてもがいた。抵抗した。こんな男に犯されるくらいなら、死んでもいいとたたかった。  しかし、|所《しょ》|詮《せん》は男と女の力である。それは悪夢の|闇《やみ》と楽園の光の交錯した、世にも複雑にして微妙なひとときだった。  男がやっと汗ばんだ私の体をはなしたとき、私はその場に泣きくずれた。 「悪党! 悪党! 卑怯者!……」  私は枕のはしをかみながら、むざんに散った私の|蕾《つぼみ》の花をいとおしみながら、心のなかでさけびつづける。男はゆうゆうと身づくろいをととのえると、 「音禰、おまえはもうおれのものだぜ。おまえの体には、もうおれという男の|烙《らく》|印《いん》がはっきり押されているんだ。そのことを忘れちゃいかんぜ。また、会おう」  男が出ていこうとするのを、私は涙のいっぱいたまった眼をあげて、 「ちょっと待って」 「なにか用かい?」 「あなたはだれです。せめて名前をきかせて……」 「名前か。名前なんてなんとでもつけられる。しかし、ほんとうの名前は|高《たか》|頭《とう》五郎」  私はぎょっと眼を|視《み》|張《は》る。 「あっはっは。気がついた? さっき宿直室で殺された高頭俊作のいとこさ。だけど、こんど会うときには、ちがった名前を名のってるだろうよ。じゃあ、おやすみ」  この恐ろしい悪党はかるく頭をさげて部屋から出ていった。私はまたベッドのうえに泣きくずれる……。      嵐の爪跡  上杉の|伯《お》|父《じ》さまの還暦祝いの一夜を境として、わたしの人生は一変した。  それまでの私はこのうえもなく幸福だった。私は若さと健康にめぐまれ、しかも、じぶんでいうのはおかしいけれど、ひとは私を美しいという。両親のないのは|淋《さび》しいが、そのかわり、上杉の伯父さまや品子さまが、こよなく私を愛してくださる。  私はそれまで不正だの、邪悪だの、不倫だのという言葉とは、無縁のものとして成長してきた。|浄《きよ》く、正しく、美しくというのが私の母校のモットーだったが、私はそのモットーのとおり育てられ、しつけられてきた。私はいままで秘密というものを持ったことがない。それがあの一夜を境として、世にも|呪《のろ》わしい秘密をいだく身になったのだ。  春の夜の|嵐《あらし》にもにた暴力は、むざんにも私の純潔をうばいさった。しかも私は回想する。あのとき私は全力をつくして、さいごまで抵抗しただろうか。いやいや、男のたくましい暴力に屈して、われしらず謀反人のくわだてに力をそえ、みだらがましい歓楽に、身をおぼらせていたのではないか。  ああ、私は舌をかみきって死んでしまいたい。  この呪わしい経験は、私の肉体にとっても精神にとっても、あまりにも大きなショックだった。私はその後三日ばかり、高熱を発して寝込んでしまった。しかも熱にうかされる夢のなかまで、あの夜のさまざまな恐ろしい経験が追っかけてくるのだ。くねくねと身をくねらす二匹の白蛇……白蛇の唇からしたたり落ちる血のしずく……相合い傘の|音禰俊作《おとねしゅんさく》……。それからさいごに、眼のうえにせまってくる男の唇……。 「悪党!……悪党!……」  私はあえぎ、身もだえするひょうしに気がついて眼をひらくと、品子さまが心配そうに、うえから顔をのぞきこんでおられた。 「音禰、気がついたの。何か恐ろしい夢を見ていたようね」  品子さまはいつものとおりおやさしいが、呪わしい秘密をもつ私には、そのおやさしいお言葉さえ、針のように胸をさす。 「ああ、おばさま、あたし何かいって?」  ひょっとするとうわごとで、秘密を口走ったのではないかと、私は品子さまの顔色をさぐらずにはいられない。 「いいえ、べつに……」  と、品子さまは言葉をにごして、 「音禰や。何も心配することはないんですよ。誰もあなたを疑っているひとなんかいないんですからね。少し|刺《し》|戟《げき》が強すぎたのでむりもないけど、気をとりなおして、はやくもとの体になってちょうだいね」 「おばさま、すみません」  私のショックの原因を、事件のせいだとばかり思いこんでいられる品子さまのお言葉に、私も|安《あん》|堵《ど》の胸をなでおろした。 「おばさま、警察から何かいってきて?」 「音禰や、そんなこと気にしなくてもいいのよ。それよりいまは安静がだいいち、なにもかも忘れていらっしゃいね」  ほんとにそうだと私も思う。これ以上取り乱して、うっかりうわごとで秘密をもらしては一大事だ。私はよほどしっかりと、気をひきしめていなければならぬ。  それが事件から三日目のことで、その後もはかばかしく熱はとれなかったけれど、うわごとをいうほどのこともなく、十日ののちには、床をはなれることができるようになった。  品子さまはできるだけ私を刺戟しないようにと、おだやかな口調でその後のなりゆきを語ってくだすったが、それによるとこうである。  あの殺風景な宿直室で殺されていたのは、やはり|高《たか》|頭《とう》俊作だった。高頭俊作はさるジャズ・バンドで、トロンボーンやサキソフォーンを吹いていたそうだが、かなり|放《ほう》|蕩《とう》|無《ぶ》|頼《らい》な生活をしていたらしく、関係していた女なども五指にあまるという。 「だからねえ、音禰、いくら|莫《ばく》|大《だい》な財産がついているにしても、そんなひとと結ばれるというのはねえ……。それはあなたにとっては、惜しいことは惜しいけれど」 「いいえ、おばさま、あたしかえってさっぱりしたような気持ちです。それはどんなひとにしろ、お亡くなりになったのを、よろこぶのはいけないことですけれど……」 「ほんとにねえ。でも、これも運命ね」 「それでおばさま、高頭俊作というひと、なぜ殺されたということになってるんですの。やはり遺言状が原因で?」 「さあ、それはまだよくわからないらしいわね。婦人関係のいろいろあるひとだから、そのほうじゃないかという説もあるそうだが、それじゃ岩下三五郎というひとが、どうしていっしょに殺されたのか……。そういうところから、やはり遺産問題が関係しているんじゃないかと……」 「でも、おばさま、変ねえ。遺産問題が関係しているとしても、岩下三五郎というひとを、どうして殺さねばならなかったのかしら」 「音禰、わたしもそう思うのよ。でも、こういうこと、女にはわからないわね」  私はしばらくだまって考えていたが、また思い出して、 「おばさま。あのアクロバット・ダンサーね。あのひとはなぜ殺されたんでしょうねえ」 「ああ、それはこういうことになってるの。犯人はあの部屋へ入るところか出るところを、操という娘に見られたんじゃないかって。それだとすると、あとであの部屋から死体が見つかると、犯人にとって都合が悪いわね。そこで操という娘の口をふさぐために、ああいうことをしたんじゃないか。……」  私は思わず身ぶるいが出る。  ただそれだけのために人殺しをするとは……しかし、それもあの男ならやりかねない。私の口を封じるために、処女の命ともいうべき、純潔の花をむしりとっていった男だもの。品子さまはだまって私の顔を見ていられたが、やがて心配そうに声をおとして、 「音禰、まさかそんなことはあるまいと思うが、あなたこんどのことで、何かかくしているようなことはないでしょうねえ」 「あら、おばさま、どうしてそんなこと……」 「いいえ、わたしはそんなこと信じないんですけれど、金田一耕助というひと……音禰も会ったでしょう。ほら、|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭をしたひと……」 「ええ、あのひと、どういう……?」 「あれでなかなかえらい探偵さんなんだってさ。ところが、あのひとのいうのに、死体のそばに落ちていたくちなしの花ね。あれはあなたに罪をきせるためじゃなく、あなたにだまっているようにって暗示じゃないか。口無しだからね。したがって、お嬢さんはなにかしってるんじゃないかというんだけれどね」 「あら、いやだ!」  と、口ではいったものの、私は顔から血の気がひいていくのをどうすることもできなかった。      金田一耕助との闘い  健康を|恢《かい》|復《ふく》したのはよかったようなものの、そのために私はまた、わずらわしい警察官の|訊《じん》|問《もん》にさらされなければならなかった。  この事件の担当は|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部らしく、私の健康が恢復したときくと、さっそく部下をつれてやってきたのはよいが、あのもじゃもじゃ頭の探偵さんがいっしょだったのには、私も眼を見張らずにはいられなかった。  この取り調べには私の身を気づかって、上杉の|伯《お》|父《じ》さまや品子さまも立ち会ってくださったが、警部の質問の要点は、依然としておなじことだった。私がどうしてあの部屋のまえから、引きかえしたかというのだが、それにたいする私の答えもおなじことである。 「いつかも申し上げましたとおり、あまり遠くまでいって、かえりみちがわからなくなると困ると思ったものですから」 「それじゃ、お嬢さん、あまり偶然がうますぎやあしませんか。ひょっとすると、あなたの|良人《お っ と》になったかもしれないひとが、殺されている部屋のまえまでくると、きゅうにひきかえしたくなるというのは……」 「虫でもしらせたかな」  刑事のひとりが茶化すようにつぶやいたので、私はむっとしてそのひとを|睨《にら》んでやった。それから等々力警部のほうにむきなおって、 「ねえ、警部さま。かりにあたしがあのお部屋について、何かうしろ暗いことをかくしているとすれば、あたしあのお部屋のまえまで警部さまを、ご案内しなかったでしょう。おなじあの廊下へご案内したとしても、もっとさきまでおつれするか、もっと手前でひきかえしたと、|嘘《うそ》を申し上げたほうが安全だとはお思いになりません? それに……」  と、いいかけて、私はぴたりと口をつぐんだ。金田一耕助という男が、もじゃもじゃ頭をかきまわしつつ、にやにやしながら、私の顔を見ているのに気がついたからだ。 「それに……お嬢さん、それに……どうかしたんですか」 「いいえ、あたしそれ以上申し上げることはございません」 「お嬢さん、それはいけませんよ。いいかけたことを途中でおよしになるものじゃありません。ことにこんなだいじな場合にはね」 「|音《おと》|禰《ね》、警部さんのおっしゃるとおりだよ。申し上げたいことがあるなら申し上げなさい」  上杉の伯父さまが、はたからおだやかに注意してくだすったので、 「はい、べつに大したことではないのですけれど、あのくちなしの花ですわね。あたしあれをどこで落としたのか、ほんとうにおぼえがございませんの。でも、あのお部屋でないことだけははっきりしております。あたしあのお部屋へは、ぜったいに入らなかったんですから」 「お嬢さん、お嬢さん、われわれはなにもあなたがあの部屋へ、お入りになったとは思っていないんですよ。ただ、くちなしの花をひろって、あの部屋へ持っていった人物について、もしや何かお心当たりでも……」 「いいえ、存じません」  と、私は言下にいいきって、それから金田一耕助のほうへ、挑戦するような眼をむけた。 「金田一先生、あなた金田一先生でいらっしゃいますわね」 「はあ、ぼ、ぼく、き、金田一耕助です」  だしぬけに声をかけられて、金田一耕助はちょっとあわを食ったらしく、少しどもって、それからもじゃもじゃ頭をペコリとさげた。 「こちらにいらっしゃる、おばさまからうかがったのですけれど、あなたはあのくちなしの花を、あたしにだまっているようにとの犯人の暗示じゃないかと、疑っていらっしゃるそうでございますね」 「はあ、そう申し上げたことは申し上げました」 「かりにあなたのおっしゃるとおりだとしても、あたしのような|頭脳《あたま》のわるい女に、そんな|謎《なぞ》が通じるでしょうか」 「あたしのように頭脳のわるい女……?」  おうむがえしにそういいながら、私の顔をまともからみて、金田一耕助はにやりとわらった。 「あっはっは、失礼しました。しかし、お嬢さんも少しご|謙《けん》|遜《そん》がおすぎになったようですね。あなたが非常に頭脳のするどいかただってことは、われわれみんな存じております。あなたの学校はじまって以来の、才色兼備の|才《さい》|媛《えん》でいらっしゃるということは、もっぱら評判のようですからね」  私は額ごしに金田一耕助の顔をにらんだ。どうしてこんなことをいいだしたのだろう。気をつけなければならぬ。そこに何か|罠《わな》が設けてあるのではないか。 「だからね。じつはぼく、不思議に思ってるんですよ」 「どういうことでしょうか」  罠におちまいと気をつけながらも、あいての思わせぶりな口のききかたに、私はついそう|訊《き》きかえさずにはいられなかった。 「いいえ、あなたは才媛でいらっしゃるのみならず、たいへん気性のしっかりしたかただともうけたまわっているんです。それがあれだけのショックに熱を出して、十日もおやすみになるというのはね、まさかあなたのようなかたが、夢のような百億円をふいにして、失望されたわけじゃないでしょうからね」  ああ、それこそ私にとっていちばん痛いところなのだ。ひょっとするとこのひとは、あの|呪《のろ》わしい寝室での出来事を、しっているのではあるまいか。  しかし、私は敗けてはおれぬ。疑いぶかい警部や刑事たちの眼のまえで、このままだまってはいられない。 「金田一先生、あなたってずいぶん、同情のないかたでいらっしゃいますのね」 「あっはっは、失礼。でも、どういう意味で?」 「なるほど、あなたはああいう死体、いやというほど見慣れていらっしゃるのでしょうけれど、あたしは女でございますのよ。まだ学校を出たばかりの、いわば箱入り娘でございますの。それがひとばんに二度も死体を見せつけられて、しかも、見もしらぬ男のひとの腕に、じぶんの名まえが彫られているのを見せつけられてごらんなさい。たいていのショックじゃございませんわ。あなたのように同情のない見方をなさるかたが、この事件に関係していらっしゃるとすれば、あたしうっかり病気もできませんのね」 「あっはっは、いや、これは失礼しました」  金田一耕助はペコリと頭をさげると、何思ったのか、私はそのままにして上杉の伯父さまのほうへむきなおった。 「ときに、上杉先生」 「はあ……」 「先生はあの晩、秘密探偵の岩下氏から、佐竹建彦氏のことをお聞きになりませんでしたか」 「建彦君のことを……?」  と、伯父さまは眼をまるくして、 「それじゃ、岩下氏は建彦君をしってるんですか」 「しってるはずですよ。佐竹建彦氏も岩下氏に、何か依頼した形跡があるんですよ。どうやらいまアメリカにいらっしゃる、佐竹玄蔵氏の血縁のものを、探してもらいたいというようなご依頼だったらしいんですがね」  金田一耕助のその言葉は、あきらかに私に聞かせるためのものらしかった。それじゃ金田一耕助は私のかばっているのを、建彦叔父だと思っているのか。私は思わず微笑ののぼってこようとする唇を、しかし、金田一耕助の視線に気がつき、あわててきっと結びなおした。  こうしてゆくりなくも私は、名探偵の評判たかいこの男、金田一耕助をむこうにまわして、たたかわねばならぬ運命におかれたのだった。     第二章 恐ろしき群像  アメリカから玄蔵老人の遺言状の詳細な内容が、黒川法律事務所へとどいたのは、それからまた二週間ほどのちのことだった。  そのころ私は致命的な恐怖からやっと解放されて、いくらか胸をなでおろしていたところだった。私の致命的な恐怖……それは妊娠にたいする恐怖である。  あのとき妊娠したのではないかという恐怖は、どすぐろい|焔《ほのお》となって、私を焼きつくすかと思われた。くる日もくる日も、私はじぶんの胎内を|凝視《ぎょうし》しつづけた。あのときの、けがらわしい快楽の結果がそこに芽生えているとしたら……。それを思うと、私は気もくるわんばかりの恐怖にとらわれた。それだけに、あの現象が順調に起こりはじめたときの私のよろこび! 私はようやくいくらかもとの朗かさをとりもどし、|伯《お》|父《じ》さまや品子さまの顔もまともに見られるようになった。  玄蔵老人の遺産問題が第二段階へ進展したのは、ちょうどそのころのことである。  ある日、伯父さまのお呼びに書斎へいくと、伯父さまは品子さまとむかいあって、むつかしい顔をして|坐《すわ》っていられた。  私はいままでいちども、この伯父さまの|風《ふう》|貌《ぼう》を描写する機会をもたなかったから、ここで簡単に述べておこう。  上杉の伯父さまはお年こそ六十一歳、身長も五尺四寸くらいだが、柔道五段というお体は堂々として、色は浅黒いほうだが、なかなかの好男子である。  さて、伯父さまはやさしく私を見ながら、おだやかに切り出された。 「|音《おと》|禰《ね》、例の玄蔵老人の遺産問題だがね」  私はぎくっとして眼をふせる。肩がすこし小刻みにふるえた。 「どうしたの、この話、聞くのいやかい」 「いえ、あの、どうぞ」 「そう、じゃ話そう。じつはこのあいだ黒川弁護士のところへ、遺言状の詳細な写しがとどいたんだ。そのうえ、遺言状に書きこまれているひとたちの居所も、ぜんぶ判明したので、明日午後二時、黒川君の事務所へ関係者ぜんぶをあつめて、遺言状の内容を発表しようというんだが、どうだろうねえ」 「どうだろうとは……?」 「いや、おまえもいくかってことだがね」 「伯父さま、おばさま、あたしもいったほうがよろしいでしょうか」 「それは、音禰、いったほうがよかあない。誠也さんもいっしょにいってあげてもよいといってるんだから」 「ああ、伯父さまもいっしょにいってくださるなら」  私もほっと|安《あん》|堵《ど》の胸をなでおろした。 「伯父さま、佐竹の|叔《お》|父《じ》もくるんでしょうね」 「それはもちろん、あのひとはおまえより、玄蔵老人にちかいわけだからね。でも、音禰はどうしてそんなこと聞くの」 「いえ、あの、だって、ねえ、伯父さま。あたしなんだかあの叔父がこわくって……。あのひとなんだって秘密探偵にたのんで、玄蔵というひとの血縁をさがしたりするんでしょう」 「それはねえ、音禰。やはり一種の好奇心からだろうよ。あの男|冒険家《アドヴェンチュラー》だから、こういう話が面白くてたまらないんだ。だけど根は善人だから、|怖《こわ》いなんていうもんじゃないよ。おまえにとっては肉親の叔父なんだから」 「音禰はなにかあのひとを、恐れる理由でもあるの」  品子さまは私のうわごとを聞かれたのにちがいない。慎しみぶかいかただから、口に出してはおっしゃらないが、私の叫んだ悪党という言葉を、建彦叔父と解していらっしゃるらしい。  こうしていよいよ、あの運命の十月二十八日がやってきたのだ。いまにして思えばこの会合こそ、これからお話しするかずかずの流血の最初の幕あきをしらせる|柝《き》の|頭《かしら》だったのだ。それにくらべると国際ホテルの三重殺人事件は、たんなるプロローグにすぎぬ。  それはさておき、私が伯父さまにつれられて、黒川法律事務所のかなりひろい応接室へ足を踏みいれたとき、そこには十人の男女が、ぎこちない群像をかたちづくっていた。  この十人のうち顔|見《み》|識《し》りなのは、弁護士と建彦叔父のふたりだが、ほかにもうひとり、もじゃもじゃ頭の金田一耕助が、安楽|椅《い》|子《す》にふんぞりかえっているのにはおどろいた。このひとはどうしてこんなにどこへでも、出しゃばりたがるのだろうかと、私は反感をおぼえたので、相手が|挨《あい》|拶《さつ》しようとするのも無視して、ぷいと横をむいてやった。建彦叔父が白い歯を出してにやりと笑う。  さて、席がきまると、私はそっと部屋のなかを見まわす。  ここにいる十二人のうち、上杉の伯父さまと黒川弁護士、それから金田一耕助をのぞいた九人が、遺言状に書きこまれたひとびとなのだろうか。そこで私は建彦叔父とじぶんをのぞいた他の七人を観察する。  まず、いちばんに眼についたのは、脂肪のかたまりのような四十女だ。まっ紅なイヴニングの胸もあらわに、大きな乳房のふくらみを露骨にみせ、赤くそめてパーマをかけた髪の毛が、やまあらしのように逆立っている。どぎつい化粧に赤くぬってとがらせた|爪《つめ》、なにからなにまでただ恐ろしいの一語につきる。  このプロ・レスラーのような女は、ずっしりと安楽椅子にめりこんで、スパスパと煙草の煙を輪にふきながら、無遠慮な眼でジロジロ私の顔を見ているが、その背後には|二十《はたち》前後の|華《きゃ》|奢《しゃ》な青年が立っていて、右手を女の肩におき、左手で女の左手を握っている。男らしいところはみじんもないが、色白の美少年。むろん親子ではないらしい。  少年は|舐《な》めるような視線で私を見ていたが、やがて女の耳に口をよせて、甘えるようになにかささやくと、ふたりともくすんと笑って私の顔を見なおした。  私はあわてて眼をそらす。  このふたりから少しはなれた長椅子に、四十五、六の精力的な男が、ふたりの女を左右にかかえるようにしてふんぞりかえっている。粗いスコッチの洋服の胸に金鎖、指にも太い金の指輪。それだけでも人柄がわかりそうだが、それよりも問題なのは左右にはべっているふたりの女だ。  これはあきらかに|双《ふ》|生《た》|児《ご》だろう。|瓜《うり》ふたつといっていいほどよく似ている。年齢は私とおなじくらいだろうが、派手なスーツにどぎつい化粧、これまた爪を|紅《あか》くそめているのだが、それがあまり目立たないのは、そばにいる女プロ・レスのせいらしい。  さて、その三人からすこしはなれたところに、みすぼらしいワン・ピースを着た少女が、しょんぼりと立っている。年齢は十六、七というところだろう。器量はわるくないのだけれど、いかにも顔の|色《いろ》|艶《つや》が悪い。その少女の肩をだくようにして、なにかささやいているのは、頭を角刈りにした四十五、六の大男で、洋服をぬぐと全身に、|刺《いれ》|青《ずみ》でもありそうな感じの人物である。  以上七人のつくる奇妙な、そしてなんとなく無気味な群像を、私はそれとなく観察していたが、そのとき双生児を左右にかかえた金鎖の男が、懐中時計を出してみて、 「先生、そろそろはじめていただけませんか。このふたりには舞台がありますんで」 「いや、もうしばらく……。もうひとり、来なければならぬ人物があるもんですから」  と、黒川弁護士が置き時計に眼を走らせたときである。応接室の入り口から姿をあらわしたふたりづれの男女をみて、私は思わず椅子からとびあがりそうになった。  なんとそれはアクロバット・ダンサーの笠原薫と、それから、ああ、あの男、私を犯した悪党、|高《たか》|頭《とう》五郎ではないか。      佐竹一族  私はそのときこの男が、笠原薫といっしょだったことを感謝する。そうでなかったら、私のおどろきから金田一耕助は、その男と私の関係を|嗅《か》ぎつけたかもしれぬ。上杉の|伯《お》|父《じ》さまも笠原薫の出現に、いたくおどろかれたので、私のおどろきも彼女のせいと受け取られたらしい。私はほっと汗ばんだ|掌《てのひら》でハンケチを丸めた。 「先生、笠原さんをおつれしてまいりました」  高頭五郎はこのあいだとまるでちがった態度で、黒川弁護士に|挨《あい》|拶《さつ》をしている。私はしかし、もう眼を見張ったり、|呼《い》|吸《き》をはずませたりはすまい。この男を路傍の石と黙殺しなければならぬ。相手も私に眼もくれなかった。 「ああ、堀井君、ご苦労。これでみなさんお|揃《そろ》いになったようだが、君、いちどよくたしかめてみてくれたまえ」  黒川弁護士はなんのくったくもない調子だ。高頭五郎は眼で一同をかぞえると、 「はい、先生、これでみなさんお揃いでございます。まちがいはございません」 「ああ、そう、それじゃ君はここにいてくれたまえ。金田一さんに紹介しておこう。ここにいるのは堀井敬三君といって、年齢はわかいがこういう調査はとくいの男で、上杉のお嬢さんや佐竹氏はべつとして、ほかの五人の佐竹家の一族をさがしだしてくれた人物です。こんごもひとつよろしく」 「ああ、そう、それは、それは……」  いつかホテルの寝室で私を犯して立ち去るとき、この男はこういったではないか。こんど会うときは、きっとちがった名前を名のっているだろうと……。果たしてここでは堀井敬三と名のっているらしい。したがって、私もこれからこの男を堀井敬三と呼ぶことにしよう。  それはさておき笠原薫は、一同のなかから建彦|叔《お》|父《じ》を見つけると、びっくりしたように眼を|視《み》|張《は》ったが、すぐうれしそうにかけよって、くずれるように叔父の腕のなかに身を投げだした。 「あっはっは、薫、おどろいた? おれたちは|親《しん》|戚《せき》になってるんだぜ。あっはっは、まあ、そこへおかけ。みなさんが見ていらっしゃるじゃないか」 「佐竹さんはそのかたが、玄蔵老人の血縁のひとだと、まえからご存じだったのですか」  金田一耕助がそばから|訊《たず》ねた。 「ええ、知ってましたよ。だからこそ、これの妹の操が殺されたときあんなに憤激したんです。だからねえ、金田一さん、あなたの考えはまちがってると思うんです。操は犯人があの部屋へ、出るところか入るところかを目撃した。……ただ、それだけのために殺されたんじゃない。犯人ははじめから、操を|狙《ねら》っていたんじゃないかと思うんです」 「それはどういうわけで……」 「むろん、玄蔵老人の血縁のものを、できるだけ少なくしておくためです。そのほうが遺産相続の確率がふえますし、あるいは分け前が多くなるかもしれませんからね」 「しかし、そのじぶんにはまだ、黒川さんさえ、遺言状の内容をご存じなかったんですよ」 「だから、犯人はきっとヤマを張ったんでしょう。ひとつの大バクチですね。また大バクチをやるだけの値打ちのある額ですからな」 「佐竹さん、まるであなたご自身のことをいってらっしゃるようですね」 「あっはっは! まあ、そうおっしゃるだろうと思ってましたよ。しかし、お気の毒ながらぼくじゃあない」 「ときに、佐竹さん、笠原姉妹が佐竹一族のものだとは、どうしておしりになったんですか」 「むろん、岩下三五郎氏に調査してもらったんですよ。岩下氏はそこにいる堀井君ほど敏腕じゃなかったとみえ、この姉妹しか発見することができなかったんです」 「あなたは玄蔵老人の血縁のひとたちをさがして、どうなさるおつもりだったんですか」 「どうするって、面白いじゃありませんか。大金持ちの遺言状のなかに、書きこまれているかもしれない親戚をさがし出すなんて、一種のスリルですよ。あっはっは」  私はもうこれ以上、この恐ろしい問答をきくにたえなかった。 「黒川先生」 「はあ……?」 「いま先生はわたしと佐竹の叔父さまはべつとして、五人の佐竹家の一族……と、おっしゃいましたが、それじゃそこにいらっしゃるかた、みなさんがそうというわけじゃないんですか」 「ああ、そうそう、それじゃ紹介しましょう。堀井君、あの刷り物をくばってくれたまえ」 「はっ」  堀井敬三は立ちあがって、謄写刷りの刷り物を一枚一枚くばってあるいた。私のところへいちばんさいごにやってきて、 「お嬢さんも一枚どうぞ」  と、そういいながら刷り物のほかにもうひとつ、小さく折った紙をすばやく私の手に握らせる。私はどきっとして、金田一耕助のほうへ眼を走らせたが、さいわいかれは刷り物に眼をおとしているので気がつかなかった。 「じっさいはもっと複雑なんですが、跡のなかったところや、絶えたところは省略しておきました。で、現存しているひとといえば、笠原薫さんに島原明美さん、佐竹由香利さんに根岸|蝶子《ちょうこ》さんと花子さんのご姉妹、それだけが玄蔵老の長兄、彦太さんのすえで、次兄善吉さんの血統としては、佐竹建彦さんと宮本|音《おと》|禰《ね》さんと、以上七人しか玄蔵老人の血縁のひとっていないわけです」 「案外人間ってふえないもんだな」 「それはね、佐竹さん、やはり戦争のせいですよ。当然、このリストにのるべき男性が六人、あの戦争で死んでるんです」 「なるほど、すると戦争というやつもまんざらでもないな」  建彦叔父はどくどくしくわらうと、 「で、この七人をどうしようというんですか」 「それなんですがね。玄蔵老人としては、高頭俊作なる人物に、ここにいられる音禰さんをめあわせて、文句なく百億という財産を譲るおつもりだったんです」      覆面の脅迫者  百億という数字をきいて、一座はにわかにざわめき立った。むろん、このひとたちもここへくるまえに、だいたいの話をきいてきたにちがいないが、いま改めて信頼すべき弁護士の唇からそれをきくと、あらたな実感にせまられて、興奮せずにはいられないのだ。  脂肪のかたまりのような女プロ・レスは、ものすごい眼をして私を見る。あとでわかったのだけど、これが島原明美という女で、|双《ふ》|生《た》|児《ご》の姉妹はいうまでもなく根岸|蝶子《ちょうこ》と花子である。そして、あのみすぼらしい服装の少女こそ、佐竹家の直系、佐竹由香利なのである。 「しかし、いかに玄蔵老人が希望しても、これはもう実行不可能なことですから、当然の結果として、第二の条項が生きてくる」 「第二の条項というのは……?」  蝶子と花子を左右にかかえた男が、するどい眼つきで切りこむように質問する。のちにわかったところによると、この男は蝶子と花子の姉妹いっしょに愛人にしている男で、名まえは志賀雷蔵という。 「その第二の条項というのは、第一の条項が実行不可能なばあい、百億……と、いっても相続税やなんかで、半分以下になりましょうが、それを七人のかたがたに……|高《たか》|頭《とう》俊作君や操さんを加えて九人だったのですが、あのふたりは死んでしまったから……残りの七人に、均等に分配したいというご意志なんです」  針が落ちてもわかるような静けさが、閉めきった応接室のなかにしいんとみなぎりわたった。その静けさのもつ恐ろしい意味を、私ははっきりしっている。私が思わず上杉の|伯《お》|父《じ》さまをふりかえると、伯父さまもいくらか興奮していらっしゃったが、それでもおだやかな微笑をかえしてくださった。 「ママ! ママ!」  とつぜん、美少年が島原明美の肩に両手をおいて、はげしくうしろからゆすぶった。|頬《ほお》をまっ|紅《か》にそめて、興奮に眼をぎらぎらと光らせている。 「わかってるわよ、史郎ちゃん」  と、島原明美は肩におかれた少年の手を、力強く握りかえしてやりながら、 「ママはどんなにお金持ちになっても、あんたを捨てたりなんかしやあしないからね。あんたこそ浮気しちゃあだめよ。ほっほほっほ」  わたしは全身がムズかゆくなるような|羞恥《しゅうち》をおぼえた。島原明美は黒川弁護士のほうへしなをつくって、 「そして、先生、その分配というのはいますぐのことでございますの」 「いや、それがいますぐというわけにはまいりません。玄蔵老人はまだご存命なんですからね。つまり玄蔵老人百年ののち、はじめてこの遺言状が効力を、発揮するということになっているんです」 「それじゃあ、その|爺《じい》さん、いや、玄蔵さまとおっしゃるかた、まだお元気ですの」 「いや、いちじは重態をつたえられていたんですが、ちかごろまた持ちなおされて、目下小康状態なんですね。しかし、なにしろ百歳にちかいご老体ですから……」 「なるほど。ところで、先生」  と、体をのりだしたのは、蝶子と花子のパトロン志賀雷蔵で、かれはいま|臆《おく》|面《めん》もなくふたりの女を、左右の腕でかかえこんでいる。 「もし、かりに……かりにですよ。玄蔵老人がお亡くなりになるまえに、つまりその遺言状が効果を発揮するまえに、ここにいる七人のうちのひとりでも欠けたら……つまり、その……不吉なことをいうようだが、ひとりでもふたりでも、死ぬようなことがあったら……」  私はぎくっとして志賀雷蔵の顔を見直し、それからそっと堀井敬三のほうへ眼を走らせた。敬三は歯をむきだしにしてにやにやしながら、それとなく建彦|叔《お》|父《じ》の顔を見ている。私はなにかしら、|肚《はら》の底がかたくなるような感じだった。 「そのときは……それだけ残りのかたがたの取りぶんがふえるわけです」  一同はまたシーンとだまりこむ。あとになって私は思いあたるのだが、あの恐ろしい沈黙のなかから、その後あいついで持ちあがった流血の種子が芽生えたのだ。 「あっはっは、こいつは面白えや!」  と、|弾《はじ》けるような声をあげたのは、鬼頭庄七といって、哀れな由香利の養父である。 「そうするとなんですかい、ここにいる六人がみんな死んじまって、この娘ひとり生きのこったら、百億という財産は、まるまるこの娘のものになるんですかい」 「そう、そういうわけですね。ですからみなさんは非常に幸運にめぐまれていらっしゃる、と、同時に、いっぽう大きな危険にさらされているわけでもあるんです。|殷《いん》|鑑《かん》とおからず、先日、殺害された高頭俊作君や操さんの例もありますからね」  一同はまたしいんとだまりこむ。  由香利は小鳥のように体をふるわせ、女プロ・レスの島原明美は|牝《めす》|獅《じ》|子《し》のような眼をして、ひとりひとりを|睨《にら》みつける。脂肪のかたまりのような偉大な肉塊に、満々たる闘志がみなぎっている。蝶子と花子はうつくしいけれど、どこか白痴のようなかんじのする眼をぼんやり見張り、薫は|瞳《め》をすえて建彦叔父にすりよった。  私の眼はまた堀井敬三のほうへさまよっていったが、敬三はさりげない顔をして、ひとりひとり男たちの顔色を読んでいる。建彦叔父は薫の肩をだいて|愛《あい》|撫《ぶ》し、金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしている。 「じつはこの遺言状発表の時期をはやめたというのも、それがあるからで、ここにだれか遺言状の内容を探知したものがあるとして、その人物が遺産をそっくり横領しようと、ほかのひとたちを、つまり、その……高頭俊作君や操さんのようにしてしまっちゃたいへんだというんで、いちおうみなさんに、警戒していただいたほうがよいのじゃないかと、こうして発表したわけです」 「すると、なんですか、遺言状の内容がいままでに|洩《も》れたような形跡があるんですか」  志賀雷蔵の質問である。 「いや、それはなんともいえませんが、げんに高頭俊作君や操さんのことがありますからね。それに、もうひとり、玄蔵老人がおそれていられる人物があるんです」 「もうひとりとは……?」  これは建彦叔父の質問だった。 「それは武内|潤伍《じゅんご》という人物なんですが、ある理由から玄蔵老人は、その男に財産をゆずろうと、いちじアメリカへ呼びよせていたことがあるそうです。ところが、その武内潤伍というのが|箸《はし》にも棒にもかからぬやつで、いろいろ迷惑をかけるもんだから、しかたなしに手切れ金をやって日本へ追いかえしたんですね。こいつその後もたびたび無心をいってきたそうですが、玄蔵老人も愛想をつかして、てんで相手にしなくなったところが、ひどく老人をうらんで、老人の遺族のひとたちに、きっと|復讐《ふくしゅう》してやると、三年ほどまえ、脅迫状みたいなものを書き送って、それきり消息がないんだそうです。玄蔵老人はひどくその男を恐れていられるようですが……」 「どんな男だか写真かなにか……」 「それが一枚もないんです。以前はあったそうですが、見るのもいやだと原版ごと、老人が破棄してしまわれたんですね」 「それで、年齢は……?」 「老人が面倒を見ていられたのが|二十《はたち》前後のことで、追いかえしたのが昭和五年だといいますから、いま四十五、六という年輩なんですがね。みなさんもこのことをよくお含みのうえ、警戒なすってください」  黒川弁護士はそういって一同の顔を見まわしていたが、急に思い出したように、 「ところで、みなさんはいままでに、三つ首塔という名前を聞いたことはありませんか」  三つ首塔……? 黒川弁護士の口からその名まえを聞くのは、私はこれで二度目である。しかし、ほかのひとたちはだれもいままでそんな名前を聞いたものはなかった。 「三つ首塔……妙な名前ですな。それがどうかしたんですか」  そう|訊《たず》ねたのは志賀雷蔵。 「いや、その塔のなかに武内潤伍の写真……むろんわかいときの写真ですが、そのほか、いろいろ重要なものが保管してあるらしいんですが、それが、どこにあるのか、玄蔵老人ご自身忘れてしまっていらっしゃるんですね。なにしろお年がお年だから……」 「その塔の存在がなにかこんどの遺産相続に、重大な意義でもあるんですか」  そうお訊ねになったのは上杉の伯父さま。その日、伯父さまが発言なすったのは、そのときがはじめてだった。 「どうもそうらしいんですね。いや、この遺言状だけで、十分効力があるはずなのに、玄蔵老人はなぜかしきりに、その塔のことを気にしていられるそうです。しかし、まあ、それはご老体の妄想としておいてよろしいんですが……では、きょうはこれくらいで……」  こうして、かずかずの|謎《なぞ》をはらんだ、この恐ろしくも無気味な第一回の会合はおわったのだが、私はうちへかえってひとりになると、ふるえる指で堀井敬三から渡された紙片をひらいてみた。そこには簡単に、 「十一月三日、午後八時、日比谷|交《こう》|叉《さ》点にて」  と、ただそれだけ。  しかし、堀井敬三はしっているのではあるまいか。その夜私がお友達と、日比谷公会堂の音楽会へいくことを……。いまさらのように私はあの男の恐ろしさが身にしみる。      女怪の群  黒川法律事務所における佐竹一族の第一回の会合ほど、私に強烈な印象をなげかけたシーンはなかった。  百億という夢のような遺産をめぐる七人の男女……。その七人のうちのどのひとりをとってみても、一種異様な雰囲気を身におびていないものはない。  あの女プロ・レスの島原明美の|凄《すご》さはどうだろう。脂肪のかたまりのようなあの肉塊、猫のように研ぎすまして、|真《まっ》|紅《か》に染めた|爪《つめ》、|牝《めす》|獅《じ》|子《し》のようにたけだけしいあの眼つき。それから、史郎ちゃんという美少年に、ものいうときの猫なで声のいやらしさ……。思い出すさえゾッとする。  それから、|蝶子《ちょうこ》と花子という|双《ふ》|生《た》|児《ご》の姉妹はどうだろう。あの席ではじめからおわりまで、ひとことも口をきかなかったのはあのふたりだけだった。蝶子も花子もうつくしい。しかし、そのうつくしさにはどこか生気がかけている。話題がどんなに緊迫しても、ふたりはただむなしく眼を|視《み》|張《は》るだけ。  ひとまえで志賀雷蔵の両腕にかかえられても、|恬《てん》|然《ぜん》として顔色ひとつかえない無恥といおうか、無意志といおうか……。表情の変化にとぼしいということは、かえって無気味さを誘うものである。蝶子と花子のなかにある|憑《つ》かれたような、どこか|痴《ち》|呆《ほう》的なうつくしさには、たしかに世の常ならぬ無気味なものがひそんでいる。  軟体動物のような笠原薫のいやらしさはまえにものべた。建彦|叔《お》|父《じ》はあの女とどのような関係があるのだろう。  玄蔵老人はなぜあのあわれな佐竹由香利に、全財産を譲ろうとしなかったのだろう。あの幼い由香利こそ、佐竹家の嫡流ではないか。彼女を全財産の相続人にさだめてしまえば、なんのいざこざもおこらぬはずなのに……。しかし、……いや、いや、いやと私はかんがえる。由香利の養父だという鬼頭庄七の放った、あの恐ろしい言葉を思い出すからである。 「そうするとなんですかい、ここにいる六人がみんな死んじまって、この娘ひとり生きのこったら、百億という財産は、まるまるこの娘のものになるんですかい」  いったい、鬼頭庄七とはどういう男なのか。あの恐ろしい養父のもとで由香利はどのような待遇をうけているのか。いえいえ、鬼頭庄七や由香利のみならず、根岸蝶子と花子やそのパトロン、志賀雷蔵にしても、どういう人物なのか私にはわかっていない。さてはまた、脂肪のかたまりのような島原明美や、その愛人らしい史郎ちゃんとは、いったいどういう人物なのか。  私はこうして六人の相続人たちと、その周囲にいる人物を、ひとりひとり品評していたが、ふと気がついてじぶんじしんのことを考えてみる。  私にははたして、他の相続人たちをあげつらう資格があるだろうか。あのいまわしい秘密を胸にたたみながら、いかにも良家の令嬢らしくとりすましているこの宮本|音《おと》|禰《ね》。ああ、ひとのことをいえた義理ではない。私にもやはり佐竹一族の血がながれているのだ。私もまた島原明美や笠原薫、さてはまた根岸姉妹とおなじように、女怪のひとりなのだ。  島原明美に美少年の史郎ちゃん、笠原薫に建彦叔父、根岸姉妹に志賀雷蔵、佐竹由香利に鬼頭庄七と、それぞれ男がついているように、私にもまた、堀井敬三こと|高《たか》|頭《とう》五郎という、悪党がついているではないか……。  とつおいつ、そんなことを考えているうちに、卒然として私は、ある恐ろしいことに思いおよんだ。  黒川弁護士の話によると、佐竹一族とはべつに、武内|潤伍《じゅんご》という人物がいて、玄蔵老人の遺族のものを|狙《ねら》っているという。そして、武内潤伍という人物は、げんざい四十五、六だというが、志賀雷蔵や鬼頭庄七はいったいいくつなのだろう。見たところ、四十五、六ではないか。ひょっとすると武内潤伍は、あのふたりのうちにいるのではないか……。 「あら、宮本さん、どうかなすって?」  左側の席にすわっている、お友達の河合さんに声をかけられて、私はふっと恐ろしい回想からわれにかえった。 「いまなんだか、ひどくふるえていらしたようだけれど……」  河合さんはひくい声でたずねながら、まじまじと私の顔色をよんでいる。 「すみません。あたし、なんだか気分が悪くて……」 「そういえば、お顔の色が悪いようね」  と、右側の席から橋本さんも身をのりだして、心配そうに私の顔をのぞきこむ。私たちはずいぶん注意して、小さい声で話しあっていたつもりだけれど、それでも観客席のあちこちから、しっ、しっと、|叱《しっ》|[#「」はWin機種依存文字 Unicode=549C]《た》する声がおこったので、 「静かになすって、あたしのことは御心配なく……」  と、私は体をかたくして、|掌《てのひら》のハンケチを握りしめた。  日比谷公会堂のステージでは、いま著名な外国のピアニストの演奏がおこなわれている。場内をぎっしり埋めつくした聴衆は、酔ったようにその妙技にききとれているのだが、正直なところ、私の耳にはそのメロディーの一節もはいらなかった。  時刻はまさに七時半。八時までに私は日比谷の|交《こう》|叉《さ》点まで、出向かなければならないのだ。あのならずものをおこらせたら、どんなことになろうやもしれぬ。いちど肉体をゆるした女の弱さを、私はつくづくと歎かずにはいられない。  だが、音禰よ。おまえはそんなふうに、じぶんの良心をいいくるめているけれど、ほんとうはあの男のそばへいきたいのではないのか。そして、いつかのように、あの男のもえるような唇にふれ、|呼《い》|吸《き》もとまるほど、あの男のたくましい腕に抱きすくめられて、身もだえ、うめき、法悦することを望んでいるのではないか……。 「いや! いや! いや! そんなこと……」  私は思わず口に出してそうさけんだのち、はっとわれにかえったが、さいわい、そのとき割れるような拍手の|嵐《あらし》が、場内をうずめつくしたので、両側の席にいる河合さんと橋本さん以外には、だれも私の狂態に気がついたものはなかった。 「ほんとうに気分が悪そうね」 「お顔の色が真っ紅よ。上気していらっしゃるのね」  休憩になって廊下へ出ると、河合さんと橋本さんが心配そうに、左右から私の顔をのぞきこむ。 「ええ、なんだか頭がフラフラして……あたし悪いんですけど、おさきに失礼させていただくわ。せっかくお誘いしていただいたんですけれど……」 「それはお体にはかえられませんから……でも、おひとりで大丈夫?」 「ほ、ほ、ほ、大丈夫よ。ほんとに悪いんですけれど、ごめんなさいね」 「そうお。じゃあお玄関まで送っていくわ。おだいじにね」  秘密は秘密をよび、そこから|嘘《うそ》がうまれるのである。私はふたりのお友達をあざむいて、日比谷公会堂の正面玄関から階段へ出ていったが、そのとき、うしろから、 「やあ、音禰じゃあないか」  と、したしげに声をかけられて、はっとしてふりかえると、建彦叔父がむつまじそうに、笠原薫と腕をくんでたっている。私はそれをみると、逃げるように階段をかけおりる。階段のとちゅうでハンケチが落ちたのをしっているけれど、それをとりにひきかえすのも恐ろしかった。      巡 礼 「もしもし、お嬢さん、自動車はいかがですか」  日比谷|交《こう》|叉《さ》点の安全地帯に、電車を待つような顔をして立っていた私は、とつぜんうしろから声をかけられてふりかえると、“空車”と、かかげたながしのタクシーがとまっている。 「いいのよ、あたし……」  と、小さな声でことわったにもかかわらず、運転手は運転台からおりてきて、客席のドアをひらくと、 「さあ、どうぞ。……おれだよ、|音《おと》|禰《ね》」  私はぎょっとたじろいたが、すぐあたりを見まわしたのち、無言のまま自動車にのりこむ。運転手が運転台へのりこむと、自動車はすぐにはしりだす。 「どうしたんだい、音禰。ひどくソワソワしてるじゃないか。だれか尾行してくるもんでもあるのかい」 「いいえ、べつに……ただ……」 「ただ……? どうしたの?」 「いま、公会堂で佐竹の|叔《お》|父《じ》にあったもんですから……」 「佐竹建彦が公会堂へきていたの」 「ええ」 「ひとりで……?」 「いいえ、笠原薫というひとと……」 「ああ、そうか、お楽しみなこったな。あっはっは」  ハンドルを握ったまま、|咽《の》|喉《ど》のおくでひくくわらう男の顔を、バック・ミラーのなかにさがしあてて、 「あら!」  と、私は思わず大きな声をあげた。  バック・ミラーにうつっている顔は、堀井敬三でもなければ、高頭五郎でもない。金ぶちめがねに、コールマン|髭《ひげ》をはやしたにやけた四十男である。 「あなたはだれ?」  私の心臓はいまにも破れそうなほど、はげしく胸のなかで|動《どう》|悸《き》をうったが、あいては鏡のなかで、おもしろそうに笑うと、 「おれじゃあないか。おまえの恋人、高頭五郎……堀井敬三……どっちだっていいや。どうだい、音禰、おれの変装術も相当のもんだろう」  ああ、この悪党はカメレオンのように、姿をかえるすべをしっているのだ。どう見てもこれが黒川弁護士の助手、堀井敬三とはおもえない。 「あなた、あたしをどこへつれていくの」 「なあに、ちょっと巡礼をしようと思うんだ」 「巡礼って……?」 「いまにわかるよ。それより、音禰、そこに|鞄《かばん》があるだろう」  なるほど、座席のすみに小さな鞄がおいてある。 「そのなかにストールとめがねがあるからね。それでおまえも変装してくれ。おればっかり姿をかえていても、おまえがわかっちゃなんにもならない」  どこへつれていかれるのかしらないけれど、私もこんな男とふたりでいるところを、知ったひとに見られるのはいやだし、第一、危険でもある。鞄をひらくと地味な色合いのストールと、べっ甲ぶちのめがねがはいっている。私はストールを頭にまき、めがねをかけると、コンパクトを出して鏡をのぞいてみる。どうやらこれで私も、不完全ながら変身をとげたようだ。 「あなた」 「うん?」 「どこへつれていくのかしらないけれど、おそくとも十一時までにはおうちへかえして。|伯《お》|父《じ》さまや品子さまがご心配なさいますから」 「ああ、それゃあいいとも。出来るだけながくふたりの交渉をつづけていくには、なるべくひとに怪しまれないようにしたほうがいいからな。うっふっふ」  ひくく笑う男の声をきいているうちに、閉ざした私の|眼《め》|尻《じり》から、熱い涙がにじんでくる。そのときほど私は、じぶんの身をいとおしく思ったことはない。  堀井敬三が自動車をとめたのは、|浅《あさ》|草《くさ》の松竹座の横だった。敬三はそこへ自動車をパークすると、私の手をとって六区のほうへはいっていく。私はこんな時刻に六区をあるいたことはない。しかも、男とふたりで。しかし、いまさらためらったところでなんになろう。今夜のスケジュールが完了するまで、この男は私をひきずってはなさないだろう。私は身うちがすくむような思いをしながらも、男に腕をとられていく。  ゴミゴミとした六区の雑踏を横へきれると、“|紅《べに》|薔《ば》|薇《ら》座”と、ネオンのあがった小屋がある。正視するにたえないような、はだかの女を大きくえがいたポスターが、表にかかげてあるところをみると、おそらくストリップ劇場なのだろう。切符売り場のまえへ立ちどまって、男が紙入れを取り出すのを見て、私は思わずその腕にすがりついた。 「あなた、いやよ、あたし……。こんなところへはいるのは……」 「ええじゃないか。後学のためにこういうもんも見ておくもんだ。なんにも恥ずかしいことありゃあせん」  男はもう言葉つきまで変わっている。 「だって……」 「ええて、ええて。私にまかせておおきってば」  切符を買って、私の腕をひっぱるように、なかへはっていく男のようすは、好色な|田舎《いなか》紳士以外の何者でもない。そして、私はなんと見えたことか。  だが……。切符を受け取るところをとおりすぎるとき、私ははじめて男の目的がわかったような気がした。 「それじゃ、ちょっと出かけてくるがね。ヘレンとメリーには役があがっても、楽屋で待っているようにいっといてくれ。十時半までにはかえってくる」  大声でそんなことをいいながら、事務室から出てきた男の顔をみて、私ははっとストールのなかで息をのむ。  それは|双《ふ》|生《た》|児《ご》の|蝶子《ちょうこ》と花子を、両手に花とばかりに愛人としている志賀雷蔵ではないか。  雷蔵はじろりと私のおもてに|一《いち》|瞥《べつ》くれたが、ここでストールと、べっ甲ぶちのめがねという変身用具が役にたったか、なにも気づかずそのまますたすた表へ出ていく。      金と銀 「いまのは……?」  観客席のすみのほうへ腰をおろしたとき、私の心はふるえていた。まだ強く|動《どう》|悸《き》がうっている。 「ここのマネジャー……」  と、男はひくくつぶやいて、舞台とプログラムを見くらべていたが、やがて満足そうに吐息をもらすと、さりげない眼であたりを見まわしている。  幕はあいたけれど、私は顔をあげることも出来ない。場内全体の照明がくらくなっているので助かったけれど、そうでなかったら、穴があったら入りたいような気持ちになったろう。だが、その救いもちょっとのまで、やがてささやかな拍手とともに幕がしまったらしく、場内にぽっと明かりがつく。私はストールに|顎《あご》をうずめて体をかたくしていたが、そのとき、だしぬけに腕をつかんだ敬三が、私の耳もとでささやいた。 「西側の二階に眼をやってごらん」 「西側って……?」 「左側……舞台のほうからかぞえて六番目の|椅《い》|子《す》……さりげなく……びっくりしたような顔をしちゃだめ」  私はそっと顔をあげて、おしえられたほうへ眼をやったが、男の注意にもかかわらず、やっぱりぎくっと、息をのまずにはいられなかった。  最前列の二階の席から、半身のりだすようにして、ジロジロ階下を見まわしているのは、島原明美のわかき|燕《つばめ》、美少年の史郎ちゃんではないか。|視《み》あげる私と視おろす史郎ちゃん、視線と視線がぴったりあって、私はあわてて顔をふせると、思わず体がこまかくふるえた。 「いやだわ、あたし……あのひと、気がついて?」 「まさか……。わかるもんか」 「でも、あたしのほうを見てるじゃない?」 「それゃおまえみたいな若い女がきているので、不思議に思ってるのさ。ほら、むこうをむいたよ」 「あのひともやはりこの小屋に関係があるの?」 「いや、べつに……だから面白いのさ。なんのためにここに来ているのか……」 「あのひと、どういうひと?」 「|古《ふる》|坂《さか》史郎といってみなし児さ。|美《び》|貌《ぼう》をたねに女から女へとわたりあるいている……目下のところは脂肪のかたまりのペットさ」 「あの女はどういう……?」 「いや、それはあとで見せてやろう。それにしても、あの美少年がここへきているのは面白いな。|音《おと》|禰《ね》」  と、男はひくい声で呼んで、 「たたかいはすでにはじまっているんだぜ。血みどろのな。あっはっは」 「いや、そんなこわいこと?」  私は小刻みに体をふるわせたとき、ベルの音がとどろきわたり、オーケストラの音とともに、幕がひらいて照明がくらくなる。私はほっと緊張をゆるめると、そのまま顔をふせていたが、そのうちに観客席のあちこちから、パチパチとさびしい拍手の音がきこえたかと思うと、敬三が|肱《ひじ》で私の体を小突いた。 「うつむいてちゃだめだ。これを見にきたんじゃないか。ほら、よく見るんだ」  敬三にうながされておそるおそる顔をあげると、舞台には金と銀との踊り子がもの狂わしい踊りをおどっていた。肉体をおおうほんのわずかな部分以外、全身露出した肌を、ひとりは金、ひとりは銀にぬりたてて、頭にそれぞれ金と銀とのかぶりものをかぶり、足にもまた金と銀とのサンダルをはいて、からみあう二匹の蛇のように踊りつづけている。 「体に悪いんだよ、この踊り……全身の気孔をふさぐわけだからね。だから塗りおわってから洗いおとすまで、三十分をこえちゃ危いそうだ。ところでだれだかわかる? このふたり……?」 「だれ?」 「ヘレン根岸とメリー根岸、すなわち根岸|蝶子《ちょうこ》と花子さ」  私はまたぎょっと息をのみ、舞台のふたりを見なおしたが、仮面のように金と銀に塗りたてたその顔から、蝶子と花子の面影をさがしだすのはむつかしい。  敬三は観客席を見わたして、 「入ってないね。これじゃ志賀雷蔵があせるのもむりはない」  男は急に私の腕をとって立ちあがった。 「こんどはどこ……?」  松竹座の横にパークしてあった自動車にのると、私はぐったりとクッションに体をうずめた。 「こんどは|池袋《いけぶくろ》、それから|新宿《しんじゅく》、さいごにいいとこ……うっふっふ、それで今夜は解放してあげる」  男のふくみ笑いを聞いたせつな、私は全身を|虫《むし》|酸《ず》の走るようなムズかゆさをかんじると同時に、はげしい胸の|動《どう》|悸《き》をおぼえずにはいられなかった。ああ、私の体内にも、ほかの佐竹一族の女たちとおなじように、|淫《いん》|蕩《とう》の血がながれているのか。  池袋のオリオン座という小さな小屋のまえへついたのは、九時ちょっと過ぎのことだった。 「またここへ入るの?」 「ああ、そう」  オリオン座というのはヴォードビルの小屋らしく、私たちが入っていったとき、舞台ではたくましい巨人と、十六、七のかわいい少女の曲芸が演じられていた。  巨人はぴったり身についた黒|繻《しゅ》|子《す》の総タイツに、おなじく黒繻子のシャツをきて、銀色のふといバンドをしめている。少女もこれまたぴったり身についた、桃色のタイツに肉|襦《じゅ》|袢《ばん》をきて、頭に花輪をまいている。  曲芸は眼にもとまらぬ急テンポで、つぎからつぎへと展開していく。大男に投げとばされて、|可《か》|憐《れん》な少女はくるりくるりと、猫のように空中転回をする。少女の妙技もさることながら、テンポの速さが快かった。  だが、そのうちにどうしたはずみか、空中転回をした少女の足が、いやというほど大男の頭を|蹴《け》った。と、猛烈におこった大男が、観客席のいちばんうしろまで、きこえるほどの音をたてて、少女の|頬《ほお》に平手うちをくらわせると、ステージに|這《は》った少女を踏むやら、蹴るやら、それでも腹にすえかねたのか、いきなり黒シャツをかなぐり捨てると、下は全身まっくろな|刺《いれ》|青《ずみ》である。  大男はステージから大きな|鞭《むち》をとりあげると、逃げまどう少女の背後から、ぴしりぴしりと鋭い音をたててそれをふる。黒いタイツに刺青の大男が、可憐な少女にむかって鞭をふるさまは、眼をおおわしめるものがあった。 「あなた、あなた!」 「なあに、これも演技のうちだよ。ほら、ちゃんと音楽のテンポにあってるじゃないか。わるい趣味さ。ところで、音禰。このふたり、だれだかわかってるだろうね」  私はぎょっと眼を見張り、はじめて舞台のふたりを、佐竹由香利と養父の鬼頭庄七だとさとった。 「あれで、あの娘、もう処女じゃないんだぜ。あの大男のおもちゃになっているんだ。と、いうより、あの大男を手玉にとってるといったほうがただしいな。しおらしい顔をしているが、あれでなかなか|凄《すご》い娘だ。さあ、出よう」      恐ろしき覗き 「音禰、ルージュや|眉《まゆ》|墨《ずみ》持っている?」  ふたたび自動車にのったとき、運転台から男がたずねる。 「ええ」 「じゃあね、うんとケバケバしい化粧にしてくれ。パンパン式にな。こんどはストールとめがねだけじゃあおぼつかない」 「ど、どういうところへいくんですの」 「まあ、いいから、おれのいうとおりにしろよ」  私はコンパクトを取り出すと、どぎつい化粧にとりかかる。眉をながくひき、眼のふちを染め、|頬《ほお》|紅《べに》をこく、唇をうんと|紅《あか》く、くっきりと塗りあげる。薄暗いルーム・ランプの鏡のなかに、えがき出されていくじぶんのあさましい顔を見るとき、私は涙があふれそうになる。しかし、この男の命令にそむくわけにはいかないのだ。 「あなた、これでよくって?」  べっ甲ぶちのめがねをかけなおして、私が顔をつき出すと、男はバック・ミラーのなかでしげしげ眺めて、 「上等、上等、それじゃめがねがなくっても、宮本音禰と気がつくまい。おまえもなかなかやるじゃないか。さすがは佐竹の一族だ。あっはっは」  さすがは佐竹の一族だといわれたときには、私は屈辱のために全身火のように熱くなった。 「あなた、こんどは島原明美というひとのところへいくんじゃなくって?」 「ああ、そう、察しがいいね」 「あのひとはどういう……?」 「いまにわかるさ。だけど、音禰」 「ええ……」 「こんどはつらとつらを、つきあわさなきゃならないかもしれないから、よっぽど気をつけてくれなきゃあいけないぜ。肩をそびやかすようにしてね。歩くにもお|臀《しり》をふって……モンロー式にな」 「あたし、そんなこと……」 「出来ないことがあるもんか。おまえも佐竹の一族じゃないか。あっはっは」  屈辱と悲しみのために、私の胸はふさがりそうだ。いちど転落しはじめた石は、いきつくところまでいかねばとどまらない。いったい、私はどこまで転がっていくのだろう。軒なみにずらりとネオンのついた新宿の横町に車をとめると、 「さあ、いこう」  と、男は私の手をとって自動車からおろす。ステップからおりるとき、私の|膝頭《ひざがしら》はすこしふるえた。 「さあ、しっかり顔をあげて……肩をそびやかして、モンロー式に……」  軒なみにあがったネオンが涙のためにすこしぼやける。私はあわてて指先で眼頭をおさえると、男の命ずるとおりふるまってみる。そうするよりほかにしようがないではないか。 「そうそう、うまい、うまい」  くっくっと笑っている男が憎らしい。  右もバー、左もバー、軒なみにずらりとならんだバーのなかから、ジャズの音がきこえたり、はじけるような女の笑い声がきこえたりする。ギターを肩につったふたりづれの男が、一軒一軒バーへ入っていく。 「BON・BON」  と、ネオンのあがったバーのまえまできたとき、なかから男がひとりとび出したが、その男の顔を見たせつな、私も私のつれもぎくっとしたように立ちどまった。  なんと、それは志賀雷蔵ではないか。  雷蔵はしかし、私たちには気がつかず、そそくさとその横町から出ていった。敬三は私を小暗い陰にひっぱりこんで、雷蔵のすがたが横町から出ていくまで見送っていたが、あいてはいちどもふりかえらなかった。 「あっはっは。これゃいよいよ面白くなってきたぜ。史郎は根岸姉妹にちょっかい出す。志賀雷蔵ははんたいに、脂肪のかたまりにモーションかけていやあがるんだ。音禰。さっきもいったとおり、たたかいはすでに開始されているんだ。どいつもこいつも死にものぐるいだ。さあ、入ろう」  ボン・ボンは間口こそせまいが、|鰻《うなぎ》の寝床みたいに奥にふかい店で、左にカウンターがあり、客が五、六人、たかい|椅《い》|子《す》に腰をおろして酒をのんでいる。右側にもテーブルが三つ四つ、そこにも五、六人の客があり、もうもうたるたばこの煙、耳も|聾《ろう》するばかりのジャズ・レコードに、客のわめき声がかまびすしい。  ドアを入った左側に|勘定器《レ  ジ》がすえてあり、そこに女がひかえているのへ、敬三は話しかける。 「ユキちゃん。マダムはおるかな」  |日《ひ》|頃《ごろ》の敬三とはぜんぜんちがった言葉使いであり、声である。 「ああ、キーさん、いらっしゃい。マダム、お二階よ」  ちらと私のほうへ眼をくれた女は、さすがにジロジロ見るようなことはせず、すぐにその眼をそらすと、二階を|視《み》あげて意味深長な微笑である。それにしても敬三は、ここではまたちがった名前でしられているらしい。 「お客……?」 「ええ、いまおかえりになったばかりだけど……マダム、どうしたのかしら」 「おつかれなんじゃろ。うっふっふ」  それから敬三は声をおとして、 「ユキちゃん。部屋、あいとるかな」 「ええ、まんなかのが……」 「まんなかのでもええ。ちょっとこの娘と話したいことがあるのでな」  紙幣と交換に|鍵《かぎ》をわたすとき、女はまたちらと私に眼をくれたが、さいわい、ここもほのぐらい間接照明、どぎつい化粧をとおして、私の素顔まで見抜くことはできなかったろう。 「おい」  眼顔でまねく男のあとについて、私はふてくされたように肩をいからせ、せいぜい男のいうようなあるきかたで、カウンターとテーブルのあいだを抜けていったが、|羞恥《しゅうち》と屈辱のために体中がもえるように熱かった。  カウンターとテーブルのあいだの通路をぬけるとドアがあり、ドアの奥にはトイレットと急な階段、トイレットのむこうには裏の露地へ出る木戸がしまっている。階段をのぼると廊下の左側にドアが三つ、奥のふたつは灯が消えているが、てまえの部屋からはあかりがすこしもれている。男はまんなかの部屋へはいると、電気をつけ、それからまたドアの内側から鍵をかける。 「あなた、こんなところへあたしをつれてきてどうするの」  粗末なベッドからあわてて眼をそらすと、私の声はいまにも泣きだしそうだった。 「いいじゃあないか。だれもおまえを宮本音禰だと気がつきゃあしない。おまえのパンパンぶり、板についてるぜ。それにね、島原明美というのがどういう女か、おまえにみせておきたかったんだ」  男はいきなり私を抱きよせて、いたいほど唇を吸った。それからストールをときにかかったが、急に思いついたように私をはなし、まずいっぽうの壁ぎわへいって耳をすまし、また、部屋を横切ってべつの壁ぎわへいって耳をすました。 「はてな、あいつ寝こんでいるのかな」  男はちょっと思案するように、小首をかしげていたが、 「音禰、ちょっと待っておいで。声を立てちゃいけないぜ」  と、スイッチをひねって電気を消すと、ベッドにのぼってなにやらもそもそしていたが、やがて床から二メートルばかりのところに、四角く壁に穴があき、そこから隣室のあかりがさしこんできた。と、思うと、暗がりのなかから男のはげしい息遣いと、ベッドのきしる音が大きくきこえた。 「音禰……音禰……」  と、男は押しころしたような早口で、 「声を立てちゃいけないよ。ここへきて、ちょっとここから|覗《のぞ》いてごらん」 「あなた、ど、どうしたんですの」 「なんでもいいから、ここへきて……ほら」  暗がりのなかを手さぐりでベッドへあがると、男は私の腰をかかえて、小さな覗き穴から隣の部屋をのぞかせたが、そのとたん、私の心臓はいっぺんに、|咽《の》|喉《ど》のところまでふくれあがった。  隣室のベッドのうえに、ほとんど全裸にちかいすがたの女が、仰向けにそりかえっていて、その胸には、柄にハンケチをまいた短刀が、ぐさりと根元まで突っ立っている。さいわい、腰から下は毛布にかくれているが、大きな乳房や脂肪のかたまりのような肉付きから、ひとめで島原明美とわかるのだ。 「音禰、音禰……」  と、いまにも失神しそうな私の体を、しっかり抱きしめた男の声も、さすがにそのときはふるえていた。 「おれがいったとおりじゃないか。やっぱりたたかいは開始されているんだ。ほら、血みどろのな」      愛と憎しみ  それからあと、ボン・ボンをぬけだして、堀井敬三こと|高《たか》|頭《とう》五郎のかくれ家へおちつくまでのことは、ほんの断片的な記憶としてしか、私の頭脳にのこっていない。それはちょうど消えてはつくネオンの広告燈のように、妙にチカチカとして、|刺《し》|戟《げき》的で、それでいて一貫性をかいている。  そのとき、もっとも強く私の心をうったのは、敬三という男の理性の強さだ。いっときの|驚愕《きょうがく》からさめると、かれはテキパキとことを運んだ。少しもあわてたり、あせったりしなかった。  かれはまず|覗《のぞ》き穴のドアをしめると、そのうえに額をかけなおした。あとで気がついたのだけれど、それはガラスにはまった女のヌード写真だった。それから私を抱いてベッドをおりると、電気をつけて、ベッドの泥をおとし、靴の跡のくぼみをなおした。そして、もういちど注意ぶかい眼で、部屋のなかを見まわしたが、私が手袋をぬいでいるのに眼をとめると、 「|音《おと》|禰《ね》、おまえこのへんの器物にさわりゃしなかったろうねえ」 「いえ、あの、べつに……」 「でも、念のためだ。よくそのへんに|拭《ぬぐ》いをかけておおき。なにげなくさわりそうなところを……指紋が残ってちゃたいへんだからね」  しかし、そのハンケチは日比谷公会堂でおとしてきたのだ。そこでしかたなしに、ストールのはしで拭いをかけている私に男は眼をとめて、 「音禰、おまえハンケチは……?」 「日比谷でおとしてきたの」 「どうして拾ってこなかったの」 「佐竹の|叔《お》|父《じ》さまが追っかけてきそうだったから……」 「ああ、そう」  敬三も注意ぶかくそのへんに拭いをかけおわると、 「さあ、これでよし」  と、私の肩に両手をかけて、強い眼で私の眼をのぞきこみながら、 「音禰、これからがたいへんだよ。われわれはここを抜け出さなきゃならない。と、いって表から出るわけにはいかない。あまり早過ぎるからね。で、階段の下に裏木戸があったろう。あそこから抜け出そう。しっかりと、おちついて、……大丈夫だろうね」 「はい、あの、あなたがついていてくださるのなら……」  それこそ、そのときの私にとっては本音だったのだ。またしても、思いがけない殺人事件にまきこまれて、ふるえおののく私にとって、そのときの敬三ほどたのもしい存在はなかったのだ。 「よし、じゃ、出よう」  電気を消して廊下へ出ると、敬三はドアをしめて|鍵《かぎ》をかけた。人殺しのおこなわれている部屋のまえをとおりすぎ、階段へさしかかると、敬三が立ちどまって唇のうえに指をあてた。だれかがトイレットにはいっているのだ。そのひとが出て、店のほうへいくのを待って、 「おまえはここに待っておいで。おれがひと足さきにおりて裏木戸をあけてくる」 「あなた、あたしを捨てていっちゃいやよ」 「なにを、馬鹿な!」  男は|大《おお》|股《また》に階段をおりると、いったん姿が見えなくなったが、すぐ階段の下へひきかえしてきて合図をする。私はその腕へころげこむように階段をかけおりた。  せまい露地をぬけ、パークしてあった自動車に乗ってはしり出したとき、私は全身の関節という関節が、バラバラになるようなけだるさをおぼえて、ぐったりとクッションに身をうずめて眼をつむった。 「あなた、後生ですから、もうかえして……」 「あっはっは、まだ早いよ。十一時までにかえすという約束だったじゃないか」  男にそういわれて腕時計を見ると、なんと、まだ九時四十分ではないか。それではこの男と落ちあってから、まだ一時間と四十分しかたっていないのか。私にはそのあいだがながい、ながいフィルムの|廻《かい》|転《てん》のように思えるのに……。 「これからどこへいくの?」 「おれのかくれ家へいこう……。音禰」 「ええ……」 「おれはボン・ボンじゃ二階へあがるつもりはなかったんだ。島原明美という女の正体を、おまえにみせたらすぐあそこを出るつもりだったんだけど、二階へあがっておいてよかったよ。これではっきり覚悟ができたからね」 「覚悟って?」 「おまえと生死をともにしようという覚悟さ」  私はだまって唇をかむ。嫌悪と恋情、愛と憎しみの不思議な糸がもつれあって、私の感情を混乱させるのだ。 「音禰、なぜだまってるんだい。どうして返事をしてくれないんだい」 「あなた」  私はわざと話題をかえて、 「あのひとを殺したのは志賀雷蔵なの?」 「さあ……。そうとばかりはいえないんじゃないかな」 「どうして?」 「どうしてって、音禰、裏木戸のかけがねが外れていたんだよ。だから、志賀雷蔵が立ちさったあと、だれかがあの部屋へしのびこみ、明美を殺して裏木戸から逃げだしたと考えられないこともない。志賀がまさか……あそこの店でハッキリ顔を見られてるだろうからね」 「あなた、あなたは大丈夫?」 「大丈夫って?」 「あそこのお店でしられてるんじゃない?」 「ああ、そのことか。おれは木下という|闇《やみ》ブローカーとして、あそこでしられているんだが、だれもほんとのおれの顔はしりゃしない」  私はバック・ミラーのなかに、高頭五郎と堀井敬三ともまったくちがった、にやけた四十男の顔をさがし出して、 「あなたはいったいどういうひとなの」 「おれか、おれはこういう男さあね。だけど、音禰、さっきの返事をしてくれよ。おまえはおれをどう思ってるんだい」 「あたし……? あたしはもうあのときから覚悟をきめてるわ。あなたからのがれられないってこと……」 「ありがとう」  男はひくく、簡単につぶやいただけで、あとは無言のふたりをのせて、自動車は闇のなかを疾走していく。      まぼろしの塔  堀井敬三のかくれ家がどこにあるのか、夜のこととてはっきりした地点はわからなかったし、私はまた、それをしろうという気力もなかった。でも、途中|赤《あか》|坂《さか》|見《み》|附《つけ》をとおったのをおぼえているし、右側にNHKのテレビ塔の標識燈らしいのが、みえてからまもなくのことだったから、そこはきっと|溜《ため》|池《いけ》の付近なのだろう。  夜目にもゴミゴミとした路のかたがわに、かなりひろいギャレージがあり、故障車らしい自動車が一台おさまっていた。男は私を乗っけたまま、たくみな運転でギャレージのすみへ自動車をとめたが、その音をききつけて、奥から三十前後の女がでてきた。 「あら、|旦《だん》|那《な》様、おかえりでございますか」 「ああ、ユリちゃん、三十分ほどしたらまた出かけるからね。自動車はこのままにしといておくれ。さあ、おまえ、お降りよ」  おずおずと自動車からでる私に、女ははじめて気がついたらしく、 「あら!」 「あっはっは、ユリちゃん、なんだねえ。そんなにじろじろみちゃあこの|娘《こ》、恥ずかしがるじゃないか。この娘、これでまだ|初《う》|心《ぶ》なんだからな。さあ、いこう」  ギャレージを奥へぬけると、二階へあがる粗末な木製の階段のほかに、地下へおりるコンクリートの階段が、まっくらな穴蔵のなかへつづいている。男は、スイッチをひねって地下への階段に|灯《あかり》をつけた。  階段の下には、コンクリートの廊下がつめたく奥へ走っており、すぐまえにがんじょうなドアがある。このドアは二重になっているうえに、防音装置がほどこされているので、なかへはいってドアをしめたせつな、私たちは完全に外界の音響から隔絶されてしまった。  私はまた冷たい|戦《せん》|慄《りつ》が|膝頭《ひざがしら》をふるわせ、いたいほど心臓をしめつけるのをおぼえる。 「ここが|闇《やみ》ブローカー、山口氏の秘密の根拠地になっているのさ。まあ、お掛けよ」 「山口氏……?」  私は思わず|鸚《おう》|鵡《む》返しにそう|訊《たず》ねる。BON・BONでは木下と名乗っていたというのに……。 「そうさ、山口明氏というのがここにおけるおれの名前さ、いいからお掛けったら」  私は立ったままあたりを見まわしたが、なるほどそこは事務的な折衝をする部屋らしく、|円卓《テーブル》のほかに大きなデスク。デスクのうえには卓上日記や、帳簿の|類《たぐい》がならんでいる。どちらかといえば殺風景な室内のたたずまいに、私はほっと胸なでおろしかけたが、そのせつな、なかば開いたドアのすきから、隣室のようすが眼について、私はまたはっと心臓をかたくした。  ほのぐらいライトのもとに、やわらかそうな|羽《はね》|蒲《ぶ》|団《とん》をおいたベッドのはしがみえている……。 「さあ、|音《おと》|禰《ね》、これをお飲み」  部屋のすみの戸棚のまえで、なにかしていた男がこちらをふりかえると、真っ赤な液体をついだグラスをふたつ、両手にもってきた。 「あたし、とても飲めないわ」 「どうして……?」 「なんだか胸のへんが苦しくて……」 「ああ、そう、それじゃ飲めるようにしてあげよう」  男は円卓のうえにグラスをおくと、いきなり私を抱きよせて、強く、はげしく、息づまるほどながいキスをした。それから私の体をはなすと、にやりとわらって、 「さあ、これで飲めるだろうよ。なあに、かるい酒だよ。さあ、プロージット」  胸の|想《おも》いの苦しさに、私は思いきってひと息にグラスを飲みほすと、くずれるようにアーム・チェヤーに腰をおとした。|肚《はら》の底から熱い火のかたまりがふきあげる。 「あなた、あたしをどうなさるおつもり? あたしはやくおうちへかえりたい……」 「まだ早いよ。十時じゃないか。それにわれわれは作戦を練っておかにゃあならんからね」 「作戦……?」 「音禰、おまえにはまだわからないのか。おまえは今夜八時まえに友達をまいて、|日《ひ》|比《び》|谷《や》公会堂を出ているんだよ。そして、十一時すぎに、|麻《あざ》|布《ぶ》|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》のうちへかえることになるのだが、そのあいだにおまえにとっちゃ、遺産相続の競争相手のひとり、島原明美が殺されているんだ。しかも、明美の殺されたとなりの部屋へ、木下と名のる闇ブローカーが、怪しげな女をつれこんだまま行く方をくらましている。その女がおまえだとは気がつくまいが、関係者のひとりとして、今夜の八時から十一時ごろまでの行動を、取り調べられるかもしれないよ。おまえはなんと答えるつもりだ」 「あなた……」 「だから、ここで作戦を練っておく必要があるというんだ。音禰、おまえはさっき、おれからもうのがれることができないって、覚悟をきめているといったね」 「はい……」 「よい覚悟だ。おれもこんりんざいおまえをはなしゃしない。百億という遺産がころがりこむまではな」  そのときの堀井敬三の微笑には、どこか血のしたたるような|凄《すご》さがあった。 「それにおまえにゃおれが必要なんだ。殺し合いはすでにはじまっている。しかもおまえの競争者には、それぞれ男がついているんだ。笠原薫にゃおまえの|叔《お》|父《じ》の佐竹建彦、ヘレンとメリー根岸にゃ志賀雷蔵、佐竹由香利にゃ鬼頭庄七と、どいつもこいつも凄い男だ。島原明美は殺されたけど、あの古坂史郎というチンピラも|一《ひと》|筋《すじ》|縄《なわ》でいくやつじゃない。ああして|紅《べに》|薔《ば》|薇《ら》座へあらわれたところをみると、明美が殺されたからって、おめおめとこのままひきさがろうとは思えない。わかったかい、音禰。だからおまえにゃおれという、強くてかしこい男が必要なんだ。われわれはひとつ同盟を結ぼうや」  このような悪党と同盟を結ぶなどということは、理性のうえから考えると、|虫《むし》|酸《ず》の走るような想いである。それにもかかわらず、そのとき私はこの男に、|縋《すが》りついていたいような衝動を、身うちに感ぜずにはいられなかった。 「ところで今夜のアリバイだがね。それを打ち合わせするまえに、おまえにちょっと見てもらいたいものがあるんだ」  と、男は用心ぶかく|鍵《かぎ》のかかったデスクの|抽《ひき》|斗《だし》をひらくと、 「音禰、おまえはいままでこういう写真か、それとも実物ならなお結構だが、どこかで見たことはない?」  男がとりだしたのは一葉の写真だったが、ひとめその写真を見たせつな、私はなにゆえともしらず、背筋に|錐《きり》をもみこまれるような|戦《せん》|慄《りつ》を、感ぜずにはいられなかった。  それは丘を背景としてたっている三重の塔の写真だったが、曇天にうつしたらしく、妙にぼやけて暗い図面が、まるでその塔にのしかかっている、|凶《まが》|々《まが》しい運命を暗示しているように思われてならぬ。  しかし、私が戦慄したのはそのせいばかりではない。いつか私はこのような塔を、どこかで見たような気がするのだ。いつ、どこで……? しかし、それはとおい、ふるい記憶の煙幕にとざされて、いまの私には思い出すよすがもない……。      三つ首塔由来 「|音《おと》|禰《ね》、おまえはしっているんだな。こういう塔がどこにあるのか……。音禰、しっているならおしえてくれ」  男の声にはいつに似合わぬ真剣さと、強い|気《き》|魄《はく》がこもっている。しかし、私になんと答えられよう。 「あたし……たしかにこういう塔を、いつか、どこかで見たような気がします。しかし、それがどこだかわからない……」 「音禰、音禰、思い出してくれ。ねえ、思い出してくれないか。この塔こそわれわれの……いや、おまえの運命に重大な影響をもっているんだから」  私の肩に両手をかけ、強い力でゆすぶる男の顔色は、まるで気がくるったようである。どんな場合でも……殺人事件をまえにしてさえ、平然として落ち着いているこの男の、こうも取りみだした顔色を、私は不思議というより|呆《あき》れた気持ちで見なおした。 「だって、無理よ。あたしこういう塔を見たことがあるような気がするというだけ……ほんとに見たことがあるのかないのか、それさえはっきりしないんですもの。もし見たことがあるとすると、ずっと昔わたしがまだ幼いころ」 「音禰、おまえはやっぱりこの塔を見たことがあるんだよ。そしてねえ。音禰、人間というものは全然忘れてしまうということはありえないんだ。ただ記憶の奥底ふかく閉じこめられているだけのことなんだ。だからねえ、音禰、思い出してくれ。いまでなくたっていいけれど、できるだけはやく思い出すように努力しておくれ……」 「ええ、それは……あたしだって気になりますから……」  そのとき、男の顔をおおっていた、悲痛な色を私は不思議に思って見まもりながら、 「でも、この塔は……?」 「これが三つ首塔なんだよ」  予期した答えとはいいながら、その不吉な名前を耳にしたとき、私はやっぱり無意味な|戦《せん》|慄《りつ》を禁じることができなかった。 「でも、どうしてそんないやな名前がついているんですの」 「この塔にはね、木で彫った三つ首がまつってあるんだ。アメリカにいるおまえの|親《しん》|戚《せき》の玄蔵老人と、玄蔵老人に殺された武内|大《だい》|弐《じ》と、武内大弐殺しのむじつの罪で首を|斬《き》られた、|高《たか》|頭《とう》省三の三人の首が……」  私は大きく眼を|視《み》|張《は》ったまま、しばらく口をきくこともできなかった。なにかしら恐ろしいもの、無気味な微生物が全身をはいまわる感じである。 「武内大弐ですって? それじゃもしやそのひとが、あたしたちを|狙《ねら》っているという武内|潤伍《じゅんご》というひとの……」 「ああ、そうだよ。武内潤伍のじいさんにあたるんだ。まあ、お聞き。おまえの親戚の玄蔵老人は、武内大弐という男を殺して逃亡したんだ。ところがその疑いがおれの……おれやいとこの俊作のひいじいさんにふりかかってきて、ひいじいさんの高頭省三はむじつの罪で死刑を宣告され、打ち首になったんだ」 「打ち首……?」 「ああ、そう、音禰はしるまいが、日本の死刑が絞首刑になったのは、明治十三年以来だからね。この事件はそれよりまえ、明治十一年から十二年にかけての出来事なんだ。ずいぶん古い話だね」  男はベソをかくような微笑をうかべて、 「ところで、おまえの親戚の玄蔵老人は、日本を脱出すると、あちこち放浪したあげく、|支《し》|那《な》人になりすましてアメリカへ入国し、そこでげんざいのように成功したんだね。ところが成功してみると、昔の罪がおそろしい。そこで罪ほろぼしの一助にもと、じぶんの殺した武内大弐の孫息子、潤伍というのをアメリカへひきとったんだ。この潤伍というのがまっとうな人間ならば、玄蔵老人もじぶんの財産をゆずるつもりだったんだが、このあいだ黒川弁護士も話していたとおり、こいつが|箸《はし》にも棒にもかからぬやつなので、とうとう日本へおいかえした。そして、そのかわりじぶんの血縁にあたる宮本音禰、すなわちおまえと、じぶんの身代わりとなって打ち首となった高頭省三の|曾《そう》|孫《そん》、高頭俊作をめあわせて、このふたりに財産をゆずろうと考えたんだ」 「高頭俊作というのはあなたのいとこね」 「ああ、そうだ」 「それじゃどうして玄蔵というひとは、いとこのかわりにあなたを選ばなかったんでしょう」  私は満身のあざけりをこめて、相手の心を傷つけてやるつもりだったけれど、その語気は予期したよりも弱いものになっていた。  男はにやりと不敵の笑みをうかべて、 「それはおおかた、おれの根性がねじけているので、玄蔵老人のおめがねにかなわなかったのだろうよ」  と、ふてくされたようにせせら笑うと、 「それはさておき、玄蔵老人は昭和十二年ごろ、いちど日本へかえってきたことがあるんだね。そのとき三重の供養塔を建て、そこへじぶんの殺した武内大弐と、じぶんの身代わりとなって死んだ高頭省三、それからじぶんじしんの似顔の首と、三つの木造の首をおさめたんだ。それでこの塔を三つ首塔とよぶんだが……たぶんそのときのことだろう。おまえも黒川弁護士に見せられたろうが、じぶんの意中の少年少女、高頭俊作と宮本音禰の写真を、ぬすみどりしていったのは……」 「それで、その塔がどうしてあたしの運命に、重大な関係があるというんです」 「それはまだいえない。それがわれわれの……いや、おまえの敵にもれると、取りかえしのつかぬことになりそうだ。だから、われわれは一刻もはやく、この塔のありかをさがしださねばならないんだ」 「でも……でも……あなたはどうして、そんな詳しいことをしってるんですの」 「おれか。おれはなんでもしっている。音禰、百億という財産のことを考えれば、どんなことでもしっておく必要があると思わないかね」  私はまたつめたい|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつらぬいて走るのをかんぜずにはいられなかった。 「この写真どうしてあなたが持っているんです」 「これか。これは高頭俊作が玄蔵老人からもらって、子供のときからたいせつにしていたものなんだ。音禰、俊作の左の腕に、音禰、俊作と|刺《いれ》|青《ずみ》がしてあったね。あれも玄蔵老人が後日の目印に彫ったものなんだ。だれかが俊作の身代わりになったりしちゃいけないと思ったんだね。老人はよっぽど高頭俊作と、宮本音禰がかわいかったとみえるな」  とつぜん、恐ろしい疑いの火花が頭のなかにさっと散って、私はすっくと立ちあがった。 「ああ、わかったわ。それであなたはいとこを殺したのね。そしてこの写真をうばったのね。そうよ。そうよ。悪党! 悪党! あなたはやっぱり人殺しなのね!」 「音禰! おれが悪党であろうがなかろうが、おまえにはやっぱりおれが必要なんだ。さあ、おいで。もうあまり時間がない。隣の部屋で今夜のアリバイの相談をしようじゃないか」 「いや!」 「いやあ……?」 「今夜はもう堪忍して……」 「あっはっは! 音禰、おまえはそんなことをいうけれど、おまえの体はおれを求めているんだ。おまえはおれに|惚《ほ》れてるんだ。おまえはわざとそれを認めようとしないけれど……さあ、おいで。おれたちは体と体で、しっかり約束しておかなきゃあならないんだ」  男は鍵のかかる|抽《ひき》|斗《だし》に、三つ首塔の写真をほうりこむと、しびれたように立ちすくんでいる私のそばへよってきて、かるがると私の体を抱きあげた。  ああ、私はまた、妊娠の恐怖と不安になやまされなければならないだろう……。      血染めのハンケチ  それから四十分ののち……。麻布六本木にある上杉の|伯《お》|父《じ》さまのお宅へまがる町角で、自動車をとめて外へおりると、だしぬけに暗がりのなかから男がひとりよってきた。 「宮本|音《おと》|禰《ね》さんですね」  |脛《すね》に|疵《きず》持つというのは、こういうときに使う言葉だろう。うしろ暗いかくしごとを持っている私は、本能的に相手を警察のひとと気がついて、どきっと胸をふるわせたが、それでもできるだけさりげなく、 「はあ、あの、あたし、宮本音禰でございますが、そういうあなたは……?」 「はあ、わたしは警察のものですが、あなたのおかえりをお待ちしておりました。おい、君、君」  と、刑事が運転手のほうへむきなおって、 「このお嬢さんをどこから乗っけてきたんだね」 「はあ、あの、|有《ゆう》|楽《らく》町からでございますが……」 「有楽町……? 間違いないね。君、免許証を見せたまえ」 「はあ、あの、|旦《だん》|那《な》、なにかございましたので……?」 「まあ、なんでもいいから免許証を見せてもらおう」 「へえ……」  運転手が免許証を出してみせると、刑事は懐中電灯でそこに|貼《は》ってある写真と、運転手の顔を見くらべながら、 「新野君というんだね、ところで新野君、有楽町でこのお嬢さんを乗っけたというが、それは何時ごろのことだね」 「何時ごろのことといって……」  と、運転手は腕時計に眼をやると、 「いま十一時十分ですから、十一時五分まえくらいだったんじゃないでしょうか。夜のことですから相当飛ばしてきましたから」 「そのとき、このお嬢さん、おひとりだったかね」 「へえ、おひとりでしたよ。|数《す》|寄《き》|屋《や》|橋《ばし》のところを、|日《ひ》|比《び》|谷《や》のほうへむけて歩いていらしたので、声をおかけしたところが、すぐ乗ってくださいましたんで……しかし、旦那、なにかご不審の点でも……?」  さすがに悪党堀井敬三の部下である。不審そうに|眉《まゆ》をひそめるそのようすが真に迫っている。しかし、刑事はそれにこたえず、運転手の名前や車体番号を手帳にひかえ、 「それじゃ君はいってよろしい。しかし、いつまた呼びだすかしれないから、そのつもりで……」 「へえ、承知しました。それじゃ……」  自動車がいってしまうと、刑事は私のほうへむきなおって、 「失礼しました。ちょっとまた厄介な問題が起こったものですから。……それじゃお供しましょう」 「はあ、あの、厄介な問題って、どういう……?」 「いや、それはおかえりになればわかります」  その町角から上杉の家まで百メートル。刑事と肩をならべてあるきながら、私の胸はあやしく|紊《みだ》れる。  BON・BONの事件が発覚したのにちがいないが、それにしてもこんなにはやく、私のところへ、警察の手がまわるというのはどういうのだろう。ひょっとするとあの部屋へ、|身《み》|許《もと》がわかるような証拠品を忘れてきたのか。それともこの事件について、警察ではとくべつに、私に眼をつけているのだろうか……。  上杉家へついてみると、門にも玄関にも応接室にもあかあかと電気がついていて、なんとなく人の気配がものものしい。 「刑事さん、なにかおうちで……?」 「いや、いや、べつに心配なさることはありません。みなさんお待ちかねですから、すぐ応接室のほうへ……」  玄関で|外《がい》|套《とう》をぬいで、応接室へはいっていった私は、急に顔から血の気がひいていくのをおぼえた。  そこには上杉の|伯《お》|父《じ》さまと品子さま、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部とふたりの刑事……と、そこまでは覚悟のまえだったけれど、ほかにもうひとり、あの小憎らしいもじゃもじゃ頭の金田一耕助が、しかつめらしい顔をしてひかえているではないか。  私はさっき堀井敬三こと|高《たか》|頭《とう》五郎から、こんこんと注意をされてきたのだ。  金田一耕助に気をつけろ……あの男の|風《ふう》|采《さい》にだまされてはならぬ……。あいつはあれで|凄《すご》い男なんだから……。もしわれわれが敗れるとすれば、きっとあの男にちがいない……。と。 「音禰、おまえはいままで、いったいどこへいっていたんだ!」  |蒼《あお》|白《じろ》んで、無言のまま立ちすくんでいる私にむかって、極めつけるようにおっしゃった、上杉の伯父さまの語気は、いつにないきびしさだった。 「伯父さま、すみません、あたし、つい……」  おやさしい伯父さまから、いままでついぞ、そんなきびしいお言葉をきいたことのない私が、思わず涙ぐむと、そばから品子さまがとりなすように、 「誠也さん、そんなに、|咬《か》みつくようにいうもんじゃありませんよ。音禰や、こちらへいらっしゃい」 「はい……」 「さっきね、このひとたちがいらして、あなたのことをお|訊《たず》ねになるんでしょう。それで、音楽会もおわった時分だからと思って、河合さんのところへお電話してみたの。そしたら河合さんはもうおかえりになっていらして、宮本さんならば八時まえに、気分が悪いとおっしゃって、公会堂からおかえりになったというご返事でしょう。それであたしも誠也さんも、とても心配していたんですよ。音禰はいままでどこにいたの?」 「伯母さま、すみません。どこにって、ただ銀座をぶらぶらと……」 「しかし、お嬢さん」  と、そばから口をはさんだのは等々力警部。 「ただぶらぶらと……と、おっしゃっても、あなたが日比谷公会堂を出られたのは八時まえだというんでしょう。そして、いまはもう十一時すぎですよ。三時間ものあいだぶらぶらしていらっしゃったんですか」 「いえ、あの……そのあいだに映画館へもはいりましたし、それから喫茶店へも一軒……でも、おばさま、なにかまた……?」 「音禰!」  とつぜん、そばから伯父さまが強い声で口をはさまれた。 「おまえ、ハンケチはどうした、ハンケチは……?」 「ハンケチとおっしゃいますと……」 「いやね、音禰、このひとたちの話をきくと、今夜またどこかで殺人事件があったんだそうだ。ところが被害者の胸につっ立っていた短刀の柄に、ハンケチがまいてあったんだが、そのハンケチというのが……」  とつぜん、私の頭にあの恐ろしい影像がよみがえってくる。脂肪のかたまりのような島原明美の胸もとに、ぐさりと突き立っていた、短刀の柄にまいてあったあのハンケチ……。 「伯父さま、そのハンケチというのが……」 「ああ、いや、警部さん、音禰にあのハンケチを見せてやってくださらんか」  警部も金田一耕助も、あきらかにその切り札を出すまえに、もっとよく私のアリバイをたしかめるつもりだったにちがいない。だから、伯父さまがはやまって口を出されたときには、ふたりとも困ったように顔をしかめていたが、伯父さまにうながされるとしかたなく、警部はハンケチを出してみせたが、そのとたん、私は脳天から|錐《きり》をもみこまれるようなショックをかんじた。  すみのほうに Otone M. と|刺繍《ししゅう》のしてあるそのハンケチは、あきらかに今夜、日比谷公会堂でおとしてきたものだが、みるとぐっしょり血に染まっている。      アリバイづくり  ああ、私にとってそのハンケチこそ、二重の意味で、世にも恐ろしいショックだったのだ。  自分のハンケチがいまわしい殺人に使用されたということと、それともうひとつには、それを拾って利用したのが、誰であったかということ……。ああ、それでは島原明美を殺したのは建彦|叔《お》|父《じ》だったのだろうか……。 「|音《おと》|禰《ね》や、音禰、しっかりしてちょうだい。あなたはこのハンケチをどこかで落としたんでしょう。それを誰かが拾って利用したのね。いいえ、わかってますよ。だから、なにもそんなに心配することはないんですよ」  おやさしい品子さま、なにもご存じないおばさまのお言葉をきいているうちに、私はいまさらのようにおのれの罪の深さに、胸をえぐられるような悲しさにおそわれて、ひしと両手で顔をおおった。 「お嬢さん、われわれも決して、あなたをお疑いしているわけではないんですよ。いま御隠居さんもおっしゃったように、お嬢さんはどこかで、このハンケチをお落としになったんじゃありませんか」  |等《と》|々《ど》|力《ろき》警部の質問に、私は泣きじゃくりながらうなずいた。 「なるほど、それではどこでお落としになったか、|憶《おぼ》えていらっしゃいませんか。ああ、憶えていらっしゃるんですね。どこで……?」 「日比谷公会堂を出るとき、正面階段の下で……」  品子さまのかしてくだすったハンケチで、涙をぬぐうと私はしゃんと顔をあげた。泣いているばかりが能ではない。金田一耕助の顔色に、気をつけていなければいけないのだ。 「しかし、お嬢さん、そうして落とし場所をはっきりご存じでいらっしゃりながら、どうして拾っておかえりにならなかったんですか」  ああ、しかし、どうしてそれに答えることができようか。それをいえば建彦叔父に、疑いをかけることになるかもしれないのだ。私の顔にうかぶ困惑の色を見てとったのか、金田一耕助がからだを乗りだし、 「お嬢さん、あなたが公会堂を出られるとき、お友達はどうしていられたんですか。玄関まで送ってお出には……?」 「はあ、あの、河合さんも、橋本さんも送ってくださいました」  それを聞くとすぐに刑事のひとりが立ちあがって、品子さまから河合さんの電話番号をきいて出ていった。 「ところで、お嬢さん。あなたはいま、映画館へお入りになったとおっしゃいましたが、なんという映画館かおぼえていらっしゃいますか」 「さあ……」  と、私は首をかしげた。私の胸は早鐘をつくような|動《どう》|悸《き》である。これからがいよいよ、金田一耕助とのたたかいなのだ。 「あたしべつに、映画を見たいと思ったわけではございませんの。ただ映画館なら、誰にも見られずに、ひとりでいられると思ったものですから……。でも、たしか、新橋ぎわのほうでした」 「失礼ですが、プログラムのようなものは……?」  私は玄関からオーバーを取ってきて、ポケットからアートのりっぱなプログラムを出してわたした。金田一耕助はさりげなく、そのプログラムをまさぐりながら、 「失礼ですが、ここへお入りになったのは何時ごろのことですか」 「さあ……。公会堂を出て……あたしそのときは、おうちへかえるつもりだったんですけど、ちょっといやなことがございまして……」 「いやなことというのは……?」  等々力警部がたずねるのを、金田一耕助があわててそばからさえぎって、 「いや、いや、お嬢さん、どうぞおあとをおつづけになって……」 「はあ、あの……あたしちょっと、気分的に混乱しておりましたものですから、銀座でも歩いたら気持ちがおさまろうかと思って……そのうちについふらふらと、その映画館へ入る気になったものですから。……さあ、八時三十分か四十分ごろじゃなかったでしょうか」 「なるほど、それで何時ごろまで……?」 「それが……十分か二十分ぐらいしかいなかったんですの。それというのが、ちょっと館内に騒ぎがあったものですから……」 「騒ぎというのは……」 「はあ、あの、|掏《す》|摸《り》かなんかがまぎれこんでいたらしいんですのね。どなたかお客様が掏摸だとおさけびになったので、わっとこう、みなさんが総立ちになって……それであたしなんだかいやになってそこを出てしまったんですの。そうそう、そのとき時計をみたら、ちょうど九時でございました」 「なるほど、それから……?」 「はあ、それからまた銀座をぶらぶら歩いて、|尾《お》|張《わり》町から有楽町まできたんですの。そのときはあたし、こんどこそ、ほんとうにかえるつもりだったんですけれど、そこでこんどはあたしじしんに妙なことが起こって……」 「妙なことというのは……?」 「あたし、有楽町のガード下から、日比谷のほうへぼんやりあるいていたんですの。そしたら、うしろからきたひとが、いきなりあたしのハンド・バッグをひったくって……」 「まあ……。音禰、でもハンド・バッグはそこに……」 「ええ、おばさま。それが……そこにいた靴みがきの子がとりかえしてくれたんですの。あたしもうびっくりしてしまって、声をたてることもできず、|脚《あし》ががくがくふるえたんですけれど、そばにいた靴みがきの子が、とっさに立ちあがってその男を追っかけたかと思うと、まもなくとりかえしてきてくれたんですの」 「なるほど、それからまっすぐおうちへ……?」 「いえ、あの、あたしそういういやな顔色で、おうちへかえりたくなかったものですから……。それでその子にお礼をやって……?」 「いくらおやりになりましたか」 「五百円でした」 「はあ、なるほど、それから……?」 「それからまた尾張町のほうへひきかえして……かさねがさね、いやなことばかりつづいたものですから、あたしもうすっかり動揺してしまって……それでいったん尾張町までいって、しばらくぼんやりそこに立っていたんですけれど、それからまた有楽町のほうへひきかえしてくるとちゅう、わりにお上品で、それに客もなさそうな喫茶店があったものですから、そこへ入ってソーダ水をいっぱいいただいたんですの」 「なんというお店ですか」 「さあ……。名前のところは……?」 「尾張町から有楽町のほうへむかって、右がわでしたか、左がわでしたか」 「右がわでした。小ちゃなお店で、十七、八の女の子がひとりしかいませんでしたけど……そうそう、たしか、薬局の隣だったようにおぼえておりますけれど……」 「それで、そこをお出になって……?」 「はあ、それからぼんやり|数《す》|寄《き》|屋《や》|橋《ばし》のところまでまいりましたところが、さっきの運転手さんに車をすすめられたものですから……」  それについてさっき私を出迎えた刑事が、警部に説明しているところへ、電話をかけにいった刑事がかえってきた。等々力警部はその刑事からひそひそ声で話を|訊《き》いていたが、急に大きく|眉《まゆ》をつりあげると、私のほうへむきなおった。 「お嬢さん、こういうときにはなにもかも、正直にいってくださらなければいけませんよ」 「はあ……」 「いま、あなたのお友達の河合さんに電話をかけてきいたところが、あなたは日比谷公会堂の正面玄関でだれか|識《し》り合いのかたにあわれたそうですね。そのひとはしたしそうにあなたにむかって、音禰と呼びかけたが、あなたはそのひとの顔をみると、逃げるように階段をかけおりていかれた。そして、そのとき、あなたがハンケチを落とされたのを、あなたを呼びかけた男が拾った……と、河合さんはこういってるそうですが、いったいだれですか。その男というのは……?」 「はあ、あの、それが……」  私の顔からは|脂汗《あぶらあせ》がにじみ出てくる。それはけっしてお芝居ではなく、まったく私は窮地に立ったのだ。できることなら、建彦叔父の名前を出したくない……。 「音禰」  上杉の伯父さまがむこうがわから、やさしい声をおかけになった。 「これはたいせつなことだからね、警部さんのご質問に正直におこたえしなさい。いったいだれだったの、その男というのは……?」 「はい、伯父さま……、それが、あの、佐竹の叔父さま……」  警部と金田一耕助は、すばやく眼と眼を見かわせて、なるほどというようにうなずきあう。 「まあ、音禰や。建彦さんなら、なにも逃げるようにしなくても……」 「いいえ、伯母さま。それが叔父さまおひとりならよかったのですけれど……」 「だれか連れがあったの?」 「はあ、あの、アクロバットのかたと……あたしそれでお友達にもきまりが悪うございましたし、なんだかとてもいやアな気がして……それですから、ハンケチを落としたのもしってたんですけれど、つかまっては困ると思って……」  私はとうとうハンケチを眼におしあてたが、そのとき金田一耕助が、私から受け取ったあの映画館のプログラムを、いかにもだいじそうに折り|鞄《かばん》にしまうのを見て、思わずどきっと胸をふるわせた。      警報至る  ああ、私はなんという悪い女、なんという恐ろしい女になったのだろう。大恩ある|伯《お》|父《じ》さまや、品子さま、さては物慣れた警部さんや堀井敬三のような悪党でさえ、恐れをなしている金田一耕助のようなひとをまえにおいて、よくもあんな|嘘《うそ》がつけるものだ。  むろん、あの嘘はちくいち、堀井敬三にふきこまれたもので、あの映画館のプログラムなども、あらかじめ堀井敬三が用意しておいてくれたものなのだが、しかも、あとになって私の申し立てた偽アリバイが、完全に立証されたときには、いまさらのように私は、堀井敬三という男の恐ろしさを、身にしみて感ぜずにはいられなかった。  私が入ったと申し立てた新橋際の映画館では、八時五十分ごろほんとうに|掏《す》|摸《り》騒ぎがあったのだ。また有楽町のガード下では、九時半ごろ、かっぱらい騒ぎがあって、靴みがきの少年が、わかい婦人のハンド・バッグを、とりかえしたという事実もあった。しかもその靴みがきの少年は、私のまえではっきりと、じぶんの救ったのはこのお嬢さんにちがいないと断言した。  さらにもっと驚くべきことには、有楽町から尾張町へいく途中にある喫茶店、アザミの女給のカツ子という娘が、十時半ちかくにひとりのお嬢さんがやってきて、いっぱいのソーダ水で二十分ちかくもぼんやり|坐《すわ》っていられたが、そのお嬢さんはたしかにこのひとにちがいないと、私のまえで証言したのだ。  これからみても堀井敬三という男が、いかにひろい範囲に勢力をもっているかということがわかるのだ。靴みがきの少年も、アザミの女給のカツ子という娘も、むろんあの男に買収されているにちがいない。  あの男はあらかじめ私のために、アリバイをつくっておいたとしか思えない。すなわち、だれかに命じて映画館で掏摸さわぎを起こさせたり、有楽町のガード下でかっぱらい騒ぎを演じさせたり……。ああ、もし、それが事実ならば、なんという恐ろしい男……なんという用意周到な悪党だろう。しかも、私はその悪党に、いまや身も魂もみこまれてしまっているのだ……。  それはさておき、ボン・ボンのマダム、島原明美の殺人事件は、その翌朝の新聞に大きく報道された。もうそのころには、百億円の遺産問題は、世間周知の事実となっていたので、それだけにこの事件のひきおこしたセンセーションは大きかった。  百億円の遺産をめぐって、血で血を洗う|殺《さつ》|戮《りく》がくりかえされるのではないか……などとほのめかしている新聞すらあった。  それにつけても私が心をいためたのは、建彦叔父のことだったが、思いのほかかんたんに、叔父の疑いはとけたらしい。建彦叔父はたしかに私のハンケチを拾ったが、あとでそれを公会堂の廊下の|手《て》|摺《す》りに、のっけておいたというのだが、それについては|幾《いく》|人《にん》かの証人があったらしく、また、当夜のアリバイも立証されたらしい。  そこで当然、警察の注視の的になったのは、島原明美が殺害される直前、ベッドをともにしたらしい男……それが志賀雷蔵だとは警察でも、まだしっていないらしいのだが……と、それから、明美の殺された部屋の隣をかりたまま、それきり姿をくらました、木下と名のる|闇《やみ》ブローカーと、その闇ブローカーのつれの女と……その三人に容疑の焦点がしぼられているらしいのだ。  ああ、伯父さま、品子さま。申し訳ございませぬ。なんともお|詫《わ》びの申し上げようもございませぬ。|音《おと》|禰《ね》はすっかり堕落してしまいました。私は男の味をしり、そして、その男からはなれられなくなっている女でございます。お許しくださいませ、伯父さま、品子さま……。  私は夜毎|枕《まくら》をぬらし、しだいに|顛《てん》|落《らく》していくじぶんの運命を、|呪《のろ》わずにはいられなかった。  ただ、このうえは伯父さまの名誉のためにも、あくまでもこの秘密を、守りとおさねばならぬと決心したのだが、ああ、その努力もついに水泡に帰する日がやってきたのだ。  それは島原明美が殺されてから、五日目の夜の七時ごろのこと。河合さんからお電話でございますという女中の茂やの取り次ぎに、電話口へ出てみると、電話の声は河合さんとはちがっていた。 「あの、音禰さまでございますか。音禰さまでございますね。あらかじめご注意申し上げますが、あたしがこれから申し上げることをお聞きになっても、けっして声を立てたり、|狼《ろう》|狽《ばい》なすったりしちゃいけませんよ。あたしユリでございます。ユリちゃん……おわかりでございましょうねえ」  早口にしゃべる女の声をきいて、私の頭にさっとあのギャレージの女の名前がひらめいて、思わず受話器をもつ手がぶるぶるふるえた。 「ええ、あの、わかりましたけれど……」 「ああ、そう、それじゃお嬢さまはいますぐ、そのうちをお出になってくださいまし。そして新橋駅の西出口でお待ちくださいますように。|旦《だん》|那《な》様……山口の旦那様がお迎えにおいでになりますから……。よろしゅうございますか。だれにも怪しまれぬように……、しっかりと、落ち着いて。……おわかりでございますね」 「はあ、あの、河合さん、それはわかりましたけれど、どうしてにわかにそんなこと……」 「いまあなたには危険が迫っているのでございます。一刻もはやくそこをお出になって……これ以上申し上げているひまはございません。はやく、はやく、一刻もはやく……それではこれで……」  私がまだなにか|訊《き》こうとするまえに、ガチャンと|鼓《こ》|膜《まく》にいたいほどの音をたてて電話がきれた。  私の|膝頭《ひざがしら》はガクガクふるえ、舌がひっつって、心臓が早鐘をうつように乱調子に鳴る。私は受話器をにぎったまま、|茫《ぼう》|然《ぜん》と眼を|視《み》|張《は》っていたが、そのとき、玄関のベルが鳴る音がして、まもなく茂やが足ばやにやってきた。 「あのお嬢さま。|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部さまと金田一耕助さまがお見えになりましたから、応接室のほうへいらっしゃいますようにと……」  そういう茂やの背後には、見おぼえのある刑事がふたり、用心ぶかい眼を光らせている。  ああ、私は万事休したのだ。      第三章 暴露  出来るだけ無邪気らしくふるまっているつもりだったが、応接室のなかをひとめ見たとき、私は|膝《ひざ》がしらががくがくふるえ、|頬《ほ》っぺたの筋肉が、異様にこわばるのをどうすることもできなかった。  応接室には、上杉の|伯《お》|父《じ》さまと品子さまのおふたりが、等々力警部と金田一耕助に、相|対《たい》|峙《じ》するかっこうで|坐《すわ》っておられ、部屋のなかには険悪な空気が、おもっくるしく吹き流れていた。  しかし、そのことは私もすでに覚悟のまえだった。それくらいのことでは、動じないだけの修業が私にも出来ていた。それにもかかわらず、ひとめ応接室のなかを見わたしたとき、私がきびしい絶望感におそわれたのは、そのときの金田一耕助の表情である。  私と視線があったとき、金田一耕助の顔にうかんだのは、勝利のかがやきでもなければ、|嘲弄《ちょうろう》のいろでもなかった。それは世にもいたましげな|憐《れん》|愍《びん》の情である。金田一耕助はまるでその場にいたたまれないような表情をして、私の顔から視線をそらした。  そのことがするどく私の心臓をさしつらぬいたのだ。私は敵からあわれみをうけるのを好まない。私のプライドが許さないのだ。私はむしろこの男から、嘲笑され、愚弄されているほうが、どれだけ気が楽だかわからない。  それにもかかわらず、金田一耕助はそのとき私にたいして、|惻《そく》|隠《いん》の情をもよおしたのだ。しかも金田一耕助のその表情から、私はきょうこのひとたちがやってきたには、よほど容易ならぬ証拠をにぎっているらしいことを、はっきりとさとったのである。 「あの、伯父さま、おばさま、なにか御用でございましょうか」 「ああ、|音《おと》|禰《ね》や。こちらへはいっていらっしゃい。このひとたちがね、またなにか、お|訊《たず》ねになりたいことがあるとおっしゃるのよ」  そうやさしく声をかけてくだすったのは品子さまである。伯父さまは苦虫でもかみつぶしたような顔色で、しきりにたばこの煙を吐いていられる。 「はい……」  私がおずおずと品子さまのそばに腰をおろすと、たまりかねたように伯父さまが、灰皿のなかで|吸《す》い|殻《がら》をおしつぶして、 「ねえ、警部さん、もういいかげんになすったらどうです、としはもいかぬわかい娘を、なんども呼び出して……そのこと自体がこの|年《とし》|頃《ごろ》の娘にとっちゃ、一種の拷問だとはお思いにならないんですか」 「と、とんでもない。われわれとしましては、お嬢さんがただ正直にうちあけてくださればよろしいので……」  |等《と》|々《ど》|力《ろき》警部は渋面をつくっていたが、落ち着きはらったその態度から、自信のほどがしのばれて、私はまた身うちがすくんだ。 「正直にうちあける……?」  上杉の伯父さまは怒りに声をふるわせて、 「それじゃ、音禰がなにか|嘘《うそ》をついている。なにかかくしているとおっしゃるんですか」 「いや、まあ、まあ……。それをこれからお嬢さんにお訊ねしたいと思ってるんですよ。そのうえでご潔白を証明していただければ……」 「潔白を証明する……? それじゃ、音禰になにかうしろぐらいところがあるとおっしゃるんですか」 「まあ、まあ、誠也さん、あなたのようにそうがみがみいっても……ここは一応、このかたたちのお話をうかがわなければ……音禰にかぎってそんなこと……。ねえ、音禰や、大丈夫だわね」 「はい……」  と、お答えしたものの、私は伯父さまや品子さまにたいするすまなさで、胸もふさがる|想《おも》いであった。伯父さまはしばらく私の顔色を|視《み》ていられたが、やがてその視線をほかにそらすと、それきりむっつりと黙りこんでしまわれた。 「それじゃ、失礼して、お嬢さんにおうかがいいたしますが……」  と、警部はちょっと威儀をただすと、 「お嬢さん、あなたは新宿にあるボン・ボンというバーをご存じですか」  私の心臓はぎょくんとひと揺れ、大きく揺れたが、しかし、こんなことで敗けてはならない。 「はい、あの……存じております」 「どうして……?」 「新聞で拝見して……島原明美ってひとが、そこで殺されたってこと……」  そのせつな、等々力警部とすばやく視線をかわした金田一耕助の面上を、またふっと|憐《れん》|愍《びん》の色がはしるのに気がついて私はどきりと胸をふるわせた。 「いいえね、お嬢さん、私がお訊ねしているのは、そういう意味ではないんです。ひょっとすると、あなたはボン・ボンというその店へ、おいでになったことがおありじゃないかと……」 「ば、馬鹿な! そ、そんな馬鹿な!」  と、上杉の伯父さまはふたたび満面に怒気をうかべて憤然と身をのりだされた。 「あなたはこの音禰をなんと思っているんです。そういうぶしつけな質問をなさると、この音禰のみならず、わたしまで侮辱されたものと思いますぞ」 「まあ、まあ、まあ、誠也さん、そういきりたたないで……それではかえって音禰がおびえますから……。さあ、音禰や、警部さんのご質問におこたえしなさい。あなたはむろん、そんなところへいったことはないわねえ」 「はい……」 「お嬢さん、ほんとうにボン・ボンへおいでになったことはありませんか」 「はい」  私はもういちどはっきり答えた。  上杉の伯父さまは安心なすったのか、こんどは言葉もおだやかに、 「警部さん、しかし、あなたはどうして音禰が、ああいうところへいったのではないかとお考えになったんです。ハンケチの問題なら、このあいだ解決したはずだが……」 「先生、それなんですがね。それについちゃ、ここにちょっと妙なことがあるんです」  と、警部は私の顔から眼もはなさず、 「島原明美の殺された部屋の隣室を借りたふたりづれの男女が、いつのまにやらいなくなっていたということは、先生も新聞で読んでいらっしゃると思いますが……だからそのふたりが、こんどの事件になにか関係があるのじゃないかと、げんじゅうにその部屋を調べたんです。指紋の検出なんかにも努力したんですね。ところが不思議なことにその部屋には、かいもく指紋というものがないんですね。これはちと不自然だとお思いになりませんか。ああいう場所ですから、いれかわり立ちかわり、いろんな客がくる|筈《はず》ですから。指紋なんどもごちゃごちゃと、たくさんのこっていなければならんはずです。それがひとつもないというのは、だれかが……おそらくふたりづれの男女が|拭《ふ》きとっていったとしか思えない。と、いうことはそのふたりが、こんどの事件になにかしら、深い関係をもっているということを意味しそうですね。そこでいっそう熱心に、指紋の検出に努力していたところが、妙なところからとうとう指紋が発見されたんです」  私がぎょっと胸をふるわせたとき、応接室のドアをせわしくノックする音がして、 「あの……|旦《だん》|那《な》さま、黒川弁護士さまのところから、堀井敬三さまとおっしゃるかたが、おみえになっていらっしゃいますが……」      崩れるアリバイ  堀井敬三……。  その名を聞いた瞬間、私は張りつめた全身から、いっぺんに力が抜けていきそうになるのをおぼえた。このときほど私はこの男を、たのもしく思ったことはない。  堀井敬三は私のことを心配して、駆けつけてくれたにちがいない。そして、そのことを私の耳にいれることによってひそかに、勇気づけようとしているのだ。  あの巧妙なアリバイづくりのいきさつ以来、私はこの男を一種の超人として考えるようになっていた。その超人が駆けつけてくれたからには、なにかのがれるすべがあるのかもしれない。そうだ、ここで崩れてはならぬ。しっかりと持ちこたえて、この急場からのがれるくふうをしなければならぬ……。 「ああ、そう」  と、伯父さまはちょっと|眉《まゆ》をひそめて、 「いまちょうど手がはなせないんだが……そこで待っていただくか、それとも出直していただくか……」 「お待ちになるといってらっしゃいます」 「ああ、そう、それじゃ|椅《い》|子《す》をさしあげておきなさい」  それから、伯父さまは警部のほうへむきなおると、 「失礼しました。それで妙なところから指紋が発見されたというのは……?」 「それはこうなんです。その部屋の壁には隣室、すなわち島原明美の殺された部屋ですね。そこをのぞけるように|覗《のぞ》き穴がこさえてあるんです。どういうわけでそんな穴がこさえてあるのか、それは直接この事件に関係のないことですから申し上げませんが、その覗き穴をかくすために額がひとつかけてある。その額のガラスのうえにべったりと、婦人のものらしい指紋がのこっていたんですね」  ああ、そうだったのかと、私は胸のなかで絶望のおもいをかみしめる。暗がりのなかで覗き穴をのぞいたとき、堀井敬三はあの額を手にしていたのだ。それに私の手がふれたのを、私も気がつかねば、堀井敬三も見おとしていたのである。ああ、もう私は助からぬ。 「それが音禰の指紋だったというんですか」  |眼《ま》じろぎもせずに私の顔を|視《み》ていられた伯父さまの面上を、さっと恐怖のいろがつっ走る。警部はおもっくるしくうなずいた。 「音禰、まさか、そんな……」  品子さまも恐怖の叫びをおあげになる。  私は全身が氷のように冷えていくのをおぼえたが、しかし、それにしても、どうしてそれが私の指紋とわかったのか。 「ああ、そのことですが。このあいだお嬢さんがお持ちかえりになった映画館のプログラムですね。あれにお嬢さんの指紋がついておりましたので、なにげなく比較してみたところが、ぴったり一致いたしましたようなわけで……」  私は全身の怒りをこめて、金田一耕助をにらんでやった。ああ、そうだったのか。それであのときこの男は、あのようにだいじそうに、プログラムをしまいこんでいたのか。 「音禰!」  しばらくの沈黙ののち、とつぜん、伯父さまのきびしい語気が|炸《さく》|裂《れつ》した。 「それはほんとうか。いま警部さんのおっしゃったことはほんとうなのか。おまえはあんなところへいったのか」 「まあ、まあ、誠也さん、あなたのように、|咬《か》みつくようにいうもんじゃありませんよ。ねえ、警部さん」  と、品子さまが警部のほうにむきなおって、 「このあいだのハンケチでございますね。あれも音禰がおとしたのを、だれかが拾って利用したのでしたわね。それとおなじようにその指紋もだれかが、音禰に罪をかぶせようと、そこへ持っていったのでは……?」 「はっはっは。しかしねえ、ご隠居さま、これはほかの|代《しろ》|物《もの》とちがって指紋ですよ。ご当人にないしょで、ほかのものがかってに持っていくというのは、ちと、どうも……」 「それは警部さんのお言葉とも思えませんね。その額というのは大きいのですか」 「大きいといって、縦一尺もありましょうか」 「そうでしょう。そしてその額、取りはずしできるのでしょう。ことにガラスは額からはずれますわね。音禰の指紋のついたガラスを、探すのはそんなにむずかしいことではございませんわね。だれだって、ガラスぐらいいつかさわってますよ。そういうガラスを手にいれて、その額の寸法にきっておいて、それをこっそり持っていき、むこうのガラスといれかえておく……。出来ないことではございませんわね」  警部ははたと当惑したように、金田一耕助と顔見合わせた。  私は品子さまにたいする感謝の念でいっぱいだったが、だからといって、それで助かったとは思わなかった。だいいち、品子さまご自身そう信じていらっしゃるのでないことは、私をごらんになる眼の色が、いつもとちがっているのでもわかるのだ。それが|辛《つら》い、申し訳がない……。  等々力警部はしばらく金田一耕助と、なにやらひそひそ打ち合わせをしていたが、やがてこちらへむきなおると、 「なるほど、ご隠居さんがそうおっしゃるならしかたがございません。ここへボン・ボンのものに来てもらいましょう。ボン・ボンでレジスターをしているユキという女が、男のほうと口をきいているんです。そのとき、つれの女は男のすぐうしろに立っていたといいますから、顔をつきあわせれば思い出すでしょう。先生、お電話を拝借ねがえませんか」  それが警部の切り札だったのだ。いくらか|威《い》|嚇《かく》するような調子でそういって、警部が腰をうかしかけるのを、 「ああ、ちょっと……」  と、呼びとめた伯父様のお顔には、苦悩の色が深かった。 「いったい、その男というのはどういう男なんです。新聞には|闇《やみ》ブローカーみたいな人物だとあったが、そんな男をどうして音禰が……」 「先生、それを私もお嬢さんにお訊ねしたいんです。ボン・ボンではその男を木下という闇ブローカーだという以外、なにひとつ知っていないんです。ところで、お嬢さんがあの晩ボン・ボンへいらしたとすると、せんだって申し立てられたアリバイは全部虚構ということになりますね。そこで念のためにもういちど、アリバイの再調査をしたところ、もっとも有力な証人だった靴みがきの少年と、アザミ喫茶店の女給カツ子が、その後ゆくえをくらましているんです。ねえ、先生」  と、等々力警部はわたしを|尻《しり》|眼《め》に、ぐっとテーブルのうえに体をのりだし、 「あれだけ入念なアリバイを作りあげるというのは、容易なことではありませんね。それにはそれだけの重大な理由があったにちがいない。しかし、われわれが興味をもっているのは、そのことよりも、ああいうみごとなアリバイを作りうる能力……それにわれわれは驚嘆しているんです。ねえ、お嬢さん、おっしゃっていただけませんか。いったい、木下と名のる闇ブローカーはどういう人物なんですか。そして、お嬢さんとどういうお|識《し》り合いなんですか」  ああ、私はとうとうさいごの関頭まで追いつめられた。金田一耕助と等々力警部、それからふたりの刑事が|眼《ま》じろぎもせず、私の顔を|視《み》つめている。伯父さまと品子さまのお顔には、いいようもない恐怖と不安が動揺していた。  私は全身の血が氷のように冷えきっていくのをおぼえ、思わずふらふらと立ち上がったが、そのときだ、とつぜん室内の電気が消えた……。      間違った逃亡  それからあとのことを私ははっきりおぼえていない。ただ、とっさに頭脳にひらめいたのは、それが堀井敬三の、逃げろという合図にちがいないということだ。それが|沮《そ》|喪《そう》しかけた私の気力に活をいれたのだ。  いいあんばいに、私はいちばんドアにちかいところに席をしめていたし、また、まっくらがりのなかでも勝手がわかっていた。私はひととびに、ドアから外へとび出すと、ドアをしめ、ドアの外から掛け金をかけた。この掛け金はいつか応接室から泥棒が入ったことがあるので、品子さまがしつらえられたものだが、それがこの際役にたったのだ。  刑事たちの怒号にまじって、 「|音《おと》|禰《ね》や……音禰や……」  と、悲しげにお呼びになる品子さまのお声をあとに聞いて、まっ暗な玄関へ出ると、 「あっ、だれだ!」  と、ぶつかってきた男が、暗がりのなかですばやく私に靴をにぎらせた。 「さっきの電話のとおりに……」  男のささやきを耳にすると、私は靴をもったまま廊下をぬけて勝手口から外へとびだした。表からだと窓から刑事がとび出してくる心配があったからだ。靴をはくまももどかしく、裏木戸から外へとびだすとき、茂やの声がきこえたようだ。ちょうどさいわい、そのへんの裏道は迷路のようになっている。私は雲をふむような気もちで、迷路から迷路へとつたって、やっと大通りへ出ようとしたとき、うしろからきた足音が呼びとめた。 「あっ、もし、あなたは上杉先生とこのお嬢さんではございませんか」  私がぎょっとしてふりかえると、鳥打ち帽子をまぶかにかぶり、黒眼鏡をかけ、マフラで顔をかくした男が薄暗がりのなかに立っていた。 「ああ、やっぱり上杉先生のお嬢さんでしたね」  したしげな言葉の調子に、私はそれを、堀井敬三の使いのものだと思いこんでしまったのだ。 「あなたは堀……」  と、いいかけて、にわかに気がつき、 「山口明さんのお使いのかたで……?」 「そうです、そうです。お宅の裏でお待ちしていたんです。さあ、お供しましょう」  大通りへ出ると、男はすぐに通りがかりの自動車を呼びとめた。自動車が走りだすとき、私は全身の関節がバラバラになるようなけだるさをおぼえ、ぐったりとクッションに身を埋めた。  ああ、私はなんということをしてしまったのだろう。これでなにもかもおしまいなのだ。逃亡こそもっとも雄弁な告白だということを、私はなにかで読んだことがある。今夜の私の逃亡は、きっとあしたの新聞に出るだろう。お友達はそれを読んでなんと思うだろう。いえ、いえ、お友達がなんと思うともかまわない。しかし、 「音禰や……音禰や……」  と、お呼びになった品子さまの、あの悲しそうなお声……。それが私の耳について離れない。  ひとめがなかったら、そのとき私は思いきり泣いたであろう。しかし、いまは泣いているばあいではない。連れの男はともかくも、運転手に怪しまれてはならないのだ。そうでなくともこの季節に、私はオーバーもなしにとび出している……。  連れの男は自動車を|渋《しぶ》|谷《や》へやって、そこから地下鉄へ私をつれこんだが、|虎《とら》の|門《もん》までくるとそこで降りた。 「あら、|新《しん》|橋《ばし》じゃございませんの」 「いや、尾行をまく必要がありますからね」  文部省の角でまた自動車を拾うと、こんどは東京温泉のまえまでやった。そこから銀座の裏通りを|京橋《きょうばし》まであるくと、そこでまた自動車を拾った。男はほとんど口をきかず、私も口をきく気力はなかったが、それでもさすがにあの男の部下だけあって、ずいぶん用心ぶかい男だと思わずにはいられなかった。  こうして、それからのちも二、三度自動車をのりかえたのち、さいごにやってきたのは|牛《うし》|込《ごめ》の江戸川アパート。それも正面玄関ではなく、横の入り口である。時刻はもう九時ちかくになっているので、あたりには人影もない。男がそのアパートの構えのなかへ入ろうとするのをみて、私はちょっと驚いた。 「あら、新橋へいくんではございませんの」 「いや、わざとそういっておいたんですが、じっさいは山口さん、ここで待っていらっしゃるんです。ひとに聞かれるといけないので、わざとそういっておいたんですね」  すっかり動揺して、なにを考える気力もなく、あなたまかせになりきっていたそのときの私は、まるででくの棒もおなじだった。すぐとっつきの建物の、階段をのぼっていく男のあとから、私はなんの疑念もなくついていった。  さいわい、だれにもあわずに三階までくると、男はとあるドアのまえに立ちどまって、ポケットから|鍵《かぎ》|束《たば》をとりだした。そのとき男がドアの横に片手をついたのを、私はなにげなく見ていたが、あとから思えば、それは表札をかくすためだったのだ。ドアをひらくと、 「さあ、どうぞ。靴はお持ちになったほうがいいですよ。ひとに見られるといけませんから」  靴をぬぐとき私ははじめて気がついたが、それは私の靴ではなく、おろしたての新品だった。ああ、なんという用意周到な男であろう。玄関にある私の靴をわたしたのでは、じぶんに疑いがかかるとしって、あらかじめ新しい靴を用意していたのだ。私はまたあらためて、ゾーッとするような気持ちだった。  そのフラットは三部屋あって、まんなかの部屋が居間になっているらしかったが、私は一歩そこへ足をふみいれたせつな、なんともいえぬいやあな気がした。  そこはあきらかに女の居間である。三面鏡のうえには香料や香水の瓶がならんでおり、棚のうえにはフランス人形や|博《はか》|多《た》人形、いっぽうの壁にはけばけばしい色彩のスーツがぶらさがっている。私はなんだかつよく侮辱されたような気持ちだった。 「山口さんはここであたしに待っていろとおっしゃるんですか」 「いや、まあ、そういうわけでもないんですがね。あっはっは」  あとから入ってきた男の、妙な言葉のひびきに、ぎょっとしてふりかえった私は、そのとたん、脳天から|楔《くさび》でもぶちこまれたような、はげしいショックをかんじてよろめいた。  帽子をぬぎ、眼鏡とマフラをとってそこに立っているのは、なんと|紅《べに》|薔《ば》|薇《ら》座の支配人、ふたごの根岸|蝶子《ちょうこ》と花子を愛人にしている、あの志賀雷蔵ではないか。      チョコレートの鑵  恐怖のために全身がしびれてしまって、私は口をきくことはおろか、身動きをすることもできなかった。  この男が堀井敬三の使者であるはずがない。私はだまされたのだ。まんまとこの男の|罠《わな》におちたのだ。  ああ、神様、これでは|刺《し》|戟《げき》がつよすぎます。さっきのような出来事のあとで、またしてもこのような窮地に追いこむとは、神様、それではあまりひどすぎます。あまり|酷《むご》うございます。 「あっはっは、なにもそうびっくりするこたあありませんや。お嬢さん、まあ、そこへお掛けなさいまし」 「あなたは……あなたはいったい、あたしをどうしようというんです……」 「なあにね。いちどお嬢さんととっくり話しあってみたいと思ったんですよ。そうそう、それよりもまず、お礼を申し上げなきゃあ……お嬢さん、有難うございました。よくわたしをかばってくださいましたね」 「あなたをかばうって……?」 「あっはっは、なにもそう白ばっくれるこたあありませんやね。こうなったらお互いに腹蔵なく話しあいましょうや。さあ、まずお掛けになって。立ってちゃ話にならない。ここはいたって気のおけないうちなんですからね」  志賀雷蔵は上衣をとり、ネクタイを外してくつろいだ姿になると、どっかとアーム・チェヤーに腰をおろす。安楽|椅《い》|子《す》の腕においた左の指に、太い金の指輪が光っている。 「あなた、後生ですからかえしてください。あたし急ぎの御用がございますから……」 「新橋で山口明さんが待ってらっしゃるんですな」  私は思わず一歩よろめいて、大きく肩で呼吸をした。私ははやくもこの男に、秘密の一端をにぎられてしまったのだ。 「とにかくお嬢さん、悪いことは申しませんから、そこへお掛けなさいまし。あなた、疲れてらっしゃるんでしょう。とてもお顔の色が悪いですよ。それにねえ、ドアには|鍵《かぎ》がかかってますし、その鍵はわたしのポケットにある。なおそのうえに、お嬢さん、あなたは警官に追われていらっしゃるんじゃないんですか」  私はとうとうアーム・チェヤーのなかに崩れおちた。  この男は私の弱味をしっている。声を立てて救いを求めることのできない、いまの私の境遇をしっているのだ。ああ、私は舌をかみきって、この場で死んでしまいたい……。 「まあ、なにもそうびくびくなさるこたあありませんよ。お互いに助けたり、助けられたり、これが人生というもんですよ。どうです。ひとつ、これでもおあがりになりませんか」  そのとき、テーブルのうえには、チョコレートの|鑵《かん》がふたをとったままおいてあり、二、三枚、色うつくしいチョコレートの包み紙がちらばっていた。 「いかがです。こんなときには甘いものをおあがりになると、いくらか気がしゃんとするもんですがね。おいやですか。それじゃわたしがいただきましょう。べつに毒が入ってるわけじゃないですからね」  志賀雷蔵はムシャムシャとチョコレートをほおばりながら、 「しかし、ねえ、お嬢さん、わたしもじっさい驚きましたよ。いや、はじめは気がつかなかったんです。ボン・ボンの表でお眼にかかったときね。ところが新聞に出てる怪しい男女というのが、どうやらボン・ボンのまえで会った、おふたりさんらしいということがわかったので、いったい、どういうひとたちだったろうかと思いうかべているうちに、卒然としてご婦人のほうは、それより少しまえ、うちの小屋の入り口で会ったひとだということに気がついたんです。そのときにゃ、わたしゃなんだか|怖《こわ》くなりましたね。じっさいゾーッとしたんですよ。眼にみえぬ影に追っかけられてるような気持ちですからね」  志賀雷蔵はまたひとつ、チョコレートの包み紙をむいた。 「そこでわたしゃなお入念に、そのときのおふたりさんのことを思いうかべてみたんです。ああして|紅《べに》|薔《ば》|薇《ら》座へあらわれたかと思うと、すぐそのあとでボン・ボンへやってくる。そういうところからみると、きっとあの遺産問題に関係のあるひとたちにちがいないが、そのひとたちなら、みなさんこのあいだ黒川さんのところへお集まりで、わたしもお眼にかかっているはずなんだが、ああいうご婦人はお見うけしなかった。笠原薫にしちゃ柄がすこし小さかったし、佐竹由香利にしちゃ年齢がいきすぎてる。|蝶子《ちょうこ》や花子であるはずがないし、島原明美はあのときまで、わたしといっしょにいたんですからね。そうすると残るひとりは宮本|音《おと》|禰《ね》……即ち、お嬢さん、あなたしかないわけです。そう気がついたときのわたしの驚き……わたしゃあね、記憶にのこっている面影から、あのストールやべっ甲ぶちのめがね。それからパン助みたいなどぎついお化粧などを、ひとつひとつとりのけていって、とうとう、そこにお嬢さんの面影を発見したんですが、いやもう、そのときゃ驚いたのなんのってね。びっくり仰天てなああのことですが、しかし、いっぽうとても|嬉《うれ》しくもあったんですよ」  と、志賀雷蔵はまたひとつ、チョコレートをほうりこんだ口をもぐもぐさせながら、にやにやといやらしい微笑をうかべている。 「わたしどもみたいな人間にとっちゃ、お嬢さんなど|高《たか》|嶺《ね》の花だと思ってたんです。ところがあのご様子からみると、案外そうでもないんじゃないかと、わたしも大いに希望をかんじたわけです。木下という|闇《やみ》ブローカー、あれがどういう人物か存じませんが、こう見たところが|田舎《いなか》紳士、あの男にくらべれば、わたしだってまんざらの男じゃないと思うんですが、ねえ、お嬢さん、あなたあどうお思いになります? いや、冗談じゃなく、ほんとのところが……」  ギーッとアーム・チェヤーをきしらせて、男が立ちあがる気配に、私はぎょっと顔をあげて相手を見たが、そのとたん、全身の毛穴が、けば立つような恐ろしさをかんじた。  この男がいかに精力家らしい|風《ふう》|貌《ぼう》をしているかということは、いつかも書いたとおりだが、いまや満身の精力が、はちきれんばかりに皮膚のしたでふくらんでいるのだ。額も|頬《ほお》も唇も、ヌラヌラとした情欲の|脂《あぶら》でぬれて、瞳のなかに兇暴な光がもえている。 「…………!」  私は思わず声なき悲鳴をあげてアーム・チェヤーからとびあがったが、狭い部屋のなかにごたごたと調度類がおいてあるので、|敏捷《びんしょう》な行動はとれなかった。 「まあ、まあ、お嬢さん、そんなに|怖《こわ》がるもんじゃありませんよ。わたしゃお礼をいいたいんです。わたしのことを警官にだまっていてくだすったお礼をね。それに木下という人物についても話が聞きたい。しかし、まあ、なによりもさきにお礼をさせてください。強壮な男子がうつくしいご婦人にたいするご|挨《あい》|拶《さつ》をね」  私はとうとうたくましい志賀の腕に抱きすくめられてしまった。私はもがいた。抵抗した。しかし、声を立てることのできぬ悲しさ……。むっとするような男の体臭が私をくるんで、ギタギタと情欲の脂にぬれた男の顔が、私の眼のうえにおっかぶさってくる。 「いや! いや! 離して……」 「まあ、まあ、そうおっしゃらずに、唇を……唇を……」  ああ、それからいったい何事が起こったのか。 「いや! 堪忍して……」  夢中になって力まかせにつきはなしたとたん、男はううむとうめいて、私を抱きすくめていた腕から力がぬけていったかと思うと、骨をぬかれたようにへなへなと、床のうえにすべりおちていったのである。      毒殺二重奏  志賀雷蔵が倒れたとたん、私は何事が起こったのかわけがわからず、しばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》と立ちすくんでいたが、すぐにはっと気をとりなおすと、ひとっとびにその体をとびこえた。  そして乱れた髪やスーツをつくろいながら、玄関のほうへ走ったが、すぐにさっきいった志賀のことばを思い出した。ドアには|鍵《かぎ》がかかっており、その鍵は志賀のズボンのポケットのなかにある。  廊下のとちゅうに立ちどまった私は、腹の底からまっ黒な、絶望の|墨《す》|汁《み》が吹きあげてくるのをおぼえた。志賀のそばへひきかえすのは恐ろしい。しかし、鍵を手にいれなければこのフラットから出ることは出来ぬ。  私はひきもどされるように、居間のまえまでかえってきた。志賀は床につっぷして、|絨緞《じゅうたん》をひきさかんばかりに|爪《つめ》をたてている。はげしい|痙《けい》|攣《れん》が蛇のうねりのように、ふとった体をおののかせている。  私は茫然として立ちすくんだ。私はたしかにこの男を力まかせについたのだが、しかし、かよわい女の力がこれほどまでに、大の男に強い打撃をあたえようとは思えなかった。  そのとき、志賀の唇から、 「水……水……」  と、かすかなうめき声がもれたが、つぎの瞬間、ガーッと口から血を吐いた。  そのせつな、私ははっきり思い出したのだ。上杉の|伯《お》|父《じ》さまの還暦祝いの夜、舞台のうえで血を吐いて死んだ、アクロバット・ダンサー笠原操のあの恐ろしい断末魔を……全身を襲うものすさまじい痙攣、ふたつにちょんぎられたとかげの|尻尾《し っ ぽ》のような、もの狂わしい反転運動……。そして吐血……。  私は|弾《はじ》かれたように、テーブルのうえにあるチョコレートの|鑵《かん》に眼をやった。色うつくしいチョコレートの包み紙が、そのとき、私には悪魔の花束のように思われた。志賀雷蔵にすすめられて、私もそのチョコレートを食べたかもしれないのだ。 「水……水……」  とかげの尻尾のような、もの狂わしい痙攣をつづけながら、また、志賀雷蔵がつぶやいた。私は弾かれたように部屋から出ると、廊下を走って台所をさがした。玄関のすぐまえにあるのを台所らしいとしって、そこへとびこんでスイッチをひねったとたん、 「ひーいッ!」  台所の白いタイルのうえに……そこにもひとりうつむけに倒れていた。派手なパジャマのうえに、よりいっそう派手なガウンを羽織った女が、タイルに爪を立てるようにして倒れている。しかも、タイルのうえには点々として血がこぼれている。ねじれるような体のかっこうや、乱れたパジャマやガウンのすがたから、断末魔の|苦《く》|悶《もん》がいかに大きかったかということを示しているようだ。  私はふたたび、居間のテーブルのうえにある、チョコレートの鑵を思い出した。  女はあのチョコレートを食べているうちに、苦しみ出したにちがいない。そして、|咽《の》|喉《ど》のかわきにひきずられて、台所まで|這《は》ってきたのだろう。しかし、それがこの女にのこされた、最後の力だったにちがいない。  私はおそるおそる女の顔をのぞいてみて、ジーンと体のしびれるような厳粛なものにうたれた。  |蝶子《ちょうこ》なのか、花子なのか、そこまでは私にも区別はつかなかった。しかし、まちがいもなくその女はあのふたごのひとりにちがいなかった。それではここは根岸姉妹のフラットだったのか。  私はそっと女の|頬《ほお》にふれてみて、すでにもう手おくれになっていることをしった。だが、しかし……それにしてもふたごのもうひとりはどうしたのか。ひょっとするとその女も、べつの部屋でつめたくなっているのではあるまいか……。  ああ、神様、あんまりです。あんまりです。いくらなんでもこれではあんまりひどうございます。こんなことがつづいたら、私はとても生きていることが出来ません。  私はしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》として、白いタイルのうえにこぼれた、派手なガウンを|視《み》つめていたが、ふいにはっと志賀雷蔵のことを思い出した。そうだ、あの男に水を持っていってやらねばならぬ。  水道の蛇口をひねってコップをうけたが、ぶるぶると手がふるえるので、なかなか思うように水をうけることが出来なかった。それでもやっと、コップに八分めほど水をみたして、もとの居間へとってかえすと、志賀雷蔵はもうすっかり静かになっていた。 「志賀さん、志賀さん、お水……」  男のそばにひざまずいて、私はそっと首を抱きおこしたが、そのとたん、 「ひーいッ!」  と、ふたたび破れた笛のような叫びをあげて、手にしたコップをとりおとした。  志賀雷蔵はみずから吐いた血だまりのなかに、鼻をつっこんでいたので、顔中が鮮血に染まったその|物《もの》|凄《すご》さ、こわごわ腕にさわってみたが、もう脈もきれていた。  私はもう気が狂いそうであった。男の死体のそばにひざまずいたまま、私は両手で頭をかきむしった。夕方からの出来ごとが、きれぎれなフィルムのように私の頭脳にうかんでは消えた。  だが……そのうちに私はやっと気をとりなおした。ともかくも、私はここから逃げ出さねばならぬ。ボン・ボンの一件だけでも、私の名誉……いえ、いえ、じぶんの名誉などどうでもよいが、上杉の|伯《お》|父《じ》さまのご名誉は、すっかり台なしになってしまうであろうのに、またこんなことが世間にしれては……。  私はこわごわ男のポケットをまさぐった。死んだ男……それもこのような|凄《せい》|惨《さん》な最期をとげた男のポケットをさぐるなどとは、容易ならぬ勇気が必要なのだが、そのとき私はそれをやらなければならなかったのだ。  鍵はあった。べっとり汗ばんだ手にそれを握って、玄関の内側まできたとき、階段をあがってくる足音と、男と女の笑い声がちかづいてきた。      虎口を遁れて  ああ、だれかやってくる……。絶望の|念《おも》いに私は全身から、力が空気のようにぬけていくのをおぼえた。その場にがっくり|膝《ひざ》をつきそうだった。  しかし、ここで勇気がくじけてはならぬと、気をとりなおした私は、いそいでスイッチをひねって玄関の電気を消した。そして靴をもって台所へすべりこむと、あわててそこの電気を消して、|暗《くら》|闇《やみ》のなかに|呼《い》|吸《き》をころして立ちすくんだ。  暗闇のなかに死体といっしょにいるということは恐ろしい。いまにも死体のつめたい手がスーッとのびて、じぶんの足首をつかむのではないか……。私はできるだけ死体からとおくはなれて、台所の隅っこに身をちぢめると、いざというときの用意に靴をはいた。  そのとき、階段をあがってきた足音が、ドアのまえへきてとまった。 「変ねえ。いま電気が消えたんじゃない?」 「メリーが消したんだろう」 「だって、あたしたちの足音がきこえたはずよ。花ちゃん、そんな意地悪するかしら」 「ひょっとすると、ボスがきてるんじゃない?」 「ボスきてたら都合がわるい?」 「平気さ。ぼくたちただたんなるお友達にすぎないじゃないか」 「うっふっふ、史郎ちゃんは案外度胸がいいのね」 「だけど、見せつけられるのいやだぜ、ぼく」 「大丈夫よ。あのひとちかごろどうしたのか、いつもソワソワしてちっとも落ち着いてないわ」  ひそひそかわすふたりの会話から察すると、かえってきたのはふたごのひとりと古坂史郎らしい。島原明美に死なれた史郎は、この双生児のヌード・ダンサーに接近していったのだろう。やがて、ドアがひらいて玄関に電気がつくと、 「あら!」  と、女の小さく叫ぶ声がきこえた。 「どうしたの、ヘレン」 「ボスの靴が……」  と、女の声が小さくささやく。男はちょっと黙っていたのち、 「ああ。やっぱりきていたのかい」 「どうする、あんた」 「仕方がないじゃないか。このままかえれやしないよ。お|冷《ひ》|水《や》でも一杯|御《ご》|馳《ち》|走《そう》になってかえるよ」 「そう、すみません。でも、史郎ちゃん、気をつけて、あのひとを|憤《おこ》らしちゃだめよ。憤るととても|怖《こわ》いんだから」 「ああ、いいとも。メリーの見舞いにきたといえばいいんだろ」 「ええ、そうして頂戴」  ひそひそ話でそれだけのことを打ち合わせておいて、|蝶子《ちょうこ》は|弾《はじ》けるようなはなやかな声になった。 「花ちゃん、ただいま。あんた、加減どう?」  むろん返事のあるべきはずはなかったが、蝶子はべつに気にもとめずに、 「ボスがきてるのね。史郎ちゃんがお見舞いにっていっしょにきたのよ」  それでも返事がないので、さすがにへんに思ったのか、蝶子は玄関に立ちどまる。 「へんねえ。どうしたのかしら」 「よろしくやってるんじゃないの」 「まさか……。史郎ちゃん、ともかくおあがんなさいよ」  史郎も靴をぬいであがってくると、 「ヘレン、ぼく|咽《の》|喉《ど》がかわいたよ。ここ台所だろう。水いっぱい御馳走しておくれよ」  そのとたん、私の心臓はいっぺんに凍りついてしまった。史郎は台所へ入ってきて、電気のスイッチをさぐっている。こちらからはすがたがみえるが、むこうではこちらに気がつかない。しかし、電気のスイッチをさぐりあてたら……。私は全身からつめたい汗がふきだすのをおぼえたが、つぎの瞬間、蝶子のことばが私を救った。 「およしなさいよ。ぐずぐずしてるとかえってボスに怪しまれてよ」  と、史郎の腕をとってひきもどし、 「ボス、いらっしゃい、史郎ちゃんがメリーのお見舞いにきてくれたのよ。史郎ちゃん、ご存じでしょう」 「メリー、ぐあい、どう? |風《か》|邪《ぜ》なんだって……?」  ふたりの足音が居間のほうへ消えていくのを待って、私は台所からとびだした。さいわいドアに|鍵《かぎ》はかかっていなかった。ドアから外へすべりでるとき、居間のほうから蝶子と史郎の悲鳴がきこえ、なにかドスンと倒れるような音がした。  がくがくふるえる|膝頭《ひざがしら》をかばいながら、ころげるように二階までおりてくると、階段の下にナイト・ガウンを羽織った中年の男が立っていた。私ははっとしたが、うしろへひきかえすわけにはいかない。男は怪しむように私の顔色を見ながら、 「なにかあったんですか」 「はあ、あの、なにかあったとは……?」 「いや、うえの部屋でさっきから、ガタガタいうような音がきこえるんですが……」 「さあ、あたし、存じません」  できるだけ顔をそむけるようにして、男のそばをすりぬけると、私はいっきに階段をかけおりる。疑惑にみちた男の視線を、いたいほど背後にかんじながら……。  絶望の念いがまたつよく私の胸をかむ。せっかく史郎や蝶子の眼をのがれてきたのに、とうとうあの男に見つかってしまった。あの男はきっと警官に、私にあそこで会ったことを申し立てるだろう。  ああ、私はこのままどこかへ……地の果てへでもいってしまいたい……。  錯乱し、悩乱する心をしずめて、あてもなく暗い夜道をあるきまわっているうちに、私はいつか|飯《いい》|田《だ》|橋《ばし》へ出た。気がついて腕時計に眼をやると、もう九時半をすぎている。私が上杉の|伯《お》|父《じ》さまの家をとびだしたのは、八時半よりまえだった。  七時ごろ堀井敬三の手先のユリがかけてきた電話によると、新橋駅の西口へ、山口の|旦《だん》|那《な》さまがお迎えにいくということだった。山口の旦那さまというのは即ち堀井敬三なのである。  しかし、その堀井敬三は上杉の伯父さまのところへやってきた。たぶん予想以上に危険が切迫していることに気がついて、私を救いにきたのだろう。そして、さっきの電話のとおりにするようにとささやいたところをみると、新橋駅にはきっと仲間のものを待たせておいたにちがいない。だが、そのひとはあれから二時間以上もたついままで、そこで待っていてくれるだろうか。  もし、あの男にあえなかったら……、もう私にはいくところもない……。  私はふらふらと飯田橋の駅へ入っていくと、出札口のまえへ立って、新橋……と、いいかけて、あわてて品川といいなおした。さっきの志賀雷蔵の用心ぶかさが、私にそれだけの智恵をつけたのだ。  あえてもあえなくても、私は新橋へいってみるよりほかにみちはない……。  だが、新橋で電車をおりて、西出口から出ていくと、すぐ一台の自動車がそばへよってきた。 「お嬢さん、おくるま、いかがですか」  運転手の顔をみると山口明氏だった。そのせつなジーンと身うちにしみわたるうれしさと懐かしさに、私は思わず涙があふれそうになった。  こうして私の心は、しだいにこの悪党にひきよせられていくのである。      逃避行 「|音《おと》|禰《ね》」  自動車がはしりだすと、山口明氏こと堀井敬三こと|高《たか》|頭《とう》五郎が、運転台から声をかけた。 「話はあとでゆっくり聞くとして、そこにオーバーやストール、それからサン・グラスがあるだろう。それをつけておいで。オーバーなしじゃ怪しまれる」 「はい」  私はすばやくオーバーに腕をとおし、できるだけ顔をかくすようにストールを頭にまきつけ、サン・グラスをかける。オーバーのあたたかさと、ストールやサン・グラスですこしでも変身をとげたということが、私の心をいくらか落ち着かせた。 「あなた、これからどこへいくんですの」 「このあいだのところへいこう」 「大丈夫? あそこ……?」 「当分大丈夫だろう。いずれは|塒《ねぐら》をかえなきゃならなくなるだろうがね。だけど、音禰。これでおまえはおれからはなれて、生きていけなくなったじゃないか。あっはっは」  運命の|筬《おさ》は残酷だ。思いもよらぬ事件にまきこまれた私は、運命の筬が織るまま、不思議なパタンを織っていく。ついこのあいだまで、|潔《きよ》く、正しく、うつくしく生きてきた私だのに、いまではもう、このえたいのしれぬ男の胸にすがっていなければ、一日も生きていけないお尋ね者の身の上なのだ。  ああ、お尋ね者……。思わず身ぶるいをする私を、男はバック・ミラーのなかでとらえて、 「音禰、なにかあったんだね」 「…………」 「おまえ三時間ちかくもあの姿で、どこをうろついていたんだい」 「あなた。たいへんなんです」 「なにが」 「志賀雷蔵が殺されたんです。それから根岸花子も……」  そのとたんガクンと大きく自動車がよこにのめったが、男はすぐにハンドルをとりなおすと、 「音禰!」  と、きびしい声で、 「おまえ志賀雷蔵といっしょだったのか」 「あなたのお使いだと思ったんです。あのひと顔をかくしてましたから……」 「それでどこへつれこまれたんだ」 「根岸姉妹のアパートへ……」 「ああ、江戸川アパートだな。そのとき|蝶子《ちょうこ》や花子はいたのか」 「いえ、あの、それが……」 「音禰! おまえ、まさか、間違いがあったんじゃないだろうねえ。おまえのその体に……」 「そんなことがあったのなら、あたし生きちゃおりません」 「だけどおまえ、おれにはわりにかんたんに許したじゃないか」 「あなた!」  怒りと屈辱の|念《おも》いが|肚《はら》の底から、煮えたぎるようにふきあげる。 「降ろしてください。あたしをここで……」 「ごめん、ごめん」  私がクッションから腰をうかそうとするのを、男はなだめるようにやさしい声で、 「悪かったよ、ちょっとやきもちやいたのさ。おれはおまえを信用する。それで志賀雷蔵は死んだんだな」 「はい」 「それから根岸花子も……?」 「はい」 「よし、話はあとでゆっくり聞こう、音禰、さっきのことは許しておくれ」  私は両手で顔をおおうた。涙が指のあいだをつたって流れる。  どんなに侮辱されても、もうこの男からはなれては、生きていけない私なのだ。警察の追究から逃避するためばかりではない。私はこの男に身も心もつよく|惹《ひ》かれているのである。  それからのちは男も口をきかず、自動車はひたすら闇をついて走っていたが、しばらくするとまたやさしい声で、 「音禰、もう泣くのはおやめ。そして涙をふいて顔をなおしておおき、そこにハンド・バッグがあるだろう。そのなかに化粧道具があるはずだから。おまえそんな顔、ユリ子にみられるのいやだろう」 「はい」  私は素直にうなずいて、そこにあったハンド・バッグをとりあげた。そして顔をなおしているとき、自動車はこのあいだのギャレージのなかへ入っていった。ギャレージのなかは|空《から》っぽだったが、自動車の音をききつけて、このあいだの女が奥から出てきた。 「ああ、お嬢さま、ご無事でございましたか」  女は私の顔をみると、安心したように笑顔をつくる。 「音禰、ユリ子に礼をいっておおき。おまえのことをとても心配してくれたんだからね」 「はあ、さきほどお電話を……」  私はしかたなしにこのえたいのしれぬ女に頭をさげた。 「いえ、あの、どういたしまして……」 「ユリ子、いっとくがな。この|娘《こ》のことをお嬢さんといっちゃいけない。これから奥さんと呼んでやっとくれ。だけどこれの|身《み》|許《もと》をだれにも|洩《も》らしちゃいかんよ」 「それはもう……」 「音禰、さあいこう」  男に手をとられておりていったのは、防音装置のほどこされたこのあいだの地下室である。男は用心ぶかく二重のドアに錠をおろすと、いきなり私を抱きよせてはげしく唇を吸った。 「これでやっと気が落ちついた。ずいぶん気をもんだぜ。いったいどこへいったのかと思ってね」  男は私の体をはなすと、部屋のすみの戸棚のまえへいって、このあいだのように酒をしつらえた。 「さあ、ひと息にこれをおあがり。気分が落ち着いたらすぐベッドへいこう。そのほうがゆっくり話が聞ける」  私はもう男のいうとおりにするよりほかにしかたがない。ひと息にグラスを飲みほすと、ちょっとむせたが、そのかわり足の|爪《つま》|先《さき》まで熱くなるのをおぼえた。 「ああ、それでいくらか顔色をもちなおしたよ。さあ、おいで、抱いてってあげよう」  オーバーやストールをとって、男が私を抱きあげようとするのを、 「いや」  と、私はその手をはらいのけた。 「いや? どうして?」 「その顔じゃ……」 「あっはっは! 山口明氏じゃいやなんだね。それゃそうだろう。おまえの|惚《ほ》れてるのは高頭五郎、あるいは堀井敬三だからな。いいよ。あっちへいったら変装をとこう。それならいいだろう」 「ええ」 「あっはっは」  男はふたたびはじけるようにわらって、それからかるがると私の体を抱きあげた。      情痴の泥沼 「|音《おと》|禰《ね》、もういいだろう。そろそろ今夜の話をしておくれ」  ひとしきり情熱の香りが、しめきった部屋のなかにたてこめて、強い、はげしい快楽のあとのけだるさから、ようやくじぶんをとりもどしてきたとき、男が私の耳もとでささやいた。男の腕はまだ私の背中を抱いている。私は男のひろい胸に、ほてった|頬《ほお》をよせていた。  私は男の腕に抱かれたまま、今夜のてんまつを話しはじめる。男がなにもかも細大あまさず打ちあけるようにといったので、志賀雷蔵に挑まれたことを打ちあけると、 「ああ、そうか。それじゃやっぱりあいつ、おまえを犯そうとしたんだね」 「ええ、それですから、あのチョコレートに毒が入っていなかったら、あたしどんなことになっていたか……。とても生きてはいられなかったでしょう」 「音禰、しかし、おまえはおれに許したが、死のうとはしなかったじゃないか」 「また、そんなこと……」 「いいや、音禰、おれはおまえをひやかしたり、からかったりしてるんじゃないんだ。志賀のような男にけがされたら、生きてるおまえじゃないってことくらいおれだって知ってる。だけどおれはおまえに知ってもらいたいんだ。おまえがおれに|惚《ほ》れてるってことをね。あの国際ホテルの廊下ではじめてあったとき、おれたちはおたがいにひとめ惚れしてしまったんだ。おまえはそう思わないか」  男の調子はめずらしくしんみりしている。そういえば、あのときのじぶんでもわけのわからぬ異様なショック、胸さわぎ……それがこの男のいうような感情だったのだろうか。 「音禰、気をつけなきゃいけないぜ。男にとっちゃおまえのうつくしさは麻薬みたいなものなんだ。だれでもおまえのまえへ出ると、胸をかきむしられるような魂のうずきをおぼえるんだ。ほかの男がおまえの体に、指一本でもふれるときのことをかんがえると、おれははらわたがねじれるような怒りをおぼえる。音禰、音禰、おれはぜったいにおまえをはなしゃしないぞ。だれにもぜったいおまえをわたしゃしないぞ」  男はとつぜん、気でもくるったように二度、三度つよく私の体を抱きしめ、そこらじゅうにキスの雨をそそいだが、やがて、 「あっはっは」  と、|咽《の》|喉《ど》のおくでひくくわらうと、 「それじゃ、さっきの話のつづきをしておくれ。もう話の腰をおるようなことはしないから」  男にうながされて、私はまたあの恐ろしい話をつづける。私の話がおわったとき、男はすぐには口をきかず、しばらく黙ってかんがえていたが、 「それじゃ、音禰、こういうことになるんだね。メリー根岸はきょう|風《か》|邪《ぜ》気味で、劇場をやすんで静養していた。そしてファンからの贈り物かなんかのチョコレートを食べてるうちに苦しみだして、台所へ水を飲みにいってそこでこときれた。ところがそんなこととは志賀雷蔵はしらなかった。メリーもヘレンといっしょに|紅《べに》|薔《ば》|薇《ら》座へいってるものと思いこみ、そのアパートへおまえをつれこんだ。そしてそこにあったチョコレートを食べながら、おまえをくどいているうちに、毒がまわって死んだ……と、そういうことになるんだね」 「はい……」 「それでおまえが逃げだそうとしているところへ、ヘレンが古坂史郎といっしょにかえってきたというんだね」 「はい」 「それでどうなんだ。史郎ちゃんとヘレンはもう出来てるふうだったかね」 「そういうこと、あたしにはよくわかりませんけれど、そういう傾向はたぶんに感じられましたわね」 「ねえ、音禰、おまえはあの史郎という男を警戒しなきゃいけないよ。あいつはまだチンピラだけど、女にかけちゃ|凄《すご》いって話だ」 「あなた。あたしはそんなに信用がないんですの」 「音禰、おれのいってるのはそういう意味じゃない。古坂史郎のような女たらしが、おまえの|美《び》|貌《ぼう》に眼をつけないはずがないというんだ。いままでのおまえは良家の子女だったから、あいつにも手の出しようがなかったのだろうが、こうして出奔してしまえば、あいつにとっても同じ穴のむじなだ。きっとおまえを探して接触しようと試みるだろう。おまえあんなやつの|手《て》|管《くだ》にのっちゃならないよ」  そんな私じゃないといいたかったけれど、それを口に出すのも不愉快だったので、しばらく無言で男の襟もとをいじっていたが、 「あなた」  と、こんどはじぶんのほうから切りだした。 「あなたはどうして今夜あそこへいらしたの。ほんとに黒川さんのご用がおありでしたの」 「ああ。それゃあったよ。しかし、なにも今夜にかぎったことじゃなかったけれどね」 「あたしを救うためにきてくだすったのね。でも、どうしてあたしに危険が迫っているということがおわかりになったの」 「音禰、それゃいえない。おれの仕事の機密に属することだからね」 「きっと警視庁にスパイがいれてあるのね」  それにたいして男は答えず、ただやさしく私の髪をなでている。 「あれからどうして? 上杉の|伯《お》|父《じ》さまんとこ?」 「ああ、たいへんだったね、窓から刑事がとびだすやらね。おれも|面《めん》|喰《くら》ったふうをして、だいぶたってからドアの掛け金を外してやったんだ。ところでだれがスイッチを切ったかってことが問題になった。ところがおれはあのうちはじめてだしね、どこにメーン・スイッチがあるかなんてこと知ってるはずがない。それにズーッと玄関にいたんだしね。で、あやうく茂やに疑いがかかるところだったんだが、いいあんばいに裏口の外に、だれか怪しい男がたたずんでいたという、近所のひとの証言があったんだ。茂やもその男に気がついていたが、刑事だと思っていたんだね。それでおまえの仲間が裏口に待機していて、事態あやうしとみてとって、スイッチを切ったのだろうということになった。メーン・スイッチは裏から入るとすぐそこにあるからね。だけど、音禰、そのときにゃおれびっくりしたんだぜ。おれにゃそんな心当たりないからね。それにおまえが新橋へなかなかやって来ないし……。はじめはおれ、ユリ子を待たせておいたんだが、あんなに気をもんだことありゃしない」 「それじゃスイッチ切ったのはだれ?」 「茂やさ」 「まあ」 「なにがまあさ」 「茂やがじぶんで……?」 「いや、それはおれが頼んだのさ。お嬢さんが危険だから、おれが合図をしたらスイッチを切ってくれって、口じゃいえないから、あらかじめ紙に書いて持っていって、それを茂やにわたしたのさ」 「でも、茂やがよくそんなこときいたわね」 「それゃきかせるようにお礼をしたさ」 「お礼ってなあに?」 「キスしてやったよ。抱きしめてね。あっはっは」  私の体がピクッとふるえ、思わず男から離れようとするのへ、相手はしっかり抱きしめて、 「どうしたの、音禰、やきもちやいてるの。あっはっは、キスたってなにも唇じゃないよ。|頬《ほ》っぺたへちょっとね。おまえの急場を救うためだもの。それくらいのこといいじゃないか」 「あなた、黒川さんてひとは、そういうあなたを信頼してらっしゃるんですの」 「まあね。信頼されてるね」  そのことだけが、この男にたいする私の希望なのだ。それとなく、上杉の伯父さまにうかがったところによると、黒川弁護士はけっして悪徳弁護士などというのではなく、立派な、紳士的な法律家だという。そういうひとに信頼されているということは、この男にどこかよいところがあるのではないか。 「黒川さんはあなたのお仕事のことをご存じですの。ヤミのほうの……」 「それゃうすうす知ってるだろうよ。だけど、馬鹿と|鋏《はさみ》もつかいようによるというからね。毒薬も使いようによっては薬になる」 「あなたは毒薬なの」 「おまえはそう思ってるんだろう。おまえは麻薬でおれは毒薬だ。さあ、もっとこっちへおよりよ。こうして……ね、いいだろ?」  ああ、こうして私はまたしても、えたいのしれぬこの男と、情痴の泥沼に|沈《ちん》|湎《めん》していくのだった。      ユリ子の告白  こうして奇怪な私の地下生活がはじまったのだ。  堀井敬三は私に新聞を読むことを禁じたので、その後事件がどう進展しているのか、詳しいことはしるよしもなかったが、それでも毎晩のようにやってくる、ヤミ屋の山口明氏の口から、だいたいのことは聞くことができた。  根岸花子と志賀雷蔵の死体は、|紅《べに》|薔《ば》|薇《ら》座からかえってきた、根岸|蝶子《ちょうこ》ひとりによって発見されたことになっており、古坂史郎は顔を出していないそうである。  おそらく史郎はこういう事件にかかりあっては面倒と、蝶子を説きふせ、じぶんは姿を消したのだろうが、と、いうことは、かれになにかうしろぐらいところがあるか、あるいはまた、将来なにか画策するところがあるにちがいないというのが、堀井敬三の推測だった。  それはさておき、ふたりの死因はどちらも青酸加里の中毒で、その青酸加里はわれわれの考えていたとおり、ファンからの贈り物としてとどけられたチョコレートのなかにしこまれていたそうだが、ここで捜査陣をおどろかせたのは、ふたりの死亡時刻に三時間のズレがあることだった。  根岸花子が死亡したのは夕刻の五時ごろだろうと思われるのに、志賀雷蔵の死体が検視されたときには、死後半時間もたっていなかった。このことがひどく捜査陣を困惑させたが、そこへ登場したのが、二階の階段で私にあった男である。  その男の証言による人相風態から、またしても宮本|音《おと》|禰《ね》が登場したのだ。そこで茂やや上杉の|伯《お》|父《じ》さまのおたくの近所のひとに、志賀雷蔵の死体をみせたところが、昨夜、上杉家の裏口にたたずんでいたのは、たしかにこの男だということになった。  そこでいよいよ上杉家のスイッチをきって、宮本音禰の逃亡をたすけたのは志賀雷蔵だということになり、それではひょっとすると、ボン・ボンへ音禰といっしょにいった木下というヤミ屋も志賀ではないかとボン・ボンの女たちに志賀の死体をみせたところ、世にも意外な事実(捜査陣にとって)が発見したというわけである。  すなわち、その死体は木下というヤミ屋とはちがっていたが、島原明美が殺害される直前に、ベッドをともにした男だということがわかったので、捜査陣のおどろきも、想像にあまりあるというものだ。それでは志賀と音禰はどういう関係にあるのか。宮本音禰にはいったい何人男がいるのか……。 「だからね、音禰、気にしちゃいけないよ」  この話をしてくれたとき、堀井敬三はやさしく私の髪をなでながら、 「お友達や品子さまが、いろいろおまえのことを弁護してくれてるようだが、世間ではおまえを手におえない、|淫《いん》|婦《ぷ》か|妖《よう》|婦《ふ》のように思ってるようだよ」  それも私は覚悟のまえだったが、品子さまや伯父さまのことをかんがえると涙があふれそうになる。  それでいて、私はもうこの男とはなれられなくなっていた。男はつよく、やさしく、たくましく、情痴の楽しみのかずかずをおしえてくれる。私はしばしば男の腕に抱かれたまま、歓喜のあまり気をうしなった。ふたりとも|汲《く》めどもつきぬ愛情の泉にめぐまれており、私はいつも男の腕に抱かれるとき、このまま死んでしまいたいと思い、殺して……殺して……と、身をもだえて絶叫する。  男は毎晩のようにやってきたが、それでもどうかすると仕事の都合で、これないという電話をかけてくることがあった。  そんな晩の私の苦しみには、筆にも言葉にもつくしにくいものがあった。男の肌恋しさに、私はベッドのなかでてんてん反側する。そして、ひょっとすると、だれかほかの女が、男の腕のなかにいるのではないかと考えると、|嫉《しっ》|妬《と》のために気がくるいそうになる。  ところがある日、私はユリ子から世にも奇妙な、そしていやあなことを聞かされた。  私の世話のいっさいは、ユリ子がみていてくれるのだが、彼女はこのうえもなくやさしく、私をいたわり、はげまし、なぐさめてくれる。彼女はまたヤミ屋の山口明氏にたいして、奴隷のように献身的な愛情をもって奉仕していた。  それが不思議なのであるときユリ子に|訊《たず》ねたところ、彼女はほっと|溜《た》め息ついてこんなことをいった。 「わたしが山口の|旦《だん》|那《な》さまにどんなに、忠実に仕えたところで、忠実すぎるということはないのです。わたしはあのかたに救っていただいたのですから」 「救われたって、どういう意味で……?」  そのときユリ子はちらりと私の顔を見て、 「わたしはある男にだまされたのです。だまされてしぼられたのです。それこそ骨の髄までしゃぶられるほどしぼられたのです。そして、もうこれ以上しぼっても、カスも出ないとわかったとき、男はわたしを捨てたのです。わたしは絶望のあまり死のうと思いました。じじつまた当時の事情では、死ぬよりほかにみちはなかったのです。ところがそこへ山口の旦那様がいらして……、それまでいちどもお眼にかかったことはなかったのですが、いろいろやさしくわたしをはげまし、なぐさめ、生き|甲《が》|斐《い》をつけてくだすったのです。……そのうえ、いまの主人をお取りもちしてくだすって……。このギャレージは旦那さまが、経営していらっしゃるのですけれど、わたしどもそれはそれはよくしていただいております」  言いわすれたがユリ子の良人は運転手で、同時にこのギャレージのマネージをしているのである。  あのような男にもそういうやさしい半面もあるのかと、私はとてもうれしかったのだけれど、そのあとでユリ子から聞いた一言こそ、私のそのうれしい夢を木っ葉みじんに粉砕するものだった。 「それで、あなたをだましたひとというのは、いったいどういうひとなんですの?」  そのとき、ユリ子はまたちらと私の顔をみて、 「それは奥さま、あなたとも関係のあるひとでございます」 「あたしに関係……?」 「はい、わたくし新聞で読んでしっております。奥さまは|高《たか》|頭《とう》俊作さまというひとと、結婚なさるはずだったんでございましょう。わたしをだましたのは、あのお殺されなさいました俊作さまのいとこで、高頭五郎という男でした」      女賊オトネ  ああ、これはなんということだろう。  それでは高頭五郎はじぶんがしぼりにしぼって、骨の髄までしゃぶって捨てた女を、こんどは山口明氏となって救ったのだろうか。そしてこの女はそれに気がついていないのか。じぶんがこれほど感謝している山口明氏こそ、じぶんをおもちゃにした男だということに。  わかった、わかった。山口明氏がぜったいに、ユリ子をはじめギャレージのひとたちに、素顔をみせないのはそのためなのだ。しかし、それにしても……と、私はいよいよ高頭五郎という男がわからなくなる。 「それで、山口さんはあなたにご親切になさるのね」 「はい、それはとてもおやさしくて……」  私の胸は|嫉《しっ》|妬《と》のためにかきむしられそうになる。 「ひょっとすると山口さん、あなたを愛してるんじゃなくって。あなたに何か……キスやなんか要求したり……」 「まあ!」  と、びっくりしたように私の顔を見あげたユリ子の眼つきには、いつわりはなさそうだった。 「奥さま、かりそめにもそんなことおっしゃっちゃいけません。あのかたそんなかたじゃございません。それはご商売こそいろいろ……なんでございますけれど、とても立派なかたです。そんなことおっしゃっちゃ、あのかたにたいしてももちろん、うちの主人にたいしても申し訳ございません」 「あら、ごめんなさい。でも、あなたがとてもおきれいだから、つい……」 「やきもちをおやきなさいましたの。ほっほっほ、いえ、もう、あたしなんかとってもとってもですけれど、そうしておやきになってあげるってことはいいことですわね。でもねえ、奥さま、あのかたがどんなにあなたを愛してらっしゃるかってこと、ご存じないんでございますか。あのお顔色じゃわたしなんかもちろんですけれど、どんな女にだって眼もおかけにならないでしょう」  その晩、男がやってきたとき、私がその話をもちだすと、男はそれこそ骨もくだけるばかりに強く私を抱きしめて、 「さっきうえでユリ子からその話をきいたよ。おまえやきもちやいてくれたんだってねえ」  そんなときのこの男はまるで子供のようだった。 「でも、それどういうおつもりなんですの」 「どういうつもりって、つまり、まあ、罪ほろぼしをしてるんだと思ってくれ。ユリ子もおまえに話したというが、おれがどんなにおまえに|惚《ほ》れてるか……おれぜったいに浮気なんかしやあしない。そのかわり、こんりんざいおまえをはなしゃしないから……」 「あたしも……」  こうして私たちは抱きあったまま、歓楽のきわみへおちていくのだった。  そのころ私が不思議に思ったのは、ここが山口明氏のヤミ商売の根拠地になっていながら、私がここへやってきてから、いちどもそういう取り引きらしいものが、おこなわれたことのないことだった。そのことについて質問すると、 「そうそう、それは言っとこう。おれ、ここのほかにもう二か所、秘密の根拠地をもってるんだ。そこではまた、それぞれ、ちがった顔とちがった名前をもっている。いまそれをいっとくから、おまえよくおぼえといてくれ。紙に書いたりしちゃいけないよ。あたまのなかに刻みこんでおくんだ。ここにもしものことがあったら、そっちへ避難しなきゃならないからね」  そういって男はほかの二か所の秘密の根拠地と、電話番号と、それからそこで名乗っている名前を私におしえ、なんどもなんども|復誦《ふくしょう》させた。そして、このことがのちに私に危険が迫ったとき役に立ったのである。  それはさておき、私がその地下室へもぐりこんでから、およそひと月ほどたったころのことである。ある晩、男は妙なものをもってきた。 「|音《おと》|禰《ね》、おまえちょっとこれを着てごらん」  と、ボストン・バッグのなかからとりだしたのは、まっくろなタイツであった。そのタイツには靴下から手袋までついており、首から下は全部ぴったりくるむようになっていた。 「まあ! こんなものを着てどうするんですの」 「なんでもいいから、おれのいうとおりにしておくれ。おれ、ちょっと考えがあるんだから。ほら」  男は私を抱きよせて|接《せっ》|吻《ぷん》する。そうされると私はどんなことでもいやとはいえない。 「じゃ、あたしつぎの部屋へいって着てくるわ。あなたのぞいたりしちゃいやあよ」 「あっはっは、のぞいたっていいじゃないか」 「いやあよ、そんなの」 「じゃ、のぞかない。のぞかない」  私はそのタイツをもって寝室へかけこむと、ぴったりとドアをしめた。そのタイツを着るには、着ているものを全部ぬぎすて、一糸まとわぬ裸にならねばならない。私はすばやくそれに着かえたが、男が私の体にあわせてつくったとみえ、それは肉に|喰《く》いいるようにぴったり私の体にあっていた。着おわって鏡のまえに立ってみると、乳房のふくらみから|臀《でん》|部《ぶ》のまるみと、全身の曲線がまるだしで、私は顔をあからめずにはいられなかった。しかし、これが男の好みとあらばしたがわねばならぬ。私の体は男の|愛《あい》|撫《ぶ》をもとめているのだから。 「音禰、なにしてるんだい、まだ……?」 「だって、あたしきまり悪くって……」 「いいからこっちへ出ておいで。そして、これをつけてごらん」  私がそっと出ていくと、|舐《な》めるように私の全身を見まわす男の|瞳《め》に、ギタギタとした情欲の炎がもえあがる。 「ああ、音禰、すばらしいよ。おまえはきれいな体をしている。八頭身というのはおまえのことだ。さあ、このローブを着て、このマスクをつけてごらん」  男は私の顔にこれまた、黒|繻《しゅ》|子《す》でつくったマスクをつけさせ、それから昔の将校マントのようなかっこうをした、これまた表が黒で、裏が白と黒とのたてじまになった、|裾《すそ》のながいローブをうしろから着せかけた。そして、もういちど私の姿を、ためつすがめつしていたが、やがてはっと私のまえにひざまずくと、 「おお、女賊オトネ様、やつがれはあなた様のしもべでござりまする」  ああ、男はいったいなにをたくらんでいるのであろうか。      暗闇の饗宴  そこは|朦《もう》|々《もう》たる紫煙のこもる、ほのぐらい地下の歓楽境なのである。  閉じこめられた空気のなかに、むっとするように立てこめているのは、強いもろもろの酒の|匂《にお》い、むせっかえるような女たちの脂粉の香り、酒気をおびてギタギタする男たちの肉感的な体臭……。  どちらを見ても、マスクで顔をかくした男と女が抱きあって、はじめのうちこそひそひそと、ささやきかわす猫なで声や甘ったれ声だったのが、酒気がまわるにしたがって、男も女も|羞恥《しゅうち》や遠慮をかなぐりすてて、眼もあてられぬ狂態、痴態が、ひろい地下ホールのいたるところでくりひろげられている。  会費御一名様一万円也、|但《ただ》しかならず御婦人御同伴のことという条件つきの、豪華にして|淫《いん》|蕩《とう》的なヤミ屋仲間の秘密の宴会……。これがその夜の状況なのである。 「いやだわ、あなた。どうしてあたしをこんなところへつれてきたの」  マスクで顔をかくしているとはいうものの、羞恥のために私は顔をあげることすら出来ない。出来るだけローブでかくすようにしているものの、黒いタイツ一枚の私は、全身の曲線がむきだしで、そうでなくとも好色な男たちの眼をひかずにはいなかった。 「あっはっは」  と、タキシード姿の山口明氏は、マスクのおくの眼を酒気にかがやかせて、 「だって、かならず御婦人御同伴のことという条件がついてるんだぜ。おまえおれがこんなところへ、ほかの女をつれてきてもいいというのかい」 「しらない」  私はちょっと身をくねらせて|拗《す》ねてみせる。私はいつかこういう技法を身につけているのだった。 「でも、あなた、それならそれで、なぜもっとほかの身なりをさせてくださらなかったの。なんぼなんでもこれではきまりが悪くって……だって、みんなじろじろ見るんですもの」 「いいじゃないか。おまえのその美しいからだを、みんなに見せびらかしてやるんだ。おまえは今夜の女王様だ。ほら見ろ。男連中みんな|涎《よだれ》の垂れるような顔をして、おまえを見てるじゃないか」 「いや、そんなことおっしゃっちゃ……」 「そして、女連中はみんなおまえにやきもちやいてるんだ。さあ、いいからもっとこっちへおよりよ」  私はあまりの心細さに、男のそばへよりそわずにはいられない。いつか私も男の|膝《ひざ》に抱かれていた。  そのホールには中央に円型の舞台がしつらえてあり、その舞台のうえだけは、明るい照明に照らされているのだが、そのほかは全部ほのぐらい間接照明のなかにしずんでいる。そして、舞台をとりまくほのぐらい間接照明のなかに、五十ばかりのテーブルがあり、どのテーブルにもマスクをつけた男と女が、一組ずつ席をしめているのだが、酒気がまわるにつれて、どのテーブルでも男と女が、まともにむかいあっているのはなかった。女はみんな男の膝にいるのである。そして全身をなでまわす男たちの指の触感にくすぐられて、甘ったるい|嬌声《きょうせい》をあげる。男たちはそうしてめいめい、じぶんの膝にいる女を|愛《あい》|撫《ぶ》しながら、ときどき私のほうへ露骨なながし眼をくれるのである。  舞台ではいまストリップ・ダンスが演じられているのだが、ほとんど誰もそのほうへ眼をやるものはなかった。舞台よりも見物席のほうが、よっぽど|淫《いん》|蕩《とう》的なのである。 「ねえ、あなた」  羞恥にほてる顔を男の胸にうずめて、私の声もいつか甘ったれていた。 「どうしてあたしをこんなところへつれていらしたの。なにか目的がおありなんですの」 「うん、まんざら目的がないでもない」 「どういうこと? その目的というのは?」 「いまにわかるがね。ほら、むこうをごらん。あれも目的のひとつだがね。|棕《しゅ》|櫚《ろ》の鉢植えがあるだろう。あのそばのテーブルで抱きあってるふたり、あれが誰だかわかる?」  私はそっと顔をあげて、男におしえられた方角へ、おそるおそる眼をむける。  そこにはタキシードを着た男と、肌もあらわな黒いイブニングの女が、しっかと抱きあっていた。ふたりともマスクをつけているので顔はわからないが、むきだしの白い女の腕が男の首にまきついて、唇と唇が触れあっている。 「誰……? あのふたり……?」 「おまえの|叔《お》|父《じ》さんさ。佐竹建彦……こういや女が誰だかわかるだろ」 「あなた、かえりましょう。ねえ、はやくここからつれ出して……あたしこんなところをあの叔父に見られるのいや!」 「あっはっは、いいさ、わかるもんか。おまえがこんなところへ来てるたあ、お|釈《しゃ》|迦《か》様でもごぞんじあるめえだ」 「でも、あのひとなら、さっきからジロジロあたしを見てるのよ」 「そうのようだな。それで女のほうがだいぶん御機嫌ななめだぜ」 「あのひと、笠原薫なの」 「もちろん、そうだ」  佐竹の叔父がここへ来ているのになんの不思議もない。あのひともヤミ屋なのだから。そして、かならず御婦人御同伴のことという条件がついているからには、笠原薫をつれてくるのに、これまたなんの不思議もない。しかし、このふたりが来るとしっていて、この男はどうして私をこんなところへひっぱり出したのか。そうでなくとも世をはばからねばならぬこの私だのに……。  私はそっと眼をあげて男の顔を見る。しかし、男は平然として私を抱いたまま、舞台のストリップを見ている。私はもういちど棕櫚の木のほうへ眼をやった。建彦の叔父と笠原薫は、まだ唇をあわせたままでいる。  私は全身がもえるほど|羞恥《しゅうち》の念におそわれたが、しかし、いまの私にはもう建彦の叔父や笠原薫をあざわらう資格はないのだ。私じしんこうして男の膝に抱かれているのではないか。  やっと長いキスをおわった建彦の叔父は、女から顔をはなすとまたこちらのほうへ眼を走らせる。私はあわてて男の胸に顔を埋めた。 「あなた、佐竹の叔父がこちらを見てやしなくって?」 「ああ、見てる、見てる。薫のやつがやいてるぜ」 「あたしだと気がついたんじゃないでしょうか」 「なあに、そんなこたあないよ」 「あなた、後生ですからここをつれ出して……」 「まあいいから、もう少し辛抱おし。ほら、ほら、いよいよはじまるぜ。ちょっと顔をあげて舞台をごらんよ」  そのとたん、場内から|嵐《あらし》のような拍手の音がきこえたので、何気なく顔をあげて舞台へ眼をやった私は、思わずギクッと|呼《い》|吸《き》をのんだ。なんと舞台にならんで立っているのは、巨人鬼頭庄七と、あの|可《か》|憐《れん》な佐竹由香利ではないか。      手入れ  巨人鬼頭庄七は下半身だけ、ぴったり肉にくいいる黒いタイツをはいている。そしてむき出しになった上半身は、くろぐろとした|刺《いれ》|青《ずみ》でおおわれているのである。明るい照明に照らされた、肉付きのいい刺青の肌が、一種異様な肉感をそそるのだ。しかも、たくましい腕には大きな|鞭《むち》がまきついている。 「あなた。いつかオリオン座で見た、あのむごたらしい曲芸がはじまるんですの」 「あっはっは、あんなことで今夜のお客さんが承知するもんか。一万円の会費だぜ。いまに面白い見世物がはじまるんだ。ほら、みんなの眼つきをごらんよ」  私はそっと顔をあげて、ほの暗いホールのなかを見まわす。さっきまでほとんど舞台に眼をくれなかったひとたちだのに、こんどばかりは男も女も、かたずをのんで舞台のふたりを|凝視《ぎょうし》している。  その|瞳《め》にはみだらがましい期待が白熱光のようにかがやいているのだ。いったい、このひとたちはなにを期待しているのだろうか。  私は何気なく舞台のほうへ眼をやった。舞台ではいましも可憐な少女の佐竹由香利が、刺青された巨人の鞭においたてられて、かもしかのように身をくねらせながら逃げまわっている。鞭をもった巨人と可憐な少女という、このうえもなく残酷なとりあわせのサジズムが、このひとたちにあのように、かたずをのませるのであろうか。  だが、そうではなかった。いや、それだけではなかったのだ。  可憐な少女はとうとう巨人の手にとっつかまった。由香利は巨人の手からのがれようとして身をもがく。しかし、それは|所《しょ》|詮《せん》|鷲《わし》につかまれた|小雀《こすずめ》も同様だった。可憐な由香利は身につけているものを、ひとつひとつ、残酷な巨人の手によって|剥《は》ぎとられていく……。  とつぜん、ある恐ろしい考えが、さっと私の|脳《のう》|裡《り》をかすめた。いまに面白い見世物がはじまるんだといった男の言葉……。 「いやよ、いやよ、いやよ、あたしこんなの見るのいやよ。あなた、はやくここからつれ出して。どうしてこんなところへつれていらしたの?」  私は必死となって男の腕に武者ぶりつく。 「ああ、ごめん、ごめん。おれだってこんなの見るの好きじゃない。ほんとのところいやなこった。しかし、あまりおまえがあの娘に同情的だから、あいつの正体を見せてやろうと思ったんだ。さあ、見たくなければ眼をつむって、おれの胸に顔をあてておいで」  私はぐっしょり汗になった顔を、必死となって男の胸にこすりつける。  この男は悪党だけれど、妙にやさしくたのもしいところがあって、いつもこうして抱かれていると、なにもかも忘れて気がやすまるのに、きょうだけはそうはいかなかった。見物席からわきおこる、|汐《しお》|騒《さい》のようなあさましい|溜《た》め息が、どすぐろく私の心をふるわせるのだ。  ただひとつ、私の心を慰めるのはそのとき、また舞台のほうから、|鞭《むち》の音がピシリ、ピシリと聞こえてきたことだ。それではまだあさましい見世物ははじまっていないのだろう。 「|音《おと》|禰《ね》」  と、男はやさしく私の耳に口をよせて、 「こんどは娘のほうが鞭をふるって、おやじを追っかけまわしているんだぜ。おまえの競争者のなかでも、いちばん恐ろしいやつだ。このチンピラ娘がな」  私はもう全身ぐっしょり汗になっていたが、そのとき誰かが男のそばへよってきて、なにやらふたこと三ことささやいた。すると、ギクリと男の体がふるえるのが感じられ、 「ああ、そう、それじゃ、おまえ、ちょっと|膝《ひざ》からおりてくれ」 「いやよ、いやよ。あたしをはなしちゃいや!」 「だって、ユリ子から電話がかかってるっていうんだ。何かまちがいがあったのかもしれない」 「あなた、まちがいって……?」 「だから、ちょっといってくる。すぐかえってくるからおまえはここに待っといで」 「あなた、できるだけはやくかえってきて。あたしひとりじゃ心細いんですもの」 「ああ、すぐかえってくるとも」  ヤミ屋のボスの山口明氏が、ボーイについて出ていくと、男たちがいっせいにジロジロ私のほうを見る。かれらにしてみれば、せっかくの面白いこういう見世物を、まともに見ていられない私という女が、ふしぎなのにちがいない。佐竹の叔父もまじまじとふしぎそうにこちらを|視《み》ている。そのそばから薫がおこったように耳をひっぱったので、叔父は苦笑いをしながら、舞台のほうへ視線をもどした。  とつぜん、また汐騒のような溜め息が、ほの暗い見物席から|湧《わ》きおこった。ああ、いよいよあさましい見世物がはじまるのか……。  私は全身石のように固くして、舞台から眼をそむけていたが、そのとき、ふいに舞台のうえの照明が、パチパチ二、三度点滅したと思うと、見物席から男も女もいっせいに、わっとさけんで立ちあがった。 「警察の手が入った!」  ほの暗い間接照明のホールのなかは、たちまちうえを下への大騒ぎになる。  警察……と、いう一言がはっと私の心をうつ。何気なく舞台を見ると、全裸の由香利が|衣裳《いしょう》をかかえて、これまた全裸で、全身まっくろな|刺《いれ》|青《ずみ》におおわれた巨人、鬼頭庄七とともに、狂ったようにホールへとびおりてきた。 「静かに! 静かに! 大丈夫、大丈夫、逃げ道はちゃんと作ってある。さあ、あの入り口から順ぐりに出ていってください」  今夜の催しの世話人とおぼしい男が、舞台にとびあがって、声をからして叫んでいる。見るとさっきまで大きな壁画のかかっていた壁に、四角な|孔《あな》があいて、そのむこうにまっ暗な地下道が走っている。男も女もなだれをうってその地下道へかけこんだ。  しかし、私はどうすればよいのだ。山口明氏はまだかえって来ない。たとえここをぬけだしても、こんな姿で町は歩けぬ。しかも私は一文も持っていないのだ。 「なにをぐずぐずしてるんだ。はやくあの地下道へ入ってください。でないと、ドアをしめて明かりを消してしまうぞ」  ああ、もうしかたがない。私は意をけっしてまっくらな地下道へはしりこんだ。  この地下道はかなりながく、道路をへだてたむかいのビルの地下へ通じているらしい。暗がりのなかをもみあうようにして通りぬけると、あらかじめこういうことのあるのに備えていたのか、今夜の客の|外《がい》|套《とう》や預かり品は、全部こちらへまわしてあった。 「さあ、マスクをとって順ぐりに、何気なくこのビルを出ていってください」  もちろん、マスクをつけたまま町を歩くわけにはいかぬ。私は出来るだけひとから離れて、暗い出口でマスクをとったが、そのとたん、 「あっ!」  と、いう叫びが聞こえたかと思うと、むんずと|手《て》|頸《くび》を握ったものがある。叔父の佐竹建彦だった。      第四章 |焙《ひあ》|烙《ぶり》の刑  それから一週間というもの、私は建彦|叔《お》|父《じ》のアパートに監禁されていた。いや、監禁されていたわけではないが、タイツにローブ一枚という姿では、逃げだすわけにもいかないのだ。  あの晩、騒ぎにまぎれて笠原薫にはぐれた叔父は、私をこのアパートへつれてきて、ドアに|鍵《かぎ》をかけると、無言のまま、はげしい平手うちを私の|頬《ほお》にくらわした、怒りにまかせてなんどもなんども、両手で私の頬をうった。  私にはむろん叔父の気持ちがよくわかった。叔父が怒るのもむりはない。おそらく叔父は、じぶんは身をもちくずしても、|姪《めい》の私には清く、正しく、美しい人生を送らせたかったのだろう。私の胸は叔父にたいするすまぬ|念《おも》いでいっぱいだった。だから、いかに|叩《たた》かれても、ぶたれても泣かなかった。それをしぶといと怒って叔父はまたぶった。  そのうちに、私の唇が切れて血が流れるにおよんで、叔父のほうが泣きだした。声をあげて号泣したのだ。 「|音《おと》|禰《ね》、音禰、おまえはどうしてそんな女になったのだ。その姿はいったいなんだ。なんだってあんなあさましいところへやってきたんだ。おまえといっしょにいた、ヤミ屋のボスみたいな男はいったい誰なのだ」  しかし、それにたいしてなんと答えることができよう。私はもう身も心もあの男に|捧《ささ》げているのだ。あの男の不利になるようなことは、こんりんざいしゃべるわけにはいかぬ。私が黙して答えないのを見ると、叔父はまた怒りがこみあげてきたらしく、あらあらしく声をふるわせたが、もうぶとうとはしなかった。 「音禰、おまえは上杉の|伯《お》|父《じ》さまや、品子さまにすまないとは思わないのか。おまえが家出したあとの、伯父さまや品子さま、とりわけ品子さまのお歎きが、どんなものだかおまえにもわかるだろう。おまえはあのひとたちにすまないと思わないのか」 「叔父さま、それだけはおっしゃらないで。あのかたたちのことを言われるのが、いちばん|辛《つろ》うございます」 「あのひとたちのことを言われるのが|辛《つら》い……? それじゃおまえにもまだ、いくらか昔の音禰の性根がのこっているんだな。音禰、悪かった。わけも聞かずにいきなりぶったりしたのは悪かった。だけど、いっておくれ。おまえの男というのはいったい誰なのだ。おまえ、男があるんだろう」 「はい」 「いったい、その男というのはどういうやつだ」 「叔父さま、それは言えませぬ」 「言えない? なぜ、言えないのだ」 「そのひとに迷惑がかかってはなりませんから」 「音禰! おまえはその男に|惚《ほ》れているのか」 「はい」  そのとたん、またはげしい平手うちがとんできたので、私は思わず体をななめに倒した。 「おまえは……おまえは……ボン・ボンみたいなバーの二階へつれていく男……、そして、今夜のようなあさましい見世物へ、おまえをつれてくる男……そんな男におまえは惚れているのか」 「でも、今夜のは……?」 「今夜のは……今夜のはどうしたというんだ」 「あたしあんな見世物があるとは存じませんでした。あのひともこんなもの見るのは好かないと言ってました」 「それじゃ、なぜやって来たんだ。あんな高い会費を払って……」 「それは……あたし由香利ちゃんて|娘《こ》にとても同情してたんです。あのひとが全部の遺産を相続するのがほんとうだと、あたしはまえから思っていたんです。あのひと、由香利ちゃんのこといろいろ言ってましたけど、あたしそんなこと信じなかったんです。いいえ、信じられなかったんです。それで、あのひとが由香利ちゃんて娘の正体を見せるために、今夜あたしをあそこへ……」 「音禰」  叔父の声がおびえたように|咽《の》|喉《ど》のおくにひっかかった。 「それじゃ、そいつは、その男は、あの遺産に関心をもっているんだな」  私はそれに答えなかったが、答えないということが無言の同意を意味しているのだ。 「音禰、音禰、おまえはそいつに|騙《だま》されているのだ。そいつはきっとおまえの財産をねらっているのだ。利巧なおまえにそれがわからないのか」  それにたいして私はなんとも答えることができなかった。私じしんおなじ疑いを持っているのである。いやいや、あの男じしん口に出してそれを言っているではないか。 「音禰、そいつはひょっとすると、おまえに出来るだけたくさん遺産がいくように、かたっぱしから佐竹の一族を殺しているのではないのか。音禰、言ってくれ。そうではないのか」 「あたしには……わかりません」 「わからない? わからないというところをみると、そうではないとは言いきれないんだな」  ああ、しかし、あの男のほうでもこの叔父にたいして、おなじ疑いをもっているではないか。 「叔父さま、もうなにもいわないで……」 「音禰、おまえはその男を恐れているのではないか。そうならそうといえ。どんな男かしらないが、おれがきっと別れさせてやる。そんな男といっしょになると、たとえおまえのふところに遺産がころげこんだところで……」 「叔父さま、もうそんなことおっしゃらないで……。音禰は覚悟をきめております」 「覚悟とは……?」 「叔父さま、音禰はもうこの世にいないものと|諦《あきら》めてください。昔の無邪気な音禰は死んでしまいました。いまここにいる音禰は、身も心もけがれはてた音禰です。叔父さまにどんなにお憎しみをうけてもいたしかたがございませんが、もうこれ以上、なにもお|訊《き》きにならないで……」  そのときはじめて私は泣いた。じぶんの身のいとおしさに、泣いて、泣いて、涙もかれるほど泣きつくした。  その夜は叔父も諦めて、それ以上私を責めようとはしなかった。しかし、その翌日からは手をかえ、品をかえ、男の名前を聞き出そうとする。しかし、どんなにいっても私が口をわらないので、どうかすると平手打ちがとんでくることがあった。それは私にとってよりも、叔父じしんにとって、どんなに辛い|折《せっ》|檻《かん》だったろうか。おそらく叔父は|焙《ひあ》|烙《ぶり》の刑にかけられる念いだったにちがいない。      薫の嫉妬  こうして一週間たった。さすがに|叔《お》|父《じ》は私を警察へつき出そうとも、また上杉の|伯《お》|父《じ》さまのほうへ|報《し》らせようともしなかった。おそらく現在のすさんだ私のことを、ひとに|洩《も》らすに忍びなかったのだろう。  建彦の叔父のアパートは池袋にあり、かなり高級なアパートで、壁も厚く、少々の物音や話し声では、隣室へひびくこともないらしい。だから一週間もここにひそんでいるのに、誰も、気がついたものはなかったようだ。ただ困ったことにこのアパートには、電話が部屋ごとにないことだ。電話さえあれば堀井敬三に、危急をつげることも出来るのに、叔父は電話のない部屋へ私をとじこめたまま、一歩も外へ出さなかった。  それにしてもあの男はどうしたのか。あの晩、建彦の叔父があそこへ来ていることをしっているのだから、私の行く方がわからないとすると、建彦の叔父につれさられたのではないかと、考えおよばぬはずがない。それがいまもってなんの|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もないところをみると、ひょっとするとあの晩、警官に捕えられたのではないか。  それを考えると私は腹の底が鉛のように重くなる。いったん捕えられたがさいご、いろいろうしろ暗いところのある男のことだから、当分出てくる見込みはあるまい。もしそうなったら私はどうしたらいいのか。 「もうおまえはおれなしでは、一日として生きていくことは出来ないのだ」  と、あの男のささやいた言葉が、いまさらのように思いあたる。実生活のうえからも、また肉体の切実な要求からも……。  ひと月あまり毎晩のように、あの男の肌にふれてきた私は、建彦の叔父のアパートで、気分が落ちついてくるにつれて、男恋しさに泣きぬれた。あの男は悪党だけれど、妙にやさしく、たのもしいところがあって、身心をかたむけてよりかかれたのだ。  そういう私の顔色に不安をかんじたのか、ある夜、建彦の叔父は出かけるまえに、いきなり私に躍りかかって、タイツのうえからがん字がらめに縛りあげた。 「あれ、叔父さま、なにをなさいます」 「何をするってしれたことさ。おまえは男恋しさに身をもだえている。ここを抜け出すことばかり考えているのだ。危ないからこうしておく。おれがかえってくるまで、窮屈だろうがそのままおとなしくしておいで」  叔父は私の体を床のうえにおしころがしたまま、さっさとアパートから出ていった。こういう目にあうと、私の男恋しさはいよいよつのるばかりである。 「あなた、あなた。あなたはどうしてここへ来てくださらないの。どうしてあたしを救いにきてくださらないの。あなたは超人でしょ。スーパーマンでしょ。あたしがここにいることがわからないはずがないでしょ。それともあなたの身のうえに、なにか間違いでもあるんですの」  私は身をもだえて男の名を呼んだ。男の名を呼んでは泣きぬれた。そうして|輾《てん》|転《てん》反側しているうちに、私は男の名をよびつづけながら、とうとう泣き寝入りに寝込んでしまった。  それからどのくらいたったのか。なんとはなしにひとの気配をかんじて、ふと眼をひらくと、すぐ|枕《まくら》もとに誰か立っている。女である。|脚《あし》のほうから順々にうえを見上げていくうちに、私はギクッと体をふるわせた。それは笠原薫だった。しかも、まじまじとうえから見おろす薫の眼つきは、けっして好意的なものではなかった。 「うっふっふ、お疲れ筋だったのね」  にやりと唇をねじまげてわらう薫の顔には敵意がもえている。私には薫の言葉の意味がわからなかった。 「どうも変だと思ったのさ。電話をかけてもなんだかんだと言葉をにごして、あたしをよせつけないようにする。怪しいと思ってきてみれば、案の定、こんなお楽しみをかくしているんだもの。油断もすきもあったもんじゃないわ」  薫は|真《ま》っ|紅《か》に|爪《つめ》を染めた指で、たばこに火をつけると、それを口にくわえたまま、私のそばにしゃがみこんだ。 「それにしてもお嬢さん、あんたも大した女だねえ。いったい何人男があるのさ。いえさ、何人男をこさえようと勝手だが、げんざいの叔父とちちくりあうなんて、あんたもきれいな顔をしていて、まるでけだものみたいな女だね」  げんざいの叔父とちちくりあう……? その言葉を聞いたせつな、|虫《むし》|酸《ず》の走るような嫌悪の情が、私の全身をつらぬいた。 「何を……何をあなたはおっしゃるんです。そんな、けがらわしいこと……」 「何がけがらわしいのさ。その口でけがらわしいなんていえた義理かい。あたしゃよくおぼえているよ。おまえさん、このあいだの晩来てたね。あの面白い見世物を見にさ。あっはっは、虫も殺さぬような顔をしていて、あんな見世物を見にくるんだからね。おまけにこんな露骨な|扮《ふん》|装《そう》でさ」  薫は私の体のあちこちを、タイツのうえから指でつついていたが、とつぜん、ドスぐろい|嫉《しっ》|妬《と》の情につかまれたのか、いきなり乳房をぎゅっとにぎった。 「あっ……」  私は思わず悲鳴をあげて身をもだえる。 「うっふっふ、そうして美しい曲線を、建彦に見せびらかしてふざけていたんだね。このオッパイを、この腰を、このお|臀《しり》を、建彦のまえに見せびらかしてふざけたんだろう。ああ、もう、どうしてくれよう」  いったん|堰《せき》をきった薫の嫉妬は、とめどもなくもえあがって、私の体のあちこちを力かぎり|抓《つね》ってやめない。私は苦痛のために床のうえをころげまわった。 「あなた、あなた、そんなあさましい……。叔父と関係するなんて、そんな畜生みたいなこと……」 「なにが畜生みたいなことだよ。まあ、お聞き。佐竹の一族はみんな畜生みたいなやつばかりだよ。由香利をごらん。あんな|可《か》|憐《れん》な顔をして、義理とはいえじぶんのおやじと、あんなあさましいことをしてみせるんだ。|双《ふ》|生《た》|児《ご》の|蝶子《ちょうこ》と花子はどうだえ。ひとりの男のおもちゃになってさ。おまえの叔父の建彦だって、あたしと関係がありながら、妹の操に手を出したんだよ。そんな畜生みたいな男だもの、|姪《めい》であろうがなんであろうが、こんなきれいな顔や体を見ると、ただでおくもんか。あたしゃあの晩から建彦のやつが、おまえの体にうつつをぬかしてるのをしってるんだよ。建彦とふざけたのならふざけたとおいい」 「そんな、そんな、けがらわしいこと……」 「いわないか、まだしらを切る気なんだね。よし、いわなきゃいえるようにしてあげる」  薫は兇暴な眼をしてあたりを見まわしていたが、そこにあるストーブを見るとにやりと笑った。ストーブのなかには私に|風《か》|邪《ぜ》をひかせまいと、出がけに叔父がくべていった石炭が、すさまじい音を立ててもえている。薫はそのなかから真っ紅にやけた|火《ひ》|掻《か》き棒を抜きとった。プーンと焼き刃のような|匂《にお》いがする。 「さあ、どうだ。これでもいわないの。いわなきゃこれを|頬《ほ》っぺに当てるよ。そのきれいな顔にどんな跡がつくだろうねえ」  恐怖のために私は全身がしびれてしまった。薫の眼を見ると、それが冗談やこけ脅かしでないことがよくわかる。薫は真剣なのだ。嫉妬に狂って思慮も分別も忘れているのだ。 「さあ、いわないか、お嬢さん、お上品ぶった偽善者さん。あたしはたしかに叔父と関係しましたと、さっさとここで白状しておしまい。まだ強情張ると……」  火掻き棒のさきの焼けつくような火熱が、すぐ頬っぺのさきまで迫ってじりじり|焙《あぶ》る。私は眼をつむった。つむった|眼《め》|尻《じり》から涙が|溢《あふ》れる。涙は私のこめかみから耳へとつたった。 「なんだい、泣いてるのかい。泣いたってそんな涙でごま化されるあたしじゃないよ。ええ、もういっそ……」  私の気が遠くなりそうだったそのとたん、 「馬鹿!」  と、|一《いっ》|喝《かつ》する叔父の声とともに薫の倒れる音がした。私はやっと|灼熱《しゃくねつ》地獄からのがれたのだ。      後門の狼  ソファのはしに体をうずめて、私はひしと両手で顔をおおうている。顔をおおうた指のあいだから、涙があふれてやまなかった。  隣の部屋から甘い、鼻にかかった薫の声が、なにかをうったえるようにくどくどと聞こえてくる。|叔《お》|父《じ》の顔をみると薫の機嫌はすぐなおった。さらに叔父にたしなめられ、腕に抱かれてキスされると、さっきの勢いはどこへやら、小娘のようにしおらしくなった。  叔父は私の|縛《いまし》めをとき、ソファに|坐《すわ》らせると薫の無礼をあやまった。すると、薫はまた|嫉《しっ》|妬《と》して、私のまえで抱いてくれなければいやだと|拗《す》ねた。そしてみずからスーツをぬぎ、肌着ひとつになって叔父に挑んだ。叔父は苦笑しながら、薫を抱いてつぎの部屋へ入り、そして、いまふたりはベッドのなかにいるのである。  ああ、何もかもがあさましい。しかし、あさましいからといって、私にももうこのひとたちを|軽《けい》|蔑《べつ》する資格はないのだ。私じしんが正体不明の男にあこがれ、恋の炎に身をこがしているのだもの。  隣室から絶えいるばかりに騒々しい薫の|嬌声《きょうせい》がもれてくる。私はそれを聞くまいとして顔をそむけたが、そのとき眼についたのは、いま薫のぬぎすてていったスーツにオーバー。それを見ると私は思わずソファからとびあがった。玄関へ走るとさいわいドアに|鍵《かぎ》はかかっていなかった。私はすぐまたもとの居間へとってかえして、タイツのうえから薫のスーツを着た。薫は私より大柄なので、スーツは少しだぶついたが、しかし、いまはそんなことをいっているばあいではない。ストッキングはなかったけれど、タイツが黒いストッキングのようにみえる。  隣室からはまだ薫の絶えいらんばかりの声がきこえている。私はふるえる腕にオーバーをとおして、しのび足で玄関へ走った。階段をかけおりるとき、何気なく上着のポケットに手をいれると、|皺《しわ》苦茶になった紙幣が手にさわった。取り出してみると百円紙幣が五枚ある。  だらしない薫は買い物をした釣り銭を、そのままポケットにつっこんだのにちがいない。ああ、有難い、助かった。これで私はタクシーを拾えるというものである。  さいわい、アパートの受付には誰もいなかったので、私はひとに見られることもなく、表へとび出すことが出来た。とにかく、どこからか堀井敬三に電話をかけてみよう。  あの晩、ユリちゃんから電話がかかったところをみると、赤坂のかくれ家になにかよくないことが起こったのかもしれぬ。しかし、さいわいあの男は、万一の場合の用意にと、ほかのふたつのかくれ家と、電話番号とそこで名のっている名前を私におしえてくれた。私はいまでもそれをよくおぼえている。どこかに公衆電話はないかと、あたりをさがしながら歩いていると、とつぜん、うしろから、 「お姉さま、お姉さま、ちょっと……」  と、呼びかける声がきこえた。私はじぶんのことではないと思い、そのまま行きすぎようとすると、 「お姉さま、お姉さま、|音《おと》|禰《ね》お姉さま、ちょっと待って……」  と、ハッキリ名前を呼ばれて、私は思わずその場に|釘《くぎ》|付《づ》けになった。その私のそばへすりよってきたのは、なんと古坂史郎ではないか。 「お姉さま、こんなところで立ちどまっちゃいけない、さあ、ぼくと手を組んでいきましょう」  古坂史郎は|否《いや》|応《おう》なしに、私の腕に腕をとおすと、まるで恋人同士のように歩き出す。  私にその腕をふりきって、逃げだすことの出来ぬ弱味があることを、この|美《び》|貌《ぼう》で|狡《こう》|猾《かつ》な少年はよくわきまえているのだ。私の全身を|虫《むし》|酸《ず》のはしるような|悪《お》|寒《かん》がつらぬく。一難去ってまた一難。私はまるで放心したように、古坂史郎に手をとられたままふらふらと歩いていった。 「お姉さまはやっぱり、あのアパートにかくれていたんですね。でも、変だなあ。せんにたびたび警察で、あのアパートを調べたようだけど……。お姉さまはいつからあのアパートにいらしたんですか」  女のような甘ったれ声である。私はいつか堀井敬三がささやいた言葉を思い出す。 「音禰、おまえはあの古坂史郎という男を警戒しなきゃいけないよ。あいつはまだチンピラだけど、女にかけちゃ|凄《すご》いって話だ」  それから男はまたこういった。 「いままでのおまえは良家の子女だったから、あいつにも手の出しようがなかったのだろうが、こうして出奔してしまえば、あいつにとっても同じ穴のむじなだ。きっとおまえを探して接触しようと試みるだろう……」  男の予言は的中した。だが、男の予告があっただけに、私は猛然とファイトの|湧《わ》きおこるのをおぼえた。この音禰はもう昔の音禰ではない。こんな子供に負けはしない。私はわざと|溜《た》め息をついて、 「史郎ちゃんはどうして、こんなところをうろうろしてたの」  史郎ちゃんと呼ばれたことが、ひどくこの少年をよろこばせたらしい。うっふっふとうれしそうにわらうと、 「ぼくね。あのアパートを見張っていれば、いつかお姉さまにあえると思ったんです。お姉さま、きっとあの叔父さまと、なにか連絡をとってらっしゃるにちがいないと思っていたんです。だから、|幾《いく》|晩《ばん》も幾晩も、どんなに当てが外れても、失望しずに見張りをつづけていたんです。そしたら今夜とうとう……ぼく、こんなうれしいことないなあ」  子供のように無邪気によろこんでいるこの少年が、あの男のいうように、そんな凄い女たらしだろうか。 「史郎ちゃんはあたしに会ってどうしようと思ってたの」 「ぼく……? ぼくね、お姉さまにあこがれてるんです。だって、お姉さま、とってもすてきなんだもの」  また虫酸の走るような悪寒が全身をつらぬく。 「そうお。ありがと。それで史郎ちゃん、あたしをこれからどこへつれていくつもり?」 「とりあえず江戸川アパートへいかない?」 「江戸川アパート?」  私はギクリと胸をふるわす。 「ええ、そう、ぼくいまヘレンと共同生活してるんだよ。ヘレン、メリーもパトロンも死んじまったでしょう。だからぼくにいっしょに住んでくれっていうのさ。もう十一時だからヘレンも浅草からかえってる時分だよ。とりあえずあそこへいってみましょう。ね、いいでしょう」  いやだといったところでどうなるだろう。史郎の腕は|閂《かんぬき》のように、がっきり私の腕にからみついている。  こうして前門の|虎《とら》をまぬがれた私は、後門の|狼《おおかみ》にみちびかれるままに、またしても血の海へつきすすんでいくのだった。しかし、あとから考えると、このことが一歩私たちを、三つ首塔へちかづけることになったのである。      アパートから出て来た男  さすがに堀井敬三が警戒するだけあって、古坂史郎も心得たものである。  池袋でひろった自動車を、そのまま江戸川アパートへ乗りつけるようなことはしなかった。飯田橋で自動車を乗りすてると、厚生年金病院のまえの暗い横町へ私をみちびく。 「お姉さま、ぼくとってもお姉さまに感謝してるんですよ」 「あたしに感謝してるってどういうこと?」 「お姉さま、あの晩、アパートにいらしたんですってね。そうだとすると、ぼくがヘレンといっしょにかえってきたのをご存じだったんでしょう」  それにたいして、私が答えないのも意にかいしないらしく、 「それにもかかわらず、ぼくのことをだれにもおっしゃらなかったってこと、ぼくそれにたいして、とても感謝してるんですよ。もっともお姉さまとしても、警官のところへそんなこと、いいにいくわけにはいかなかったでしょうけれどね。うっふっふ」  ちくりと針でさすような一言を聞いたとき、私ははじめて堀井敬三の警告をなるほどと思ったのだ。女のようになよやかなしなをつくっているけれど、この子はひとすじ|縄《なわ》でいく子ではない。  敏感な史郎はすぐに私の不快感に気がついたのか、 「ごめんなさい、お姉さま、皮肉みたいなことをいっちゃって……。ぼく、そんなつもりじゃなかったんだけど……」 「いいえ、そんなことどうでもいいけど、しかし、史郎ちゃん」 「なあに」 「ヘレンさんはもうほんとうに、浅草からかえってるんでしょうねえ。あなたとふたりきりじゃ、なんぼなんでもあたしいやよ」 「それゃかえってますよ。ほら、もうそろそろ十一時半だもの」 「でも、ヘレンさん、あたしを見てなんというでしょうねえ」 「なにもいうもんですか。大よろこびしますよ。だってご|親《しん》|戚《せき》のあいだがらじゃありませんか」 「そういえばそうだけど……でも、あたしなんだか心配だわ」 「大丈夫、大丈夫ってば。ヘレンはぼくにたいして、絶対に頭があがらないんですから」 「あら、どうして……? 史郎ちゃんはそんなに、ヘレンさんにたいして権力をもってるんですの」 「もちろん、うっふっふ。お姉さま、ほんとのことを申し上げましょうか」 「ほんとのことってなあに?」 「ヘレンがぼくに頭があがらない理由……あの娘、ひどいポン中毒なんですよ。そしてぼくをおいてほかにあの娘に、ヒロポンを提供する人物がいないんです。ね、おわかりになったでしょう。うっふっふ!」  その薄気味わるい笑い声を聞いたせつな、私は全身に|悪《お》|寒《かん》をかんじずにはいられなかった。私は史郎の手をふりはらい、逃げだしたい衝動をおさえることができなかったが、史郎のほうでもあらかじめ、それくらいのことは予期していたのだ。私の左腕にからみついている史郎の右腕には、万力のような力がこめられている。 「ヘレンはね、ヒロポンなしでは一日だって生きていけないんですよ。あの娘のパトロンだった志賀雷蔵が、そんなヘレンにしてしまったんです。いいえ、ヘレンばかりじゃない。死んだメリーもそうだったんです。つまり志賀雷蔵はヘレンとメリーを手玉にとって、自由自在にあやつるために、そういうふうにしこんだんです。メリーもそうだったけど、ヘレンもヒロポンのためならどんなことでもするんです。だからヒロポンの提供者、すなわちヘレンの主人です。ヘレンはいまやぼくの奴隷もおなじことなんですよ。わかったでしょ」  ふたたび三度、はげしい悪寒と|戦《せん》|慄《りつ》が私の背筋をつらぬいて走る。ああ、この少年はたんなる女たらしではない。堀井敬三がかんがえているより、はるかに恐ろしい悪党なのだ。しかも、いま私はこの男から逃げ出すわけにはいかない。  私は心を落ちつけた。この悪党の手から逃げ出すことが出来ないとすれば、せめていっしょにいるあいだに、少しでもこの男の本心をさぐり出しておかねばならぬ。 「史郎ちゃんはどうしてそんなに、ヘレンさんに興味をお持ちなんですの」 「お姉さま、それはわかってるじゃありませんか。ママ……ご存じでしょう、ボン・ボンのマダムだった島原明美ね。ぼくあのひとの愛人……ペットだったんですよ。ところがママ、殺されちまったでしょう。それでヘレンとメリーに接近していったんです。だって、百億の遺産っていえば、誰だって大きな魅力ですからね。ぼく、佐竹の一族のひとたちとは、だれとも仲好しになっておきたいんです。ことにご婦人のかたがたとはね。さあ、やっと江戸川アパートまできましたよ」  いつか志賀雷蔵にあざむかれてくぐった、江戸川アパートの横門のそばまでちかづいてきたとき、私の|膝頭《ひざがしら》は怪しくふるえた。いま、私の腕をとっている男は、志賀雷蔵にも劣らぬ悪党なのである。  史郎はむろん私のふるえているのは気がついているのである。しかし、そんなことを気にする男ではない。いやいや、私がおびえおののいていることによって、いっそうサジスト的快感をおぼえるのだろう。いかにも楽しそうに、マンボのリズムをくちずさんでいたが、そういうふたりが横門から、十メートルほどてまえまできたときである。門のなかから足ばやに出てきた男が、こちらのほうへ来ようとして、私たちの姿に気がつくと、あわてて身をひるがえしてむこうへいった。 「おや?」  と、史郎は足をとめ、怪しむようにその男の後ろ姿を見送っている。 「ご存じのかた?」 「ううん、ご存じにもなんにも、まるで顔は見えなかったよ。お姉さまは顔を見た?」 「いいえ、あたしも……」 「へんなやつ」  と、史郎はなにか気になるように、その男がむこうの町角をまがるまで、後ろ姿を見送っていたが、 「まあ、いいや、さあ、お姉さま、いきましょう」  いつか志賀雷蔵につれこまれた部屋のまえまでくると、ドアの|鍵《かぎ》はかかっていなかった。 「ほら、ね、ヘレンがかえってる証拠でしょ」  なかへ入ると靴をぬぎながら、 「ヘレン、ヘレン、お客さまだよ。お客さまをおつれしてきたよ」  部屋のなかから返事はなかった。 「おや、どうしたのかな。まだ寝ているはずはないが。お姉さま、とにかく奥へいきましょう」  いま眼のまえにある台所に、いつかメリー根岸が倒れていたのだ。そして、志賀雷蔵が血を吐いて、断末魔の|苦《く》|悶《もん》にのたうっていた部屋へ、私はふたたびつれこまれたのである。      滴る血汐 「おや、ヘレンはどうしたのかな。ヘレン、ヘレン、どこにいるの?」  古坂史郎はきょろきょろあたりを見まわしながら声をかけたが、ヘレンの返事はどこからも聞こえなかった。 「おや、どこへいったのかな」  奥の部屋をのぞいたが、そこにもヘレンの姿は見えなかった。古坂史郎は不安そうに、 「お姉さま、ちょっとお待ちになって。ぼくさがして来ます」  と、私を居間におきざりにしたまま、台所のほうをのぞきにいったが、 「なあんだ。お|風《ふ》|呂《ろ》へいったんですよ。ドアをあけっぱなしにしたまんま、ずいぶん不用心な女だなあ」  史郎の|捨《す》て|台詞《ぜりふ》を聞きながら、私は窓のガラス戸を開いたが、三階のそこからでは飛びおりるなど思いもよらぬ。私が暗い街路を見おろしているところへ、史郎がそそくさとかえってきた。 「お姉さま、どうして窓をお開けになるんですか。この寒いのに……」 「いいえ、あたしなんだか息苦しくって……」 「ああ、そう、それじゃそのままにしておきましょう。でも、お姉さま、そこから飛びおりようなんて考えちゃいけませんよ。うっふっふ」  史郎はにやにやしながら戸棚のなかから、二、三本洋酒の瓶をとりだすと、カクテル・シェーカーで酒を混ぜはじめた。私はそれとなく居間のなかを見まわしておく。  居間のたたずまいはこのまえ私が来たときと、ほとんど変わっていなかったが、ただひとつ中型のトランクが、部屋のすみにおいてある。そのトランクの側面に、S・Fとイニシアルが入っているところをみると、古坂史郎のものにちがいない。史郎はこのトランクとヒロポンをひっさげて、ヘレンのところへころげこんできたのだろう。  史郎はふたつのカクテル・グラスにカクテルをつぐと、 「お姉さま、おあがりなさい。ぼくボン・ボンで酒の混ぜかたおぼえたんです。とても上手なんですよ」 「いいえ、あたしいりません」 「まあ、いいじゃありませんか。ごく軽い酒ですから」 「いいえ、ほんとうにあたし……」 「まあ、そういわずに……」  と、口のそばへもって来ようとする史郎の手を、 「あら、ほんとうに堪忍して」  と、さりげなく払いのけたつもりの私の手に、思いのほか力がこもっていたのか、史郎の手からグラスがとんで、さっと顔に酒がかかった。 「畜生ッ!」  そのとたん、史郎の顔に紫色の稲妻が走ったかと思うと、いままでの甘ったれた顔色はどこへやら、残忍な|焔《ほのお》がさっと|瞼《まぶた》にもえあがる。 「やい、あま!」  と、言葉つきもがらりと変わって、史郎は化粧ダンスのひき出しから、ギラギラ光る西洋|剃《かみ》|刀《そり》をとりだした。 「おとなしくすりゃつけあがりやがって。おれはな、出来るだけおだやかに話をつけようと思ってたんだ。いまの酒をのむと、どんな女でも男に抱かれたくなってたまらなくなるんだ。そうなったところで思う存分かわいがってやろうと思っていたんだが、こうなったら仕方がねえ。さあ、姉ちゃんや、こっちへおいで。ドスを|利《き》かせてすまないが、おれといっしょに寝ておくれ」  左手で剃刀の刃の切れ味をためしながら、にやにや笑っている古坂史郎のねじれた唇、残忍な|瞳《め》のかがやき……。それはもう悪魔以外の何者でもなかった。まだ年若く、女のような|美《び》|貌《ぼう》であるだけに、その|凄《すご》さが身に迫る。 「史郎ちゃん、堪忍して……」 「いまさらあやまったって駄目の皮さ。うっふっふ、ヘレンがかえってきたらどうするって? ヘレンはそんなこといっこう平気さ。メリーとふたりで志賀雷蔵の両手に抱かれて寝てたんだもの。相棒が出来たって大よろこびするぜ。さあ、姉ちゃんや。いい子だからこっちへおいでよ。おまえ処女じゃないんだろ」  史郎は剃刀片手に一歩こちらへよってくる。私は窓のそばへあとずさりして、そこにあった|椅《い》|子《す》のうえにあがって、窓わくへ片脚かける。そのとき史郎ははじめて私のタイツに気がついた。 「おや、姉ちゃん、おまえ妙なものを着てるじゃねえか。タイツだね」  史郎はそばへよってきて、いきなり私の脚をつかんだ。 「あっ、史郎ちゃん」  しかし、史郎は遠慮なく、私のスカートをまくりあげると、 「うっふっふ、これゃ大笑いだ。姉ちゃん、おまえなんでこんなもの着てるんだ。あっはっは、いざとなったらスーツを脱いで、全身黒装束の女賊に早変わりというわけか。おまえ、なかなか隅におけないんだね」  史郎の白いしなやかな指が、まるでいやらしい昆虫のように私の脚を|這《は》いまわる。しかも、その指はしだいにうえへ這いあがってくる。  私は窓から外を見る。しかし、そこから飛びおりたのでは、たとえ生命はたすかっても、とても|怪《け》|我《が》はまぬがれない。怪我はよいとしても、それがもとで警察へつきだされるのが恐ろしい。  絶望的な眼で部屋のなかを見まわしている私の|咽《の》|喉《ど》の奥から、 「ヒーッ!」  と、破れた笛のような音がほとばしり出た。 「姉ちゃん、なんて声を出すんだ」  史郎はどくどくしく笑いながら、私の顔を見上げたが、部屋のある一点に|釘《くぎ》|付《づ》けにされた、私の視線に気がつくと、史郎もギョッとしたように、そのほうをふりかえり、そして見たのである。洋服ダンスのドアの下から、滴々として赤い液体がしたたりおちているのを……。  史郎もいっしゅん棒をのんだように立ちすくんでいたが、やがてつかつかと洋服ダンスのまえへちかよった。そして、|把《とっ》|手《て》に手をかけ、さっとドアをひらいたせつな、なかからどさりと転げおちたのは、ぐさりと胸に短刀をつき立てられたヘレン根岸の死体であった。      運命の電話  洋服ダンスからころげおちた衝撃で、死体の|裂《き》れ口がひろがったのだろう。どっと|溢《あふ》れてきた鮮血が、床のうえへ恐ろしい血だまりとなってひろがっていく。 「畜生!」  及び腰になって死体をのぞきこんでいた史郎が、とつぜん私のほうをふりかえった。ギラギラと油のういたような兇暴な眼つきだ。 「絞め殺しゃあがったのだ。両方の手で……ほら、見ろ、ヘレンの|咽《の》|喉《ど》を……でも、それだけじゃ息をふきかえしゃあしないかと、ごていねいにとどめをさしていきゃあがった。畜生! 畜生!」  髪かきむしり、小鼻をふくらませ、だらりと舌を出し、けだものみたいに部屋のなかをいきつもどりつする史郎のようすには、どこか|畸《き》|型《けい》的なものがかんじられ、そのほうが死んでいるヘレンよりよほど恐ろしかった。  とつぜん史郎は死体の|枕《まくら》もとで立ちどまり、 「あいつだ。あいつだ。さっき門のところで出会ったやつ。あいつがヘレンを殺していきゃあがったのだ!」  私もそうだとうなずいて、思わず史郎と眼を見かわした。もしそうだとすれば、いままでぜったい、だれの眼にもすがたを見せなかった|殺《さつ》|戮《りく》者が、たとえ輪郭だけにしろはじめて姿を見せたことになる。私は身うちがすくむような恐怖をおぼえた。  史郎はなにを考えているのか、|執《しつ》|拗《よう》に私の視線をとらえたまま、まじまじと指の|爪《つめ》をかんでいたが、急ににやりとわらうと、死体をとびこえ私に躍りかかってきた。 「あれ、なにをする……」 「いいさ、いいさ、姉ちゃん、なんぼおれが悪いやつでも、死体をまえにいちゃつきゃしないさ。おまえにしばらく、留守番をしてもらわなきゃならないから、逃げだせないようにしておくのさ」  このなよやかな少年の、どこにそんな力が秘められているのかと思われるほど、|強靭《きょうじん》な力で私を抱きすくめると、史郎はすばやく|外《がい》|套《とう》をぬがせ、それからついでスーツを|剥《は》ぎとろうとかかる。 「あれ。それだけは堪忍して……」 「いいからさ、なにもかもぬいでタイツひとつになるのさ」  争うふたりのあいだにスーツが裂けて、私はタイツ一枚のあさましい姿になってしまった。 「うっふっふ、その姿じゃどこへもいけまい。姉ちゃん、しばらくおまえは留守番だ。ひとつ死体のお守りをしてやってくれ」  史郎はじぶんの手にのこったスーツをまるめて、洋服ダンスのなかへほうりこむ。それからつぎの寝室から、脱ぎすてられたヘレンの服を持ってくると、これまた洋服ダンスのなかへほうりこみ、ドアをしめて|鍵《かぎ》をかけた。 「うっふっふ、姉ちゃん、これでおまえはこの部屋から、一歩も外へ出られなくなったんだ。おれはちょっと出かけるから、おまえは留守番をしていてくれ」 「どこへ……どこへ出かけるんです」 「なあに、仲間を呼んでくるんだ。おれもあんまり出しぬけだから、どうしていいかよい智恵もうかばねえ。仲間を呼んできて、ひとつ善後策を相談しよう。姉ちゃん、おとなしく留守番していな。騒ぐとおたがいのためにならねえぜ」  それだけいうと史郎は私をおきざりにして、そそくさとフラットから出ていった。むろん、玄関のドアに鍵をかけていったことはいうまでもない。  スチームもないさむざむとした部屋のなかに、死体とともにタイツ一枚でとりのこされた私は、身も心も凍える|想《おも》いだ。私はとりあえず隣室から、毛布をもってきて体をくるんだ。そして、虚脱しつくした体をぐったりと安楽|椅《い》|子《す》のなかに落とす。  眼のまえにヘレン根岸のむごたらしい死体が横たわっている。見まいとすればするほど、私の眼はそちらのほうへひかれていく。  ヘレンは眼をひらいたまま死んでいた。光をうしなったガラス玉のようなふたつの眼が、下からにらむように私を見ている。唇がすこしひらいて黒ずんだ舌がのぞいている。それにしても、|華《きゃ》|奢《しゃ》な|咽《の》|喉《ど》にのこるふたつの|拇《おや》|指《ゆび》の跡の恐ろしさ。私はいまさらのようにこの事件の犯人の、冷酷無惨な鬼畜性に思いおよんで、つめたく体をふるわせた。  と、このとき……隣の部屋でけたたましくベルが鳴りだした。それがあまりだしぬけだったので、私は悲鳴をあげてとびあがったが、それが電話のベルだとわかったとき、私の心はよろこびにふるえた。  電話はこの部屋と台所のあいだの、せまい|間《かん》|隙《げき》のなかにしつらえてあった。私はそこへ駆けつけると、受話器をとろうとしてすぐ気がついて手をひっこめた。  電話のベルは鳴りつづける。いつまでもいつまでも鳴りつづける。死人のいる、静かなフラットのなかに鳴りつづけるベルの音が、どんなに私をおびやかしたことか。  だが、とうとうあきらめたのか、ベルの音は鳴りやんだ。私はいらだつ心をおさえながら、一瞬、二瞬待ったのち受話器をはずした。 「もしもし、外線を願います」 「ああ、なあんだ、根岸さん、いたんですか。いま電話がかかってきたんですよ」 「すみません、ちょっと手がはなせなかったものですから……」  外線へつながれると、私はふるえる指でダイアルをまわした。堀井敬三の三つのかくれ家のうち、ひとつは|早《わ》|稲《せ》|田《だ》の|鶴《つる》|巻《まき》町にある。私はそこの電話番号と、そこで名のっているあの男の名前を、頭のなかに刻みこんである。  間もなく電話のむこうに女の声が出た。 「もしもし、鶴巻食堂ですか。そちらに平林啓吉さんはいらっしゃいませんか」  答えはいかにと、私の胸は早鐘をうつように躍っている。心臓が咽喉のおくまでふくれあがってきて、われとわが息遣いの音が耳ざわりになる。私の運命はこの電話一本にかかっているのだ。 「あなたさまのお名前は……?」 「はあ、音禰……オ、ト、ネとおっしゃってくださいまし」  あっ! と、女はひくく叫んで、それから少し早口に、 「少々お待ちくださいまし、すぐおつなぎいたしますから」  いたのだ! 堀井敬三が……私の眼からどっと涙が|溢《あふ》れてきたとき、 「音禰! 音禰!」  と、ものに狂ったような男の声がきこえてきた。その声を聞いたとたん、私はあまりのなつかしさ、恋しさに、せぐりあげそうになってきて、すぐに言葉も出なかった。 「音禰! 音禰! おまえはいまどこにいるんだ。おれはどんなに心配したかしれやしない。おれは……おれは……」  男も興奮をおさえかねるようすだったが、そのことがかえって私を落ちつかせた。 「あなた、あなた、落ちついてちょうだい。そして私のいうことをよく聞いて。私はいま江戸川アパートの、ヘレン根岸の部屋にとじこめられているんです。玄関のドアには鍵がかかっており、しかも私はタイツ一枚だから外へ出ることが出来ません、しかも部屋のなかにはヘレンの……」 「ヘレンの……?」 「ヘレンの死体とあたしのふたりきり……」 「ヘレンの死体……? いいよ、いいよ、詳しいことはあとで聞く。それで……」 「古坂史郎がいまあたしをここへ閉じこめて、仲間を呼びにいきました。そのまえにあたしを迎えにきて……」 「よし、わかった。おまえはタイツ一枚なんだな」 「はい」 「それから、玄関のドアに鍵がかかっているんだね」 「それが困ると思うんですけれど……」 「なあに、そんなことはお茶の子さ。音禰、いますぐいくからな。気持ちをしっかり持っといで。さあ、キスを送ってあげる」  チュッ! と、唇をならす音を聞かせて、ガチャリと電話が切れたとき、私の眼から涙があふれた。      三人の仲間  堀井敬三に連絡がとれたということ、いや、いや、あの男の声を聞いたということだけで、私の体に活力がもどってきた。  私はここでぼんやりあの男の、くるのを待っていてよいだろうか。いや、いや、ぼんやり考えこんでいると、ドスぐろい不安が私の心をかきみだす。古坂史郎とその仲間が、堀井敬三よりもさきにやってきたら……。  その不安を払いおとすためにも、私はなにかしなければならなかった。私はふと部屋の隅においてある、古坂史郎の中型トランクに眼をつけた。そうだ、あのなかみを調べてやろう。そうすれば古坂史郎という男の正体が、いくらかでもわかるかもしれぬ。  トランクをあけようとして、私は思わず息をのんだ。どういうわけかトランクの錠前がこわれていて、古ぼけた|蓋《ふた》はなんなく開いた。  トランクのなかはほとんどからだった。持ってきた下着類は、たぶんヘレンのタンスにしまってあるのだろう。粗末なボール箱のなかに、|空《から》になったヒロポンのアムプレーが一杯つまっている。ほかに古ぼけた襟巻きや手袋。それから、かなり上等のカメラが一台。  私はもういちど念入りに、トランクのなかをしらべたが、そのうちに蓋のうらがわのポケットに、ハトロン紙の封筒が入っているのに気がついた。封筒の封は乱暴に破られており、なかみは写真らしかった。  私はいくらか罪業感をおぼえたが、すぐにそれを払いのけた。なかから写真をとりだしたとき、私は脳天からまっ|紅《か》にやけた|鉄《てつ》|串《ぐし》をぶちこまれるような、ショックをかんじずにはいられなかった。  ああ、なんと、それは三つ首塔の写真ではないか。  いつか堀井敬三に見せられた、あの写真とはちがっていた。しかし、そこにうつっている塔は、まぎれもなくおなじ塔である。  古坂史郎が三つ首塔の写真をもっている! ああ、あの男はたんなる女たらし、ゴールド・デイガーではなかったのだ。佐竹一族ではないけれど、なにかこんどの事件に大きな関係をもつ人物にちがいない。  私はいまにも心臓が、外へとびだすのではないかと思われるほどはげしい|動《どう》|悸《き》をおぼえた。私はわななく指でもう一枚の写真をとりあげたが、そのとたん、またしても恐ろしいショックに身をふるわせた。  そこには三つの首がうつっている。なにかしら、壇のようなもののうえに安置された三つの首……しかし、いつか堀井敬三からきいた言葉を思い出し、私はすぐにそれが木で彫られた首であることに気がついた。  まんなかにうつっているのが、三人のなかでいちばん年かさらしく、三十五、六というところだろう。このひとは頭にちょん|髷《まげ》をおいている。そして、その左右の首はいずれも二十五、六というところか、ふたりとも断髪していて、明治初年の書生風に、長い髪をバサバサさせている。  私は写真の裏をかえしてみて、ふたたびぎょっと呼吸をのんだ。そこには三つの首の|主《ぬし》の名が書いてある、右から佐竹玄蔵、武内|大《だい》|弐《じ》、|高《たか》|頭《とう》省三と……。  ああ、それでは中央のが玄蔵老人に殺された男で、左端のが大弐殺しのむじつの罪で|斬《ざん》|首《しゅ》されたという高頭省三、すなわち堀井敬三こと高頭五郎の先祖なのか。そういえばどこかあの男に似たところがある。  私はしばらく息づまる思いで、このまがまがしい写真を|視《み》つめていたが、ふと気がついて、三つ首塔の写真の裏をかえしてみた。  と、そのとたん、鋭い歓喜の|想《おも》いが私の|爪《つま》|先《さき》から脳天まで吹きあげた。ああ、そこには三つ首塔の所在が書いてあるではないか。その塔のほんとうの名前は|蓮《れん》|華《げ》供養塔というらしく、場所は|播州《ばんしゅう》らしかった。  久しぶりに堀井敬三と連絡がとれたやさき、塔の所在地がわかったということが、なにかしらわたしに明るい希望をもたせた。このことから私の運命がいくらかでも、ひらけていくのではあるまいか。  ただ、このとき私も気がついたのだが、その二葉の写真のうち、三つ首塔全景の写真のほうは、そうとう時代がついているらしく、画面もだいぶ変色しているのに、三つの首をうつした写真のほうは、まだそれほど古くなっていないということと、使用されたカメラもそれぞれちがっているらしいということである。  しかし、そのとき私はそのことに、それほど多くの関心を払わなかったのだが……。  そんなことより、二枚の写真をまえにして、あまり深い感動にうたれていたので、私は古坂史郎のことも堀井敬三のことも、いっとき忘れていたのだが、だしぬけに玄関のベルがみじかく鳴ったので、私は写真をそこへ投げだして玄関へ走った。史郎ならばベルを押すはずがない。 「あなた……?」 「|音《おと》|禰《ね》か?」 「ええ、あなた、はやく入ってきて」 「ああ、いますぐだ。|奴《やっこ》さんたちまだ?」 「ええ、でも、いつなんどきかえってくるかしれないわ。はやくして」 「よし」  しばらくガチャガチャと錠前をならしていたが、やがてカチッと音がすると、ドアがひらいて男がとびこんできたが、そのとたん、私は思わず眼を|視《み》|張《は》った。  それは堀井敬三でも山口明氏でもなく、またちがった男だった。しかも、その男は頭から|顎《あご》へかけて、ぐるぐる巻きに|繃《ほう》|帯《たい》をして左腕をつっている。そして、右手にスーツ・ケースを持っていた。 「音禰、音禰、おれだよ、おれだよ、さあ、キスしておくれ」 「ああ、あなたなの、あなただったのね。でも、その繃帯は……?」 「そのことはあとでゆっくり話をしよう。音禰!」 「あなた!」  私たちは久しぶりに相擁して、はげしく唇を吸いあった。そのあとで男は私の眼から涙を吸いとると、 「さあ、音禰、泣いてるばあいじゃないよ。そのスーツ・ケースのなかに|衣裳《いしょう》が入ってるから、大急ぎで支度をおし。そして、ヘレンの死体は……」 「むこうの居間よ」  ふたりは手をたずさえて居間へ走った。男がヘレンの死体をあらためているあいだに、私はスーツ・ケースを持って寝室へとびこみ、すばやくスーツを身につけはじめる。 「あなた。その|怪《け》|我《が》、どうなさいましたの」 「あの晩、宴会の晩のことだね。警官の手をのがれようとして、ビルの二階からとびおりたのはよかったが、うちどころが悪くて|昏《こん》|倒《とう》してしまったのさ。さいわい、ユリ子が気をきかして、亭主をあの近所へよこしておいてくれたので、それに助けられて、ほかへ避難したんだが、三日三晩、意識不明さ。しかも、やっと正気にかえったときにゃおまえのゆくえがわからない。おれゃ、どんなにやきもきしたかしれないぜ」  私はふかい感動に胸がふさがるようであった。このひとは片腕を折っている。片腕の|利《き》かない男が、両手でヘレンの|咽《の》|喉《ど》をしめることは出来ないだろう。したがって、ヘレン殺しに関するかぎりこの男は潔白である。そして、この一連の殺人事件がおなじ犯人の手で行なわれているとすれば、この男は犯人ではない……。      三つ首塔へ  身支度をおわって、タイツ一枚ほうりこんだスーツ・ケースをぶらさげた私が、寝室から居間へ出てくると、男はまだヘレンのそばにひざまずいていた。 「あなた、なにかあって」  私がドアを出てきたとき、男がなにやら急いでポケットへしまうのを見て、私は思わずそう|訊《たず》ねた。 「いいや、べつに……。支度が出来たら、さあいこう」 「ええ、ちょっと待って」  私は史郎のトランクから、さっきの写真をとりあげて、じぶんのスーツ・ケースへほうりこんだ。 「なんだい、それは……?」 「いいえ、あとでお話します。さあ、いきましょう。あのひとがかえってくるとやっかいだから」  フラットを出るとドアをしめ、ガチャガチャ錠をいじっていたが、やがてカチリと|鍵《かぎ》のかかる音がした。 「あっはっは、こうしておけば驚くぜ。鍵がかかっているのにおまえはいない。はて、|面《めん》|妖《よう》なというところだ」  こんな際にもおちついている男がたのもしく、私はその右腕にぶらさがるようにして階段をおりていった。  さいわい門を出るまで誰にも出会わず、門を出ると|大曲《おおまがり》のほうへ道をとったが、江戸川べりへ出ようとするところで、むこうへ自動車がきてとまった。男はそれをみると、私をかたわらの横町へひっぱりこんだ。  自動車のドアのしまる音がして、二、三人の足音がそそくさとこちらへちかよってくる。 「それじゃ、由香利ちゃんが電話をかけたとき、だれも出なかったというんだね」  それは史郎の声だったが、由香利ちゃんという名をきいたとき、私は|虫《むし》|酸《ず》の走るような嫌悪をおぼえた。 「ええ、でも、あれ、ひょっとすると、史郎ちゃんとその女が、かえってくるまえだったかもしれないわ」 「いいや、そんなことないよ。その時間ならぼくがとび出したあとになるはずだ」 「それじゃ、あのひと、|怖《こわ》くて電話口へ出れなかったのかもしれないわね」 「だけど、史郎ちゃん」  と、べつの太い男の声がした。 「史郎ちゃんはあの女をひっぱりこんで、どうするつもりだい、あの女とヘレンと、両手に花と抱いて寝る気かい」 「うっふっふ」 「うっふっふじゃないぜ。おまえの|凄《すご》|腕《うで》にゃおどろいてるよ。この由香利なんかも、もうちゃんと手なずけてるんだろ」 「あら、いやあよ。おとっつあん。そんなこといっちゃ……」 「あっはっは、いいじゃないか。似合いの夫婦だ。鬼の女房に鬼神といってな。だけど、由香利」 「なあに、おとっつあん」 「おまえ、史郎ちゃんと熱くなるのはいいが、このおとっつあんを|袖《そで》にしちゃいけねえぜ。おれはおまえたちの邪魔をしようたあ思わねえが、ときどきは、おれにもおこぼれをほどこしてもらいたいな。史郎ちゃん、おまえにもたのんどくぜ」 「ああ、いいとも、おとっつあん、三人仲よくしようよ、なあ、由香利」  かれらにしては小さな声で話しているつもりだろうが、しずかに|更《ふ》けわたった夜のこととて、かれらの会話が手にとるようにきこえるのだった。  ああ、史郎が呼びにいった仲間というのは、鬼頭庄七とその養女にして情婦なる佐竹由香利だったのだ。眼のよるところに玉がよるというが、なんと似つかわしい仲間ではないか。堀井敬三の腕にかけた私の|掌《てのひら》は、ぐっしょりと汗にぬれていた。 「どうだ、|音《おと》|禰《ね》、これで由香利という子の正体が、いよいよはっきりしてきたじゃないか」 「ええ……」  三人をやりすごしておいて江戸川べりへ出ると、大曲の少してまえに自動車がパークしてあった。運転台にならんで|坐《すわ》って、男がハンドルをまわしたとき、私の眼からあらためて熱い涙があふれてきた。  こうして|鶴巻町《つるまきちょう》の鶴巻食堂へおちつくと、その二階のふた間が、また私たちの情痴の世界となったのだ。私たちはヤミ屋の忘年会で、わかれわかれになって以来のことを話しあった。かれはまず私の身にまちがいのなかったことをよろこび、それからじぶんの話もしてくれたが、それはさきほどもちょっと書いておいたとおり、あの晩、かれは大|怪《け》|我《が》をして、それが活動をにぶらせていたのであった。  こうして無事を祝福しあったのち、私はひさしぶりで男の腕に抱かれて眠った。むろん、ものくるおしいまでに、はげしい抱擁があったことはいうまでもない。  その夜以来、私はこの食堂の二階にかくれ住むことになったのだが、そのうちに私はまた妙なことに気がついた。  この食堂のマダムはトミ子というのだが、彼女もまた|高《たか》|頭《とう》五郎にもてあそばれて捨てられた女であった。そして自暴自棄になっているところへあらわれたのが、ヤミ屋のボスの平林啓吉氏だった。平林啓吉氏はトミ子を救って、いまこの食堂を管理させている。それでいて、トミ子は平林氏を高頭五郎とは気がつかず、平林氏につかえること、ほとんど神につかえるごときものであった。  すべてが赤坂のギャレージのユリ子のばあいとおなじだった。と、するともう一軒のかくれ家にも、ユリ子とトミ子とおなじような境遇の女がいるのではないか。  ああ、この男はいったい善なのか、悪なのか。  それはさておき、私たちはそこで年を越した。堀井敬三の頭部ならびに左腕の負傷は、かなり重大なものだったが、それでも一月のおわりごろにはすっかり|恢《かい》|復《ふく》して、頭部の|繃《ほう》|帯《たい》もぜんぶとれた。  そのときになって、私ははじめて、かくしておいた三つ首塔の写真を出してみせた。あまりはやく出して見せて、体の完全でないこの男を、いらだたせてはならぬと思ったので、それまでかくしておいたのであった。  この写真の裏面に書かれている所書きを読んだとき、この男がいかに狂喜したことか。それはその夜の、気がくるったのではないかと思われるほどの、はげしい、|執《しつ》|拗《よう》な抱擁によってもうかがわれる。 「音禰、音禰、ありがとう。これでおれたちは救われるかもしれぬ」  そして、それから三日目の朝、すなわち二月一日の朝、私たちは三つ首塔めざして東京をたったのであった。      幼き日の思い出  私はとうとう、三つ首塔をはるかにのぞむ、たそがれ峠までたどりついた。  そのときの感慨は、この物語の冒頭にのべておいたとおりだが、さむざむとした|薄《うす》|鼠《ねず》色の森や林を背景として、にょっきりとそそりたつ、あのまがまがしい塔を望見したとき、私の心は|嵐《あらし》にあった小舟のように大きくゆすぶられた。ああ、私はいつかこの塔へきたことがある。母と、それから名もしらぬ老人につれられて……  はげしいキスと抱擁で、ようやく激情の嵐がおさまったとき、私たちはひとめをさけた枯れ草のうえに腰をおろして、しばらく放心したように三つ首塔をながめていた。 「|音《おと》|禰《ね》」  よほどしばらくたってから、男はやさしく私の耳にささやいた。 「思い出した? おまえはいつかこの塔へきたことがあるんだろ?」 「ええ」 「いつごろ?」 「五つか六つのじぶん」 「誰と……?」 「母と、それからどこの誰ともしらぬおじいさまと……」 「それが玄蔵老人だったんだね」 「そうかもしれません。でも母はとてもそのひとを恐れているようでした」 「それはそうだろう。人殺しをして逃亡中の犯人だからね。それで、この塔について何か思い出すことがある?」 「ええ、ただひとつ妙なことを……」 「妙なことってどんなこと?」 「ええ、それは……そのときのことはいまこうして、眼をつむっていても、ありありと|瞼《まぶた》のうらにうかんできます。それは塔のなかのどこかの部屋でした。母と老人がむかいあって|坐《すわ》っていて、母のそばにはあたしがちょこんと坐っているんです。そして、あたしたちの眼のまえには、|金《きん》|襴《らん》の表装をした巻き物がおいてあります。その巻き物はまだぜんぜん白地なんですが、老人がそれへあたしの手型を押せというんです」 「音禰はそれに手型をおしたんだね」  堀井敬三の声は、なぜか感動にふるえている。 「ええ。とても気味がわるかったんですけれど、母がおすようにといったもんですから……。朱肉でしたか墨汁でしたか忘れましたけれど、母があたしの|掌《てのひら》に塗ってくれました。あたしは両方の手型とそれから一本一本、十本の指の指紋をていねいにおしたのをおぼえています」 「音禰はいままで誰かに、その話をしたことがある?」 「いいえ、誰にも……けっしてこのことは誰にもいってはならぬと、くれぐれも母に注意されたものですから……。それに大きくなってからは、そのときのことが夢かまぼろしのように思えて、なんだか現実にあったこととは、思えなくなったものですから……」 「音禰はそのときお母さんといっしょに、わざわざ東京からこっちへきたんだね」 「たぶんそうだろうと思います。よくおぼえておりませんけれど……」 「そのときお父さんはどうしてたの。お母さんとおまえを玄蔵老人につけて出すのを、快くお許しになったの」 「そうそう、そのじぶん父は留守でした。ちょうど|支《し》|那《な》事変が起こった年で、父は応召していたんです」 「支那事変がおこったのは昭和十二年だから、おまえの六つのときのことだね。おまえは昭和七年十一月八日うまれだろう」 「ええ。よくご存じですわね」 「それじゃ、それ以上の記憶はむりだね」 「ええ。ただ手型をおしたというそのことだけ……それだけが鮮明な記憶となってのこっていて、前後のことはなにやら、濃い霧に閉ざされてるみたいで……」 「お母さんはおまえが十三のときにお亡くなりなすったんだろう。そのことについて、何か遺言のようなものは……?」 「いいえ。なんにも……母はあのとき、死ぬとは思っていなかったんじゃないでしょうか」 「ああ、そう、それから半年ほどのちに、お父さんが亡くなられたということだが、お父さんもなんにもおっしゃらなかった?」 「父はなんにもしらなかったんじゃないでしょうかね。父がしってれば上杉の|伯《お》|父《じ》さまに申し上げてるはずですから」 「お母さんはお父さんにも、内緒にしていられたんだね」 「そうじゃないかと思います。玄蔵というひとと母とのあいだに、何か約束があったとしても、あまりとりとめのない話ですし、それに玄蔵というひとの過去が過去でしょう。佐竹のうちではあのひとの名が、タブーになっていたようですから」 「音禰!」  だしぬけに私のほうをふりむいた男の|瞳《め》に、一種異様なかぎろいがうかんでいた。 「おまえ、そのことについてどう思うんだ。玄蔵老人がおまえの手型や指紋をとっておいたということ……」 「いまになって、あたしやっとあのことの、意味がわかるような気がします。指紋というものは人間一生かわらない。そして、おなじ指紋をもつ人間は、ぜったいにふたりといないときいております。だから後日になって、あたしの身もとがまぎらわしくなってはいけないと……。ねえ、そうじゃなかったんでしょうか」 「もちろん、そうだったんだろうよ。つまり玄蔵老人にとって意中のひと、宮本音禰の|贋《にせ》|物《もの》、替え玉があらわれちゃいけないという用心だったんだね。ところで、音禰」 「はい」 「おまえにたいして、それほど用心ぶかかった玄蔵老人が、もうひとりの意中の人物、|高《たか》|頭《とう》俊作にたいして、その用心を怠っただろうか。いや、高頭俊作もおまえとおなじようにあの塔へつれていかれて、両手の手型と十本の指の指紋を巻き物にとられたんだ。そして、その指紋をおした巻き物は、いまでもあの三つ首塔のどこかにあるんだ。われわれはなにがなんでも、その巻き物を手にいれなければならないんだ!」  男の語気がしだいにつよくなってきたかと思うと、かれはたかぶる感情をおさえかねたかのように、にわかに枯れ草のうえに立ちあがった。 「あなた、あなた、あなたはその巻き物をどうなさるおつもり?」  しかし、それにたいする男のこたえは、ただがむしゃらに私を抱きよせ、唇を吸うことだけだった。かれはまるでものに狂ったように、つよく私を胸に抱きよせ、もえるようなキスを私の唇にあびせかけた。  それからふたりは腕をくんで、もときた道へひきかえした。目的地へのりこむためには、慎重な偵察をおこなってからでないといけないという男の意見だった。      蓮華供養塔  さいわい、三つ首塔のある|黄《たそ》|昏《がれ》村から半里ほどはなれたところに、|鷺《さぎ》の湯という温泉場……と、いうよりひなびた湯治場があった。  そこはあたかも|播州《ばんしゅう》平野のはずれにあたっており、山陽線からはもちろんのこと、|姫《ひめ》|路《じ》から|津《つ》|山《やま》へぬける支線からもとおくはなれて、どの駅から自動車をとばしても、一時間以上もかかるというへんぴな山奥の一部落だった。  私たちは姫津線のある駅からバスに乗ったのだけれど、いけどもいけども山また山、こんな山奥にひとの住むところがあるのかと、都会そだちの私は、心細くてたまらなかったくらいである。  鷺の湯で旅装をといたとき、男は大阪のものだと名乗って、古橋啓一ならびにその妻達子と宿帳にしるした。そして、古橋啓一は洋画家の卵、妻の達子は女流作家志望というふれこみだった。  変装ならお手のものの男は、いかにも画家の卵らしい|風《ふう》|采《さい》をよそおうていたし、それにかれはたいへん上手な大阪弁を話した。私は私で、こみいった会話になるとだめだけれど、ひところ学校で、これはたぶん宝塚の生徒さんの影響なのだろう、大阪弁が流行したことがあるので、かんたんな言葉なら大阪弁を使うことが出来た。  こうして私たちは、かくべつ宿のひとたちから、疑いをうけることもなく、大阪出身の洋画家夫妻になりすましたのだが、男が洋画家という職業をえらんだのはよかったと思う。画家ならば三つ首塔の付近をうろついても、またその塔を写生してみようという希望をもったとしてもふしぎはない。  三つ首塔をはじめて望見してきた晩のこと、堀井敬三は夕食のお給仕にあらわれた女中をつかまえて、そろそろさぐりをいれていた。 「|姐《ねえ》ちゃん、あんたなんちゅう名前や」 「わたしお清いいます」 「ああ、お清ちゃんか。ええ名やな。ところでお清ちゃん、ここえろう静かなようやが、お客はんは、ほかにおらへんのか。いま農閑期やさかい、さぞこんどるやろ思てたんやけど、案外やな」 「へえ、こないだまで、相当こんでましたンです。それがそろそろ旧正月だっしゃろ。それでみなさん、いったん引きあげておしまいなはったんやが、お正月がすんだらまた……」 「どっと押しかけてくるのン?」 「どっとちゅうてもなあ、なにしろデフレで不景気だっしゃろ。昔みたいなことおまへん。大阪はどうだす、景気……?」 「あかんなあ、さっぱりやな。あっちイいてもこっちイいても、倒産や破産の話ばっかりやなあ。糸ヘンも金ヘンもなにもかも悪いねンさかい、どだい話にならヘンがな」  私はしずかに|箸《はし》をはこびながら、おかしさを|噛《か》み殺すのに苦労しなければならなかった。口から御飯粒をとばしながらしゃべっている堀井敬三は、どうみても粘りづよくてえげつない上方人だった。 「そやけど、|旦《だん》|那《な》はよろしなあ。きれいな奥さんとごいっしょに温泉場めぐり、絵を描かはりまンねンな」 「ああ、おやじがちょっと財産のこしてくれたもンやさかいにな。ぜいたくなことはあかンけど。なるべく金のかからんとこいこちゅうて、ここを探しだしたンや。それちゅうのがな、お清ちゃん、この奥さん、偉いンやぜ」 「奥さんがお偉いいうのは……?」 「この奥さん、小説書かはるンや」 「あら!」  私が思わずあかくなるのを、男はからかうようににやにやしながら、 「小説書くちゅうてもまだ卵やけどな。なかなか有望なンや。そいでどこか静かなとこいって、いま書きかけてる原稿書きあげたいちゅうので、それでここへきたンやがな。ぼくはまあお供みたいなもンや」  ああ、この男はしっていたのだ。私がこの記録を書きつづけていることを……。私がこれを書きはじめたのは、江戸川アパートから虎口を脱して、鶴巻町の鶴巻食堂の二階に、かくまわれるようになってからのことだった。頭や腕の負傷が|恢《かい》|復《ふく》にむかい、しだいに男の外出する日が多くなるにつけ、その留守のまのさびしさをまぎらわせるために、私はそこはかとなく、この恐ろしい事件の記録を書きつづり、げんにその原稿をこの宿にも持ってきている。出来ればそこで、いままで断片的に書きとめてきたことを、整理したいと思っていたのだが……男はそれをしっていたのだ。まさか読みはしなかったろうが、もし読んだとしたら、この男はどんな顔をするだろう。私はこの記録のなかで、この男を悪党と呼びつづけているのだから……。  しかし、女中はそんなことはしらないから、まあと眼を|視《み》|張《は》って、 「奥さん、どないな小説書かはりまンのン」 「それがな。お清ちゃん、ぼくにもわからンのや。奥さん、ぜったいに見させてくれヘンさかいな。だけどだいたいのことは見当ついとる。どうせぼくのことを、ボロクソに書いてあるのンにきまってるンや」 「あら。おっほっほ」 「おっほっほやあらヘンぜ。お清ちゃん。こっちゃは全身全霊をかたむけて、この奥さんにサービスしとるのンに。奥さんちゅうたらわいのことを、悪党や、悪党や、いやはンねン。どだいわりにあわン話や」 「あら、そんなこと……ねえ、奥さん」 「いや、その話はもうやめとこ。小説のこというとこの奥さん、恥ずかしがるさかいにな。ときにお清ちゃん。こんなへんぴなとこでも、ぼくらみたいにものずきな都会のお客さんが、ちょくちょくあることはあるンやろ」 「そうだすなあ。めったにおまヘンなあ」 「ちかごろどうや。もうひとつ|鶴《つる》の湯いうのンがあるやろ。あそこへ都会のお客さんきてえへん?」  男がさぐりをいれているのは、古坂史郎とその仲間のことである。三つ首塔の写真の紛失に気がついたら、古坂史郎がきっとこちらへ手をまわすにちがいないと、男はそれを警戒しているのである。 「さあ……ちかごろ町のほうからお客さんが来やはったという話は聞きまヘンな。どないしてだす」 「ううん。ぼくあしたからこのへん写生しよ思とるンやが、三脚立ててるとこ都会のもんにみられンのン、きまり悪いやないか。なんせヘボやさかいにな」 「あら、あんなこと……旦那、どっかお気にめしたとこおましたかいな」 「ああ、さっき奥さんと散歩してたら、へんな塔みたいなもンがあったな。あれ、なんやね」 「ああ、あの|蓮《れん》|華《げ》供養塔……」 「蓮華供養塔ちゅうのン、あれ……丘をバックにあの塔、描いてみたろ思てンねンけど、誰にも|叱《しか》られヘンやろな」 「それは誰も叱らしまヘンけど……」 「あの塔、誰か住んでるひとあるのン?」 「|法《ほう》|然《ねん》さんちゅうて五十五、六のお坊さんが、ひとりで住んではります。せんには若いお弟子さんがひとりいやはりましたけど、一年ほどまえ、どっかへいてしもて……」 「あの塔、なんかいわれでもあるのン。妙なとこに塔があるのンでびっくりした」 「町からきやはったかた、誰でもそないにおっしゃいますけど、昔、あそこお仕置き場だしたンやそうな。そら、このむこうに川崎ちゅう小ちゃな町がおますやろ。いまはもう鉄道線路からはずれてしもて、すっかりさびれてしまいましたけど、昔はあれが御城下町で、相当さかったもンやそうだす。明治になってからでも、このうえの鳥の巣山から銀が出るいうのンで、山師がどんどんいりこんできて、ひところはえろうさかったもンやそうです。それが銀山の話も夢になり、鉄道はあっちのほうへしけてしもうて、川崎もあないにさびれてしまいましたが、あそこが御城下町やったころ、いま蓮華供養塔のあるあたりがお仕置き場だしたンやな。それで昭和になってから、奇特なひとが金を出して、あそこへあのような供養塔をつくって、寺料として相当ひろい田畑をあてごうたンだすが、戦後の農地改革でその田畑もあらかたとられてしもたンで、法然さんも容易なこっちゃおまヘン。供養塔もあれるにまかせっきりだすし、それに一年ほどまえ、若いお弟子さんが逃げ出してから、法然さんもすっかり世をすねて……そやさかいに、写生しやはるのンはよろしますけど、法然さんの気にさからわンようにしやはらンとな。どだい、もう気むつかしいおっさんやさかいにな」  問わず語りにお清のかたる話につれて、どうやら三つ首塔の近況はつかめたようだ。      法然和尚  さて。  以上『蓮華供養塔』の章までが、この事件のあいまをぬうて書きつづけてきた記録を、鷺の湯の宿で整理しておいたものなのである。  そのとき、私は予感めいたものを持っていた。三つ首塔でなにか起こるのではないかという……。そして、じぶんの身にもしまちがいが起こったばあい、このあわれな宮本|音《おと》|禰《ね》なる女が、いかにして|顛《てん》|落《らく》の道をたどったかということを、だれかに知ってもらいたい願望から、できるだけ赤裸々に、じぶんの心境なども書きつづけてきた。つまり私は遺書のつもりでこれを書いておいたのだ。  それにもかかわらず、私はいまこうして生きている。そして、あの悪夢のような事件がすっかり終わったいま、私はふたたび筆をとって書きつづけていく。  ほんとのことをいうと、私はこれからさきのことを書きたくないのだ。私にこれを書けというのは、あまりにも残酷なことである。その残酷なことを私にしいるのは、ほかならぬ金田一耕助氏である。  金田一耕助氏は私にこういう。 「せっかくここまで書いてこられたものを、|尻《しり》きれとんぼでおよしになる手はありませんよ。それではあのひとにも悪いではありませんか」  金田一耕助氏にそういわれればそうなのだ。私はじぶんの不明をお|詫《わ》びするためにも、この記録を大団円までもっていかねばならない。だから私はともすれば、|沮《そ》|喪《そう》しそうになる勇気をふるいたたせて、この記録を書きつづけていく。  さて、私たちが鷺の湯へついた翌日は、さいわいとてもよい天気だったので、男は朝はやくから、三脚やカンバスをもって出かけていったが、出がけにかれはこういった。 「奥さん、あんたすまんけどな、弁当持ってきてくれヘンか。きょうはさいわい暖かいさかい、どこかの草っ原で、いっしょに弁当食べよやないか」 「はあ、あの、どっちゃへ持っていたらよろしいのン」  と、私もおぼつかない大阪弁で|訊《たず》ねた。そばにお清さんがいたからである。 「ああ、あの蓮華供養塔たらちゅう塔のちかくにいるさかいな。お清さん、すまんけどあんた奥さんつれてきてやってえな」 「へえ。よろしおま。ちょうどお|午《ひる》じぶんに、奥さんのお供して弁当もっていたげまほ」 「頼ンまっせ」  こうして男が出ていったあと、私は部屋へとじこもって『小説』を書きつづけた。そうすることによって、私は好奇にみちたお清さんの|鋭《えい》|鋒《ほう》をそらすと同時に、じぶんの『遺書』の整理にとりかかったのだ。  十一時すぎお清さんが弁当をもって誘いにきたので、私は原稿をスーツ・ケースにほうりこみ、|鍵《かぎ》をかけていっしょに出かけた。みちみちお清さんはうるさいほど、私たちの夫婦仲について質問する。画家の卵と|閨秀《けいしゅう》作家の卵というとりあわせが、大いにお清さんの好奇心をあおったらしい。  それにたいして私は出来るだけ、はにかみ屋の若奥様でいなければならなかった。はあとか、いいえとか以外に、あまり口数をきくと、私の大阪弁はボロを出すおそれがあったからである。  きのう男とふたりできた、たそがれ峠までくると、 「ああ、|旦《だん》|那《な》さん、あそこにいやはります」  と、お清さんがおしえてくれた。  なるほど、三つ首塔から百メートルほどはなれたところに画架をすえて、男はゆうゆうと絵筆をふるっている。そばには黒い衣をきた坊さんらしいのが、頭からもうろく|頭《ず》|巾《きん》のようなものをかぶって、|杖《つえ》をついて立っている。 「あのかた、どなた? |法《ほう》|然《ねん》はん?」 「さよだす、さよだす。法然はんがそばにいやはるとしたら、わて途中で失礼しまっさ」 「あら、どうして……?」 「わて、このあいだひどくあのひとをおこらしてしもて……そんなら奥さん、お弁当お渡ししまっさかいに」  弁当を私におしつけておいて、お清さんが逃げてかえったあと、私がひとりで男のほうへちかづいていくと、足音をきいてふたりがこちらをふりかえった。 「ああ、達子、御苦労さん、お清ちゃんはどないしやはったン?」 「お清ちゃんはそこまできて、かえっていきはりました」 「ふふむ、あのふんばりあまめ、わしが|怖《こわ》いんじゃろ」 「ああ、達子、このかたが法然さんや。ぼくすっかりおちかづきになったンや。法然さん、これがさっきお話した家内の達子だす」 「はじめまして……」  と、頭をさげる私の顔を、法然さんは年寄りの|臆《おく》|面《めん》なさで、まじまじと|視《み》つめながら、 「こらまあ、とほうもないべっぴんじゃ。これなら旦那さんがのろけるのもむりないわ。いや、失礼、わしが法然じゃ」  法然さんは年齢ににあわぬみずみずしい肌をしたひとで、白い|髯《ひげ》を胸までたらし、もうろく頭巾で|剃《そ》りこぼった頭をつつんでいた。 「法然さん、そないにひやかしたらあきまヘンがな。うちの奥さん、うぶだすさかいにな」 「いや、ごめん、ごめん、そらそうと奥さん、あんたの旦那さん、とても絵がお上手やな。こらご商売やで、いうまでもないことじゃが……」  法然さんの言葉に男のうしろへまわり、何気なくカンバスのうえに眼をやった私は、思わず|呼《い》|吸《き》をのんだ。  そこにはあの三つ首塔のおもかげが、あぶなげのないデッサンで出来かかっていた。      恐ろしき面影  私にはまたこの男がわからなくなる。  その日以来、男は毎日のように三つ首塔の付近へおもむいて、絵を描きつづけていたが、日をふるにしたがって、カンバスのうえにユトリロふうの、落ちついた風景画が出来あがるのをみて、私はなんとなく、胸騒ぎをおぼえずにはいられなかった。 「あなた、絵をお習いになりましたの」  こちらへきてから、二週間ほどたったある夜の寝物語に私が|訊《たず》ねると、 「いや、習ったというわけじゃないんだがね。絵を描くのは子供のときから好きで、ひところは絵描きになろうと思ったくらいだ」 「ユトリロがお好きなのね」 「あっはっは、そう見えるかね。なに、べつにユトリロを気取ってるわけじゃないが、冬枯れの風景を描くとユトリロになっちまうンだ。真夏の風景を描くとゴッホになったりしてね。あっはっは。それはそうと、|音《おと》|禰《ね》、おまえの小説はどうしたい」 「あたしの小説はひとまず完結いたしました。これからまた、どう発展するかしれませんけれど……」 「うむ、まだまだ発展するだろうね」  と、男はげんしゅくな声でいってから、きゅうに思い出したように、 「そうそう、音禰、|法《ほう》|然《ねん》さんがあした三つ首塔を見せてやろうというのだ。奥さんもつれておいでといってたから、おまえもいっしょにいこうよ」  それを聞くとなぜかしら、私の胸はギクリとふるえた。 「それじゃ、いよいよなかへ入れるんですの」 「ああ、気むずかしいじいさんでね、御機嫌をとりむすぶのに二週間かかったよ」 「あなた、あなたには巻き物のありかがおわかりですの」 「いや、それはわからない。だからおまえもせいぜい、法然さんの御機嫌をとりむすんで、出来るだけおれが自由に、あの塔へ出入りが出来るようにしておくれ。いいかい」 「はい」 「それにしても妙だな。法然さんの口うらをさぐってみても、古坂史郎が手をうってるようでもない。あいつあの写真がなくなってるのに、まだ気がつかないのかな」 「あなた、あのひとそれに気がついたら、こっちのほうへ手をまわすとお思いになって?」 「それはもちろん、ひとすじ|縄《なわ》でいくやつじゃなさそうだからね」 「いったいあのひとどういうんですの。佐竹の一族じゃないんでしょ。それにどうしてあの塔の写真持ってるのかしら」 「いや、それも、塔の内部をみせてもらえばわかるんじゃないかな。それまでは返事を保留しとこう」  その翌日の昼すぎのこと、私は男につれられて、三つ首塔へ出むいていった。塔の外には法然さんが例によって、もうろく|頭《ず》|巾《きん》で頭をくるんで待っていた。  しばらくつづいたお天気が、下り坂になってきたらしく、いんきな曇り空の、いやに底冷えのする日だった。 「法然さん。なんやえろう冷えまンな」 「ほんまにな。こら久しぶりできついことや。奥さん、ようこそ、ほんならご案内しまほ」  なるほど、終戦後手入れをおこたった塔の内部は、古くちた|匂《にお》いが立てこめていて、そうでなくとも採光のよくない建物の、おりからの曇り空のこととて、いっそういんきで薄気味悪かった。 「こらいかん。ちょっと待って。いま|灯《あか》りを持ってくるでな」  法然さんは塔の裏側の方丈に住んでいるらしく、まもなく|蝋《ろう》|燭《そく》をともした古風な|手燭《てしょく》をもってきた。 「あっはっは、こらいかにも古塔の見物らしく、気分が出てよろしいな」 「なにせ、御内陣は暗いさかいな。さあ、|旦《だん》|那《な》さんも奥さんもこっちへおいで。まず御内陣から案内しよ」  靴をぬいであがると、靴下の裏に板の間のつめたさが身にしみる。きざはしのついた廊下をわたって、|蔀《しとみ》の外をとおっていくと、十二畳ばかりの畳をしいた暗い部屋のいっぽうに、|牢《ろう》格子のような格子があって、そのおくにお燈明の|灯《ひ》がちらちらしている。 「ここが御内陣じゃ。あんたがたはご存じかどうかしらんが、この御内陣のなかに三つの首がまつってあるんじゃ」 「三つの首?……」  と、男はわざと|呼《い》|吸《き》をのんで、 「|和尚《おしょう》さん、おどかしたらあかんがな。ここには気の弱いご婦人がおるんやさかい」 「あっはっは。こら、ごめん、ごめん、なに、首ちゅうたかて、ほんものの首やありゃせん。木で彫った木彫りの首じゃがな」 「そんならええけど……だしぬけに首やなんていうもんやさかい。男のぼくかてぎっくりしたがな。なんで、また、そんなもんがまつっておますのや」 「そのわけはあとから話そ。そんなことからこの塔のことを一名三つ首塔というそうな。さあ、入ってみよ」  ガチャガチャと|鍵《かぎ》を鳴らして、大きな|南京錠《ナンキンじょう》をはずすと、法然さんはみずからさきにたって、内陣のなかへ入っていく。男はためらい気味な私をうながして、じぶんも格子をくぐっていく。私もしかたなしにあとにつづいた。  三方の壁にとりかこまれた内陣のなかは、格子の外よりはいっそう暗く、おたがいの顔がうすぼんやりと見える程度である。三つの燈明皿に|燈《とう》|芯《しん》がジリジリ、音をたてながら燃えているのが、魂をどこかへひきずりこんでいくような|侘《わび》しさである。私は思わず肩をすぼめる。 「ほら、見なされ。あれが三つ首様じゃ」  法然さんがかかげた燭台の光にうかびあがったのは、てらてらと黒光りするような三つの木像の首である。それは史郎のスーツ・ケースから発見した、写真とおなじ順序にならんでいる。右から佐竹玄蔵、武内|大《だい》|弐《じ》、それから|高《たか》|頭《とう》省三と……。  写真よりはいっそうなまなましく迫ってくる実感に、私は思わず鬼気をおぼえたが、そのとき男が私の耳に口をよせてささやいた。 「ちょっと……まんなかの首をよくみてごらん、だれかに似てやあしないかね?」  そういわれて武内大弐の顔をつくづく|視《み》なおしているうちに、私はとつぜん全身に電流をとおされたようなショックをかんじた。  写真だけではよくわからなかったけれど、こうして実物に接してみると、なんとそれは古坂史郎に似ているではないか。      青銅の蛇 「古橋さん、なにかおっしゃったかな」  |法《ほう》|然《ねん》さんは|手燭《てしょく》をかかげて、男の顔を視あげてたずねる。 「いや、べつに……」  と、さすがに剛胆な男もこのあきらかな啓示には、いささか動揺しているらしく、声が|咽《の》|喉《ど》にひっかかった。 「つまりじゃな。この右にいる佐竹玄蔵という男が、まんなかの武内大弐を殺したんじゃな。原因はなんでも、銀山のことじゃと聞いている」  法然さんは手燭を壇のうえにおくと、ひくい声でボソボソ話しはじめるのである。 「なんでも佐竹玄蔵というのは、相当金持ちの坊っちゃんだったそうなが、山師の大弐にいっぱい食わされ、親友の高頭省三というものと共同出資で、出もせぬ銀を掘っているうちに、とうとう身代を棒にふってしもうたげな。そこで、大弐の詐欺にひっかかったと気がついた玄蔵が、怒りのあまり日本刀をふるって|斬《き》りつけたところが、大弐の首がころりと落ちたそうな。年はわかいが佐竹玄蔵、相当出来る腕だったんじゃな」  法然さんはそれからまた言葉をついで、 「ところが下手人の玄蔵は、そのまま逐電してしもうて、いまもって行く方がわからない。たぶん外国へ逃げたんじゃろうといわれているが、さて、大弐殺しの罪じゃ。それがどういう風の吹きまわしか、共同出資者の高頭省三にふりかかってきた。省三もおなじく詐欺の被害者じゃで、大弐を憎むことひとかたならず、それにこの男も腕がたつときている。それになんでもそのころの、このへんの政治情勢が、なんでもかんでも大弐殺しの下手人をとらえて、断罪せねばならんような破目になっていたんじゃな。そこで省三はうむをもいわさず捕えられ、きびしい拷問のあげく、身におぼえのない罪を白状さされ、とうとう打ち首になってしもうたんじゃ。その打ち首になったお仕置き場というのがすなわちここで、それから古橋さんや、あんたがいま立っていなさるところが、ちょうど首洗い井戸のまうえに当たっているそうな」 「えッー」  と、さけんで男が気味悪そうにとびのこうとしたときだ。 「えっへっへ、もうおそいわえ」  と、壇にもたれていた法然|和尚《おしょう》が、うしろ手にガチャガチャ、鎖を鳴らす音をさせたかと思うと、 「あ、あ、あ、あア!」  と、いう悲鳴をあとにのこして、男のすがたはもう私の眼前から消えていた。  文字どおりそれはあっというまの出来事で、私は一瞬、なにが起こったのかわけがわからず、|茫《ぼう》|然《ぜん》として|足《あし》|下《もと》にあいた四角な穴を|視《み》つめていたが、つぎの瞬間、私は気がくるったように穴のふちに|這《は》っていた。まっくらな穴の底の遠くのほうで、なにかが裂けるような音がしたかと思うと、つづいてどさりと鈍い音。それきりあとは物音もなく、つめたい風が|錐《きり》でもみこむように吹きあげてくる。 「あなた……ああ……あなた……」  私は悲しい声をふりしぼった。男をうしなう絶望的な悲しみが、私にすべてを忘れさせた。恐怖も、じぶんの身に迫るのであろう危険のことも。 「あなた……あなた……」  そういう私を法然和尚が、がっきりうしろから抱きとめた。 「おっと、奥さん、おまえはとびこんじゃいけない」  この男がいったい誰なのか、私はそれを考えてみようともしなかった。この男がたとえなにびとであろうとも、男がおとし穴のなかへ|顛《てん》|落《らく》していった事実にかわりはない。そして、まっ暗なおとし穴の底で、男の命の根はありやなしや。 「あなた……、あなた……、大丈夫……?」  おとし穴のふちにしがみついて、私が悲しい声をふりしぼっているとき、 「あっ、その女をとびこますな!」  と、うしろのほうで聞きおぼえのある男の声。ぎょっとしてふりかえった私はそこに絶望的な影を見た。  格子の外からにやにやこちらを見ているのは、なんと古坂史郎と由香利ではないか。由香利の背後に鬼頭庄七もいる。ああ、やっぱり男が恐れていたように、古坂史郎の手はのびていたのだ。 「史郎ちゃん、あんたまだあの女に未練があるの? 和尚さん、いいからそいつも突きおとしておしまいよう」  ああ、これが|可《か》|憐《れん》な由香利の口から出た言葉なのだ。 「だめだよ、だめだよ、そんなことしちゃ……和尚さん、その女を殺しちゃだめだよ」  古坂史郎がそそくさと、格子のなかへ入ってこようとするのを、由香利が腕をとってひきもどし、 「うっふっふ、たいへんな御執心ねえ。だけどそうはさせないわよ。和尚さん、なにをぐずぐずしてるのよう。その女はあんたの恋がたきなのよう。はやく突きおとしておしまいったら!」  由香利はへんなことをいったが、私にはなんのことだかわからなかった。しかし、私を|羽《は》|交《が》いじめにしていた法然和尚は、それを聞くと一瞬はっとしたらしく、私を抱きしめた腕から力がぬけた。私はその腕をふりほどくと、 「あなたあ!」  ひと声さけんで身をおどらせると、まっ暗な穴のなかへとびこんだ……。  それからどのくらいたったのか、|灼《や》けつくようなキスの雨と、 「|音《おと》|禰《ね》……音禰……」  と、暗がりのなかからささやく声に、ふと意識をとりもどした私は、たくましい男の腕に抱きしめられているじぶんに気がついて、 「ああ、あなたでしたの、あなたでしたの」 「ああ、おれだよ、音禰、おれだよ」 「あなた、あなた」  暗がりのなかで私たちは気がくるったように抱きあった。これ以上、体と体がふれあうことが出来ないほども、力いっぱい抱きあった。そして、それがどんな場所であろうとも、この男といっしょにいるということが、いかに幸福だかということを、しみじみ私は味わった。男はいとしげに、私の頭をなでながら、 「音禰、おまえどこか|怪《け》|我《が》している?」 「いいえ、べつに……どこにも痛みはないようよ」 「そうか、それはよかった、おれがうまくうけとめたんだね、音禰、おまえもあの坊主につきおとされたの」 「いいえ、あたしはじぶんでとびこんだの。あんなやつにおもちゃにされるくらいなら、あなたといっしょに死にたかったの」 「あんなやつって?」 「古坂史郎と佐竹由香利……それから鬼頭庄七もいたわ。ああ、あなた、怪我してらっしゃるんじゃない?」  私は|掌《てのひら》にぬらぬらするものをかんじて、思わず男の体から身をひいた。 「うん。落ちるときおれはなにかにつかまったんだ。それが折れるかどうかして、またそこから落ちたんだが、そのとき左肩に|鍵《かぎ》|裂《ざ》きをこさえたらしい。大したことないけど……」 「だめよ、こんなにどんどん血が出てるんですもの。いいわ、ネッカチーフでしばってあげるわ。あなたマッチ持ってない?」 「ああ、そうそう、オーバーのポケットに懐中電灯をいれてきたんだが……」  さぐってみると懐中電灯が見つかった。こころみにボタンを押すと、うれしやボーッと灯がついた。 「あなた、上衣をおぬぎになって……」 「うん、よし」  上衣をぬぐとワイシャツが、ぐっしょりと血にぬれている。そのワイシャツをはんぶんぬがすと、たくましい左腕に幅のひろい青銅の腕輪がはまっている。それは蛇がとぐろをまいている形になっているのだが、この腕輪ばかりはいついかなるばあいでも、男はけっしてとろうとせず、私にもさわらせもしなかった。 「あなた。だめよ、この腕輪をはずさなきゃ……」 「いいよ、音禰、はずしても。でもそのまえにキスをしておくれ」  男の|瞳《め》がやさしくわらっている。私は男のその両眼と唇にキスをして、それからそっと腕輪をはずした。肩から流れ出る|血《ち》|汐《しお》が腕輪の下をぐっしょり染めている。  私はその血をネッカチーフでぬぐいとって、そして、そこに見たのである。 [#ここから3字下げ] お と ね しゅんさく [#ここで字下げ終わり]  と、いう|刺《いれ》|青《ずみ》を……。[#htmlコメントから推測すると、二人の名前は相合い傘の中に書かれてるらしい]      井戸の底にて  男の左腕に、おとね、しゅんさくの刺青を発見したときの私の驚き!  私はこれとおなじ刺青を、国際ホテルで殺された男の左腕に見たことがある。それとおなじ刺青が、この男の左腕にあるというのは、いったいどういうことだろう。  ああ、わかった。この男はひょっとすると、殺されたいとこの身代わりとなって、じぶんと結婚し、そして、あの|莫《ばく》|大《だい》な遺産を横領しようというのではないか。いやいや、しかし、そんなことは不可能なのだ。|高《たか》|頭《とう》俊作が殺されたということは、黒川弁護士もよくしっている。いまさら替え玉などつとまる道理がない。それにこの男の自信にみちた、やさしい|眼《まな》|差《ざ》し……。  私は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、その刺青と男の顔を見くらべていた。私の頭のなかを百千の火花が乱れて散った。 「あなた……」  と、私は大きく|呼《い》|吸《き》をうちへひいて、 「この刺青、どうしたんですの」  だが、そのとたん、 「危ない!」  と、叫んだ男が、たくましい腕でいきなり私を抱きよせた。と、そのとたん、どしいんと重い音をたてて、|沢《たく》|庵《あん》石のような大きな石が、私の背後におちてきた。 「|音《おと》|禰《ね》、懐中電灯をお消し」  ああ、そうなのか。懐中電灯の光をめがけて、沢庵石を投げおろしたのか。私はあわてて灯を消すと、|暗《くら》|闇《やみ》のなかで男の胸にむしゃぶりついた。  大きな石ころはあとふたつ三つ、つづけさまに落ちてきたが、さいわい、井戸の底には横に大きなくぼみがあって、私が気をうしなっているあいだに、男がそこへひっぱりこんでくれていたので、うえから投げおろす沢庵石も、私たちを押しつぶすことは出来なかった。それでも、暗闇のなかで石と石とがぶつかって、はねっかえる音をきくと、わたしは背筋がいたくなり、男の胸にむしゃぶりついた全身から、つめたい汗がぐっしょり流れた。  大きな石はつづけさまに三つ四つ落下してきたが、それがやむと、うえのほうでパターンとふたをするような物音。悪人たちが井戸のふたをしたのだろう。  男は私を抱いたまま、|膝《ひざ》をずらせて井戸のうえをのぞいていたが、 「音禰、もう大丈夫だ。とにかく傷の手当てをしておくれ」 「あなた、懐中電灯をつけてもよくって?」 「ああ、もういいよ」  懐中電灯をつけてみると、大きな石が五つ六つころがっている。 「危ないところだったね」  こんな際にも自若として、|皓《しろ》い歯を出してわらっている、この男のたのもしさが、このときほど強く私の胸に迫ってきたことはない。  私は手ばやく傷口をしばりながら、 「あなた」  と、おそるおそる相手の顔を見あげた。 「この刺青はどうしたんですの」 「ああ、それはいま話そう。ありがとう。手当てがすんだら懐中電灯は消しておおき。暗がりのなかでも話は出来るし、電池をだいじにしなきゃあならないからね。さあ、こっちへおいで、抱っこしてあげよう」 「ええ」  男は私を膝のうえに抱きあげると、やさしく髪をなでながら、 「音禰、おまえはいままで気がつかなかった?」 「気がつかなかったってなんのこと?」 「おれがほんものの高頭俊作だってこと……」  男はできるだけさりげなく切りだしてくれたものの、この一言ほど私の魂をゆすぶったものはない。息の根がとまるかと思われた。あまりの驚きにしばらくは口をきくことも出来なかった。 「音禰、音禰」  と、男は力強く私を抱きしめて、 「なぜ黙ってるの。どうしてなんとか言ってくれないの」 「あなた、あなた」  と、惑乱した私はなんと言ってよいかわからず、 「それじゃ国際ホテルで殺されたあのひとは……」 「あれはおれのいとこで高頭五郎だ。|叔《お》|父《じ》の|悪《わる》|企《だく》みでおれは小さいときに、いとこと名前も身分もすりかえられたのだ。だが、そのことはいずれあとでくわしく話そう。そのまえにぜひとも、しっておいてもらいたいことがある。おれのいうことを信じてくれるだろうね」 「はい。……」  私はせぐりあげそうになるのをやっとこらえた。 「ありがとう。おれはね、おまえが考えてるほど悪党じゃないんだ。それゃヤミ商売やなんかに手を出してたから、いろんな方面に顔がきいてるがね。それに、音禰」 「はい」 「おれはおまえよりほかに女は|識《し》らない。おれにとっちゃおまえが最初の女だし、また、ただひとりの女なんだ。そのことを信じてくれなきゃあいやだぜ」 「あなた。……」  私の眼からいつか涙があふれてくる。涙はシャツをとおして、男の胸までしみとおった。  男はやさしく私の頭をなでながら、 「だが、こういうと、赤坂のユリ子や、鶴巻食堂のトミ子はどういうんだというだろうが……」 「いいえ。わかったわ。あのひとたちを|弄《もてあそ》んだのは、あなたのいとこだったのね」 「ああ、音禰、おまえはわかってくれたんだね。いとこは悪いやつだった。ふだんは俊作でとおしながら、悪いことをするときだけは、本名の五郎を名のるんだ。その|尻《しり》ぬぐいをおれがしてやってたんだ」 「あなた、すみません。どうしてあたし、いままでそれに気がつかなかったんでしょう」  私の眼からあとからあとから涙が|溢《あふ》れてくる。だが、その涙がながく私を苦しめていた、心のしこりを溶かしてくれる。 「でも、あなたはどうしてそれをあたしに、言ってくださらなかったの」 「ごめん、ごめん、でも、音禰、だれだって殺されるのはいやだろう」 「殺されるって……?」 「そうだよ。おれのいとこをごらん。高頭俊作と名のって顔を出すやいなや殺されたじゃないか。しかも、そいつはひと晩に、三人の男女を血祭りにあげながら、|尻尾《し っ ぽ》ひとつ出さぬ|凄《すご》いやつだ。そういうやつが高頭俊作の存在をよろこばないとすれば、殺されたのは俊作ではなかった、あれは俊作のいとこの五郎で、ほんものの俊作はじぶんであると名のって出てみろ。いつかきっと|狙《ねら》われる。おれはそんなに|卑怯《ひきょう》者でも、|臆病《おくびょう》者でもないけれど、|闇《やみ》|夜《よ》の|礫《つぶて》はふせぎにくいのたとえもある。犯人がわからないだけに、狙われたら防ぐ手がない。だから当分、第三者としてかくれていようと決心したんだ。だけど、そうなると心配なのは、音禰、おまえのことだった。わかる? おれの気持ち……」      嬉しい暴露  私は体が熱くなり息がはずんだ。  男の腕にだかれて私は身も心もとろけそうだった。ああ、このひとは悪党ではなかったのだ。このひとこそ、いつか黒川弁護士から写真をみせられて、ゆえしらぬ胸のときめきをおぼえたあの少年だったのだ。いままでどうしてそれに気がつかなかったのだろう。  しかし、私は女である。そして女というものはとかく策の多いものなのだ。身も心もとろけそうな幸福感にひたりながら、しかもなお、私は空とぼけることを忘れなかった。 「わかるって、どんなこと?」 「あっはっは、|狡《ずる》いやつ、わかってるくせに」  と、男は強く私を抱きしめ|頬《ほお》ずりしながら、 「おれはな、国際ホテルの廊下であったとき、すぐおまえだとわかったんだ。黒川さんのとこで働いていたから、せんからおまえをしってたんだが、あの晩のおまえのうつくしさに、おれは|眩《げん》|惑《わく》されてしまった。しかも、あのときおまえはおれのうしろ姿を見送っていた。音禰、おまえは黒川さんから、おれの幼時の写真をみせられたんだろう。あのときおまえは、潜在意識のなかにあるあの写真の面影を、おれのなかに見出したんじゃなかったの」  ああ、そうだったのだ。それが私にあんなはしたないまねをさせたのだ。しかし、そのことだって、いまになってみればうれしいことなのだと、私は男の胸のなかでうなずいた。 「そのこと……おまえが見送っていてくれたってことが、怪しくおれの胸をかきむしった。しかも、そのあとでおれはたいへんなことに気がついた」 「たいへんなことって……?」 「|高《たか》|頭《とう》俊作が死んだってこと。あれはにせものだったけど、高頭俊作と信じられている男が死んだとなると、おまえはその男との結婚から解放される。高頭俊作が死んだとすると、遺言状がどう変更されるのかわからなかったけれど、とにかくおまえはうつくしい。しかも、おまえは学校もおわり、結婚適齢期へきている。いつなんどきほかから縁談がないともかぎらぬ。それをかんがえるとおれは胸がかきむしられそうだった。おれはぜったいに、おまえをだれにもわたしたくなかった。なにがなんでも、じぶんのものにしておこうと決心したんだ。それでああいう非常手段に出たんだが、おまえあのときのことをおこってる?」 「知らない!」  私はめちゃめちゃに男の胸に顔をおしつけ、駄々っ児のようにいやいやをする。私の体はまた熱くなり、おさえようとしても息がはずんでくる。 「おまえあのとき、案外たやすくおれに許してくれたじゃないか」 「知らない! 知らない! 意地悪!」  私は|拳《こぶし》をかためて男の胸をたたきながら、しかも身も心もしびれるような幸福感が、からだのなかにみちあふれるのを感じた。ああ、私は間違った男に許したのではなかったのだ。許すべき男に許したのだ。 「それじゃ、もうあのときのことおこっちゃいないね」 「あなた……あたしうれしいのよ」 「ありがとうよ、音禰」  男は汗ばんだ私の額から髪をかきあげ、やさしく口づけをすると、 「われわれはふうがわりな結ばれかたをしたけれど、当然、結ばれるべきふたりだったってこと、よく知っててくれなきゃいけないよ」 「あなた」 「うん?」 「あたしうれしいのよ。ユリ子さんもトミ子さんも、あなたとはなんでもなかったのね」 「音禰、おれは断言する。神に誓ってもいい。おれはおまえよりほかに女はしらない。だけど、音禰、おまえこそ大丈夫だったんだろうね」 「大丈夫だったとは?」 「志賀雷蔵や古坂史郎とさ」 「知らない!」  私は|拗《す》ねて身をひこうとしたけれど、男は強く抱きしめてはなさなかった。 「ごめん、ごめん、だって音禰、ヤミ屋の忘年会でおまえを見うしなってからの何日間か、おれ、地獄の苦しみを|味《あじわ》わされたんだぜ」 「あなた、信じて。あのひとたちに指一本でもさされたら、あたしこんなにうれしく、あなたに抱かれていることは出来なくってよ」  |暗《くら》|闇《やみ》のなかで私たちははげしく唇を吸いあった。ながいながいあいだそうしていた。  しばらくして私は甘えるように男に|訊《たず》ねる。 「でも、あなた。あなたが俊作……だってこと、どうしてもっとはやく、あたしにしらせてくださらなかったの。あたし誰にもしゃべりゃしなかったのに」 「だけどね、音禰、おまえが素直に信じてくれたかどうか。おれにはじぶんが俊作であるという、身のあかしになるようなものはひとつもなかった。|叔《お》|父《じ》はおれが将来、|莫《ばく》|大《だい》な遺産の相続者になりそうなことを|嗅《か》ぎつけたんだね。それでじぶんの|倅《せがれ》の五郎に、おれの左腕にあるのとおなじような|刺《いれ》|青《ずみ》をし、非常に巧妙におれと五郎の身分をすりかえたんだ。おれは小さいとき両親をうしない、叔父の世話になっていたから、叔父の命令ならなんでも|肯《き》かねばならなかった。叔父はおれと五郎のふたりをかかえて、うまれ故郷の|倉《くら》|敷《しき》から大阪へ居をうつした。それ以来、おれは五郎、いとこが俊作でとおしてきたのだ。だから、おれこそほんものの俊作であるということを、証明してくれるひとはひとりもない。ただひとつの証拠のほかには……」 「ただ、ひとつの証拠って……?」 「手型だ、指紋だ。音禰、このあいだもおまえに話をしたろう。高頭俊作もこの塔へつれてこられて、手型や指紋をとられたってこと……」 「ああ、あなた、それじゃあなたも……」 「そうだ。おれがこの塔へつれてこられたのは、おまえよりあとだったにちがいない。いつかおまえが話してくれたように、おれも眼をつむれば思い出す。明るい方丈のなかにおれと玄蔵老人が|坐《すわ》っていた。そのころ玄蔵老人は八十ちかい年だったろう。白髪をながくのばし、ひげを胸まで垂らして、洋服の|膝《ひざ》をきちんと折って坐っていた。おれは十か十一くらいの金ボタンの学生服だ。そして、ふたりのまえにひろげられた|金《きん》|襴《らん》の巻き物には、|紅葉《もみじ》のようにかわいい手型がふたつ、その周囲には十本の指紋がひとつずつ押してあった。そのあとへ、おれにも両手の手型と指紋をおせと老人はいった。そして、幼稚園ぐらいのかわいい女の子の写真をみせて、ここへ手型をおしておけば、ゆくゆくこのかわいい女の子がおまえのお嫁さんになって、ふたりは大金持ちになれると老人はいうのだ。そのころおれはまだ子供だったから、財産のことなんかどうでもよかったけれど、その女の子の写真がかわいくてたまらなかった。子供ごころにもこんなかわいい女の子を、お嫁さんに出来るならと思って、おれはよろこんで手型と指紋を押したんだ。そのときおれは老人に女の子の名前をきいた。それで老人がおしえてくれたんだ。宮本音禰と……」  男はそこでひと呼吸すると、 「それにもかかわらず、おれにこの三つ首塔のありかがわからなかったというのは、おれは倉敷から自動車で、ここまで連れてこられたのだが、みちみちズーッと目かくしをされていたんだ。おそらく玄蔵老人は叔父を警戒したのだろうがね」      悪 霊 「あなた、そして、その巻き物というのがこの塔のなかにあるのね」 「ああ、あるはずなんだ。そのとき老人はこういった。この巻き物はたいせつに、この塔のなかへかくしておくが、いつかこれがおまえの役に立つだろうと……。老人はそのときすでに替え玉が、あらわれやあしないかってことを、|懼《おそ》れていたんだろうね」 「そして、その巻き物さえ手にはいれば、あなたが|高《たか》|頭《とう》俊作だってことを証明出来るわけだわね」 「そうだ。指紋ほどたしかな身分証明書はないからね。そこにはちゃんと老人が『高頭俊作の手型と指紋』と書きいれたし、しかもおなじ巻き物のおなじ紙のうえに、おまえの手型と指紋が押してあるんだ。これほどたしかな証拠はあるまい」  ああ、このひとが高頭俊作なら、このひとは誰ひとり殺す必要はないではないか。かくされた巻き物を手にいれて、じぶんが高頭俊作であることを証明したうえ、私と結婚すれば、玄蔵老人の遺産を相続することが出来るのだ。なにを好んで血を流そう。なにを好んでひとを殺そう。  そのことがこのうえもなく私を安心させ喜ばせた。私はいままであまりにも、おびただしい血の海をわたってきたし、またときにはどうかすると、このひとを疑ったこともあるのだから。  私は快い|揺《ゆ》り|籠《かご》のように、男の|膝《ひざ》に身をまかせていたが、とつぜん恐ろしい不安が、腹の底からこみあげてきた。 「あなた、でも、その巻き物を古坂史郎が、どうかしやあしないでしょうか」 「|音《おと》|禰《ね》、そのことなら、おれも考えているんだが、史郎が巻き物のことをしってるはずはないと思うんだ」 「でも、あのひと、武内|大《だい》|弐《じ》の……」 「うん、子孫にゃちがいないね。さっき見た大弐の木像と、史郎のいちじるしい相似からみてもね。古坂史郎はきっと武内|潤伍《じゅんご》の|倅《せがれ》にちがいない」 「武内潤伍ってのは玄蔵おじいさまが、アメリカへつれてって相続人にしようとしたひとね」 「そうだ、玄蔵老人は昔の罪ほろぼしに、じぶんの手にかけた男の子孫に、財産をゆずろうと思ったんだろうが、潤伍が|箸《はし》にも棒にもかからぬ人物だったので、手切れ金をくれてやって日本へ追いかえしたって、いつか黒川さんが話していたね。それが昭和五年のことだというんだから、潤伍が日本へかえってきて、結婚して子供をつくったとしても、ちょうど古坂史郎くらいの年齢になる。ところが、おれやおまえが玄蔵老人に、手型や指紋をとられたのは、昭和十二年のことだから、潤伍と縁をきってから、七年ものちのことになる。愛想をつかして縁をきった男に、老人がこんなたいせつなことを打ち明けるはずはない。たとえ内地へかえってきて、潤伍にあったとしても……と、すると、潤伍のしらぬことを、倅の史郎がしっているとは思えないね」 「そうおっしゃればそうねえ」  私もいくらかほっとした。 「だけど、古坂史郎が三つ首塔の写真をもってたところをみると、あれはおやじの潤伍が撮影したものにちがいない。潤伍は玄蔵老人が日本へかえってきて、この供養塔を建てたことをしってたんだろう。あるいは老人にあって、遺産問題のことも聞いたかもしれない。そこでその倅の史郎が、おやじの志をついで、佐竹の子孫に接触していったんじゃないかな。おやじの場合は|復讐《ふくしゅう》心だったんだろうが、倅の場合は色と欲とのふた筋みちというわけだろう」 「じゃ、武内潤伍というひとは……?」 「もう死んでるんじゃないか。いままでいちどもそれらしい人物が、顔を出していないところをみるとね。三年ほどまえ、玄蔵老人のところへ脅迫状がいったというが、その後死亡したか、それとも、倅の史郎がおやじの名前を使ったのか……しかし、そのことは問題じゃないね。潤伍は死亡したとしても、潤伍の意志というか悪霊というか、それは史郎の魂のなかに生きているんだから。ひょっとすると潤伍そのものより、史郎のほうがすごいのかもしれないしね」  私はまったくそうだと思った。いつか江戸川アパートで、|剃《かみ》|刀《そり》片手に迫ってきた、史郎の顔は人間とは思われなかった。 「あなた、するとこんどの殺人事件は、みんな史郎のしわざなんでしょうか」 「ところが、それがそうと断定出来ないところに、こんどの事件のむつかしさがある」 「じゃ、史郎じゃないんですの」 「なるほど、史郎は|凄《すご》いやつだ。いざとなったら、人殺しでもなんでもやりかねないやつだ。しかし、あいつにはアリバイがあるし、こんどの事件のようにつぎからつぎへと、計画的に事をはこんでいく腕があろうとは思えない。こんどの事件の犯人は、もっともっと、|世《せ》|故《こ》にたけた大物としか思えない」  しかし、じぶんの周囲を見わたしたところ、そんな大物がいるとは思えない。このひとのいうのは建彦の叔父のことだろうか。 「あなた、大物っていったい誰……?」 「いや、その|詮《せん》|議《ぎ》はいずれするとして、それよりさしあたって、この井戸のなかを探検してみようじゃないか。音禰、膝からおりておくれ」  男はなぜか言葉をにごしたが、私はなにも気がつかず、素直に腰をあげた。  こんなことをいうと、|嘘《うそ》だとしか思えないだろうが、そのときまで私は、井戸の底に閉じこめられた、げんざいの立場というものを、ほとんど感じていなかったのだ。  男の自若たる態度が安心感をもたせ、この男といっしょにいる以上、私の身に危険が迫ってくるはずがない……。私はいつか迷信的な信頼を、この男によせていたのだ。それにいま聞いたうれしい男の暴露が、私をすっかり有頂天にし、現在の境遇も忘れさせていたのだ。  しかし、男が懐中電灯をともし、あらためてあたりを調べたとき、私はいまさらのように、なんともいえぬ心細さにおそわれた。  ああ私たちは生きてふたたび、ここを出ることが出来るだろうか。      井戸の底にて  私たちのいまいるところは、さっきもいったように、井戸の底から一間ばかりくぼんだところで、それはちょうどお|椀《わん》を横に立て、下半分を切りとったような形をしていた。どうしてそんなくぼみが出来たのかしらないけれど、私たちはこのくぼみのおかげで、|沢《たく》|庵《あん》石の難をまぬがれたのだ。  土質は赤茶けた粘土質で、そのあいだからたらたら水がしたたりおちているが、その水も井戸の底にたまるというほどではなく、どこか地底へ吸いこまれていくらしい。 「昔はこれでもほんとうの井戸だったんだろうねえ。それが地震かなんかで地下の層に変化が出来て、|空《から》井戸になってしまったんだろう。おかげでおれたちは助かったんだが……」  男はそういいながらトントンと粘土の壁をたたいている。 「あなた、なにしていらっしゃいますの」 「なにさ、小説なんかだと、よく空井戸の底に横の抜け穴があるじゃないか。しかし、いまいましいが、この井戸にゃ、そんなロマンチックな仕掛けはないらしい」  男のいうとおりである。試みに私も壁を|叩《たた》いてまわったが、それは重い音をたてるだけで、なんの反響もつたえなかった。 「およし、|音《おと》|禰《ね》、いくら叩いても無駄だ。これが単なる空井戸にすぎないとすれば、われわれの助かるみちは、さっき突きおとされたあの内陣のおとし穴しかない」  男はくぼみから井戸へ出て、懐中電灯の光をうえにむけたが、その|光《こう》|芒《ぼう》はとてもおとし|蓋《ぶた》までとどかなかった。 「あなた、井戸のふかさはどのくらい」 「さあ、三十メートルはあるんじゃないかな。さっき落ちてきた感じでは……」 「それでよく|怪《け》|我《が》がなかったわね」 「うん、おれの場合はとちゅうでなにかにつかまったんだ。ほら、あれをごらん」  男が懐中電灯をしたにむけると、そこにころがった沢庵石の下敷きになって、|梯《はし》|子《ご》のようなものが散乱している。調べてみるとそれはもうボロボロに腐朽した木製の梯子だった。 「おれは夢中であいつにつかまったんだ。するとそいつがメリメリと、裂けそうになってきたので、そのときおれは反動をつけ、梯子とともに飛びおりたんだ。その際どっかで肩をやられたんだね」  懐中電灯をうえへむけると、十メートルほど頭上の井戸の側面に、折れた梯子のはしがぶらさがっている。  思うにここが空井戸になったのち、だれかがここに梯子をつけたのだろう。ひょっとすると底のくぼみも、なにかを貯蔵するために掘られたのかもしれない。しかし、それもだいぶまえから使用されなくなり、梯子も腐朽するままに、放置されてきたのであろう。  それを思えばゾーッとする。もしその梯子がなかったらどうだろう。おとし蓋からじかにここまで落下していたら、いかに身の軽いこのひとだって、おそらくただではすまなかったろう。そして、このひとが巧妙に受けとめてくれなかったら、私もあのとき肉も骨もくだかれて、いまごろはこのひとと|三《さん》|途《ず》の川とやらを渡っていたかもしれないのだ。  懐中電灯で調べてみると、うえから降りている梯子の下端まで、タップリ十メートルはあるだろう。ふたりの身長を合算しても、とてもそこまではとどかない。よしんばなんらかの方法で、そこまでとどくことが出来たところで、この腐朽の状態では人間ひとりの重量には耐えきれまい。  私はあらためて心細さが身にしみた。  男はだまって井戸の直径をはかっていたが、この井戸はそうとう広いもので、男が両手をのばして体を横に倒しても、その直径にはおよばなかった。もし、両手をのばしてとどいたら、男は両手と両脚で、橋のようになってうえへあがっていくつもりだったろう。  それも駄目だとはっきりわかり、さしあたり脱出できるあてもないと見きわめをつけると、男はかるく肩をゆすって、またさっきのくぼみへもどって腰をおろす。 「音禰、おまえもこっちへおいで。そこに立っていると危ないよ。うえからまたなにが落ちてくるかわからない」 「ええ、でも、あなた」  と、私も男のそばへよりそって、 「どこからも抜け出すことが出来ないとすると、あたしたちはどうなるの」 「なあに、いずれ誰かが助けにくるさ」  と、男はこともなげにいって、 「人間ってものはなかなか死なないものだ。それよりもむしろくよくよするほうがよっぽど悪い。音禰、気をもまないほうがいいよ」 「いいえ、あたしなんにも気をもみません。あなたといっしょなら死んでもいいの。そのつもりで飛びこんだんですから」 「音禰、ありがとう」  男はまた私を|膝《ひざ》のうえに抱きあげて、 「音禰、おれは強がりや、気休めでこんなこといってるんじゃないよ。いずれ救いの手がのびるであろうという確信をもっているんだ。まずだいいちに|鷺《さぎ》の湯だ。鷺の湯ではわれわれがきょうここへ来たことをしってるからね。だからわれわれがかえらなければ、きっとこの塔へたずねてくる。それから……」 「もうひとり、三つ首塔のありかを知ってるものがいるはずなんだ。東京のほうに……」 「だれ……? それ……? 金田一耕助……?」 「いいや、金田一耕助じゃない」 「じゃ、だれなの、それ……?」 「ヘレン根岸を殺した犯人さ」 「まあ!」  私は思わず眼を|視《み》|張《は》った。 「どうして、その犯人が……?」 「だって、おまえがいってたじゃないか。古坂史郎のトランクは錠前がこわれてたって……」 「あっ!」 「そうだろう。古坂史郎にしろ誰にしろあんな大切なものを、錠前のこわれたトランクの中にしまっておくはずはないね。だから、誰かがおまえよりひと足さきに錠前をこわして、トランクの中を調べたにちがいない。それはおそらくヘレン根岸を殺した犯人だろうという推理は、あながち無理なこじつけじゃないと思うんだが……」  そういえば、あの封筒の封は乱暴に破かれていた。 「でも、あなた、そのひとは……その犯人はなぜ写真を持っていかなかったのでしょう」 「それはおまえより|利《り》|巧《こう》……と、いうより、|世《せ》|故《こ》に|長《た》けていたからだろう。錠前がこわれていただけなら、古坂史郎も犯人は、トランクの中を|掻《か》きまわしていったが、写真には気がつかなかったのかもしれないと、安心するかもしれないじゃないか」 「あなた、すみません。それじゃあたしが写真を持ち出したのはいけなかったのね」 「いいよ、いいよ、おまえとしちゃ三つ首様の写真を、おれに見せたかったんだろうからね。それに、おまえが写真を持ち出したことによって、古坂史郎は犯人にもあの写真を、見られたってことに、気がついていないかもしれない」 「あなた」  私は男の胸に|縋《すが》りついて、思わず|呼《い》|吸《き》をはずませた。 「それじゃその犯人がここへわれわれを、殺しにくるとおっしゃるんですの」  男は黙って私の背中を|撫《な》でていたが、やがてなぜかしゃがれたような声で、 「音禰、東京のようなゴタゴタした都会でなら、犯人が誰であろうが、かえってひとめにつかずに行動出来る。現におれがそうだった。ところがいったん東京をはなれて、こういう|鄙《ひな》びた|田舎《いなか》へやってきてみろ。すぐひとめにつく。いや、ほかの人間は気がつかなくとも、ここにひとり気がつく人物がいるはずだ」 「誰……? それ……?」 「金田一耕助さ」  私は|弾《はじ》かれたように顔をあげて男を見た。男は|悪《いた》|戯《ずら》っぽい微笑をうかべながら、私の|頬《ほお》にキスをすると、 「世の中は皮肉なもんだ。きのうの敵はきょうの友、ひょっとするとわれわれの頼みの綱は、金田一耕助だけかもしれないぜ。あっはっは」  ああ、そうなのだ。このひとがほんものの|高《たか》|頭《とう》俊作だとしたら、われわれはあのひとを|怖《おそ》れる必要は少しもないのだ。そう考えると、いままであんなに小憎らしかった金田一耕助というひとの背後から、後光がさすように思えたのは、これが人間の現金さというものか。      同性愛地獄  しかし、それだからといって、私の不安はすっかり解消したわけではない。 「ねえ、あなた、|法《ほう》|然《ねん》さんはこの事件で、どういう役割りをはたしてるんですの。あのひとはなんだって、急に敵にまわったんですの」 「いや、おれもさっきからそれを考えてるんだが……古坂史郎や佐竹由香利がいたんだって?」 「ええ、鬼頭庄七もいたわ」 「鬼頭庄七が……? あのふたりはなぜ鬼頭庄七をここへ連れてきたのかな」 「あなた、それ、どういう意味……?」 「だって、佐竹由香利には古坂史郎というお|誂《あつら》えむきの相棒が出来たんだ。鬼頭庄七にはもう用事はないはずだ。なにもこんなところまで連れて来なくても……」 「あなた、ひょっとするとあのひとが武内|潤伍《じゅんご》じゃなくって。そして、親子でそれぞれ佐竹の一族に、触手をのばしていたんじゃない?」 「あっはっは」  男は|咽《の》|喉《ど》のおくでひくく笑うと、 「音禰、おまえのその考えはロマンチックで面白いが、それはそうじゃない。おれは関係者一同の素性をくわしく洗いあげたんだ。鬼頭庄七は昔から鬼頭庄七だ。あいつはああいう|獰《どう》|猛《もう》な面や体をしているが、根は気の小さな男だ。でくの棒みたいな男なんだ。由香利みたいな小娘に、手玉にとられているような男だからね」 「由香利というひととどういう関係なんですの」 「なに、由香利の母が由香利の父の死後、由香利を連れ子にして再婚したんだ。ところがそのおふくろが亡くなると、いつのまにかくっついてしまったんだね」  それからあとのことは私も聞きたくなかった。あのあさましい見世物のことを思うと、私はいまでも不快なしこりが解消出来ないのだ。 「だから、史郎にしろ由香利にしろ、ここまであの男を連れてくる必要はないように思うんだが……いや、それにもましてふしぎなのは法然さんだ。おれはあらかじめこの|界《かい》|隈《わい》で、いろいろ情報を集めておいたんだが、あのひとそんなに悪いひとじゃないと思った。それがどうして、史郎や由香利に抱きこまれたのか……」 「そうそう、法然さんはあたしまで突き落とすつもりはなかったのよ。ところが由香利がへんなことをいったわ、和尚さんに。あたしにはなんのことだかわからなかったけれど……」 「へんなことって、どういうこと……?」 「その女はあなたの恋がたきだって……」  そのとたん、私を抱いていた男の体がギクッとふるえた。男は私の顔をのぞきこみながら、 「その女ってのはおまえのことなんだね。そして、その場には古坂史郎もいたんだね」 「ええ……」 「史郎はおまえをどうしようとしたんだ。史郎はおまえを助けようとしたんじゃない?」 「ええ……そうしたら由香利がそういったんですの。あなた、由香利のいったのはどういうことなんですの」  男はしばらくだまって考えこんでいたが、やがて私の髪の毛をまさぐりながら、咽喉のおくにひっかかったような声で、 「音禰、ごめんよ。おれの不注意からおまえまでこんな危険な目に|遇《あ》わせて……おれはもっとはやくそれに、気がつかなきゃいけなかったんだ」 「いいえ、あたしのことはどうでもいいの。あたしはあなたといっしょに死ねるのがうれしいんです。でも、それというのはなんのこと?」 「音禰、おれは古坂史郎のことをずいぶん気にしていたね。おまえに写真をもっていかれたってことに気がついたら、史郎のやつ、きっとこちらへ手をまわすにちがいないって。そして、こういう田舎のことだから、都会からひとが入りこんだらわからぬはずがないって」 「ええ、それで……?」 「ところがそれにもかかわらず、史郎の消息はどこからも入ってこなかった。それがおれにはふしぎでしかたがなかったんだが、わからなかったのもむりはない。史郎のやつは法然さんにかくまわれていたんだね」 「だから、法然さんとあのひととは、どういう関係になってるんですの」 「音禰、|鷺《さぎ》の湯のお清ちゃんはこういったね。いまから一年ほどまえ三つ首塔には、法然さんのほかにもうひとり、わかいお弟子さんがいたと……」 「ええ」 「それからそのお弟子さんがいなくなってから、法然さんはとても気むつかしくなったと……」 「ええ、それで……」 「それから、音禰、史郎の持っていた二枚の写真のうち、三つ首塔の全景のほうは、おれの持ってるのと同様、そうとう時代のついたものだが、三つ首様の写真のほうはまだ新しかったじゃないか。しかも、史郎のトランクのなかにはカメラがあったとおまえもいってたね」 「あら! それじゃ一年ほどまえまでここにいた、わかいお弟子さんというのは……?」 「史郎だったと考えても不自然じゃないね。武内潤伍は三年まえに、アメリカへ脅迫状を送るとまもなく死んだんだろう。そのとき史郎にだいたいのことを打ち明けた。それで史郎ははじめて、|錯《さく》|綜《そう》した事件のいきさつを耳にした。しかし、なおかついろいろわからぬことがあったので、まずいちばんに三つ首塔へやってきて、言葉たくみに法然さんに取り入って弟子入りした……と、いう考えかたは不自然かね」 「いいえ、いいえ」  私は|呼《い》|吸《き》をはずませて、 「それで……そのとき史郎が、三つの首の写真を|撮《と》っていったんですね」 「そう、しかし、それだけじゃなく、そのとき史郎は……史郎は……」  男はなにかいいにくそうに言葉を濁した。 「あなた」  私は男の顔をしたから|凝視《ぎょうし》しながら、両手を男の首にまきつけて、 「そのとき史郎はどうしたんですの。あなた、気がついたことがあったらなにもかも言ってちょうだい。どうせ死ぬにしても、あたしなにもかも知って死にたいの。奥歯にもののはさまったような、こんな気持ちで死にたくない」 「音禰、死ぬ、死ぬなんてそうむやみにいうもんじゃない。われわれは最後の最後まで希望をすてちゃいけないんだ。しかし、いまいったことね」  男は私の耳のしたにキスをすると、 「音禰は男が……たとえば法然さんのような男が、他の男……たとえば史郎のような、|美《び》|貌《ぼう》の少年を愛する場合があるってこと知ってる? それも肉体的に……」  その瞬間、私の全身をつめたい|悪《お》|寒《かん》が電波のように走った。それは激しい怒りとドスぐろい嫌悪感をともなった|戦《せん》|慄《りつ》だった。  いかに|潔《きよ》く、正しく、美しくといっても、私も戦後に育った女である。ホモといい、レズという言葉がなにを意味しているかくらいは知っている。  戦後の混乱した世相では、男も女も性のモラルや規律を見失って、同性愛の悪徳におちているひとが、そうとう多いと聞いている。しかも、こういう悪徳は現代にはじまったのではなくて、昔からあったのだということも知っている。旧約聖書にも出てくるし、日本では戦国時代の武将や|僧《そう》|侶《りょ》のあいだでは、あたりまえのこととされていたという。  私ははじめて、由香利の放ったことばの意味をハッキリ知った。 「和尚さん、その女はあんたの恋がたきなのよう!」  私の全身をまた激しい怒りとドスぐろい嫌悪感が、電流のように流れて走った。  この事件の関係者には、あさましくも汚らわしいケースがついてまわっているのだが、いま説き明かされた話ほど、私の嫌悪感を誘うものはなかった。男の胸に顔をうずめた私の体を、怒りと屈辱からくる戦慄が、いくどか鋭くつらぬいて走った。 「ああ、おまえも知っているのだね」  男はやさしく私の背中をなでながら、 「それは世にもあさましい、人倫にももとることなのだ。しかし、いったん同性愛地獄におちたがさいご、それはもう麻薬の味をおぼえたのもおなじだそうだ。異性の愛人の場合とちがって、対象が同性の場合、撰択の範囲が限定される。じぶんの好みにかなうあいてがいても、それがおなじ趣味に|惑《わく》|溺《でき》してくれるかどうか疑問だからね。法然さんにむかしそういう趣味があったのか、史郎に誘惑されて同性愛地獄におちたのか、とにかくそうなってからの法然さんは、おそらく史郎の意のままに操られてきたことだろう」 「そして、そうして法然さんから必要な知識をさぐり出すと、史郎は東京へ出ていったのね」 「そうだ。法然さんは三つ首塔のお守りをしているくらいだから、そうとういろいろなことを知っているにちがいない。少なくとも佐竹の一族のうちの誰かを……たとえば島原明美のことくらいは、なにかのひょうしで知っていたんじゃないか」  その史郎がいま三つ首塔へかえっている。そして法然さんがゆがんだ情熱のとりことなって、史郎の意のままに操られているとすれば、ああ、私たちはもう救われるみちはない。  私がそれをいうと、男はやさしく声をはげまして、 「音禰、おまえのようにそうなにもかも、悲観的にみるものじゃない。おれはいまはじめて、史郎が鬼頭庄七をここへつれてきた、理由がわかったような気がしてきたのだ」 「それはどういうこと……?」 「史郎は由香利との関係を、法然さんに知られたくないんじゃないか。その関係をカモフラージするために、鬼頭庄七の存在が必要だったんじゃないか。由香利は鬼頭庄七の情婦であるから、じぶんとはなんの関係もないということにしてあるんじゃないか」 「あなた、それで……?」 「だから、真相がばれたとき、史郎と由香利の関係がしれたとき、法然さんがどう出るか、そこに仲間割れが生じやしないか……だから、われわれは最後の最後の瞬間まで、希望をすてずに辛抱づよく、脱出の機会がくるのを待っていなければならないのだ」  しかし、男がそんな話をするのは、ただ私を失望させないため、|怯《おび》えさせないための親切だということを、私はよくしっている。そして、私にとってそんなことはどうでもよいのだ。  この男とともに助かって、結婚出来て、|莫《ばく》|大《だい》な遺産を相続出来れば、もちろんこれほどうれしいことはないけれど、ここでこうしてこの男といっしょに死ねるなら、それだって私はかまわない。私はただこの男といっしょにいたいのだ。このひとといっしょにいれば、私はいつだって幸福なのだ。 「あなた……あなた」  とつぜん、私は激しい情熱の|嵐《あらし》につつまれた。 「あたしを抱いて……あなたの強い腕で力いっぱい抱きしめて……」 「よし!」  男は懐中電灯の灯を消すと、暗がりのなかでいきなり私を抱きすくめた……。こうして真っ暗な地の底で、奇妙な私たちの愛情の生活がはじまったのだ。  男が期待したような、救いはなかなかやってこなかった、そのことと……、つまり、生きてふたたびここから出られないかもしれないという|棄《す》て鉢な気分と、地底の|暗《くら》|闇《やみ》という異常な環境が、私たちから、人間なみの|羞恥《しゅうち》やたしなみをむしりとってしまったのだ。生きているうちに、たがいの愛情の泉を|汲《く》みつくそうと、私たちは暗闇のなかで、二匹の飢えた野獣のようにからみあってはなれなかった。  しかし、そんな際でも男はさすがに理性的だった。かれは腕時計をまくことを忘れず、一昼夜たつと粘土の壁に一本棒をひいた。そして、その棒が三本になったとき、私たちは猛烈な飢餓に、なやまされなければならなくなった。  はじめのうち私たちは、井戸の底に生えている|苔《こけ》を|喰《く》った。それからこんなところへも、おりおり迷いこむ|蟹《かに》をつぶして食べたりした。しかし、そんなものがなんの腹の足しになろう。そしてまたいつまでつづこう。 「音禰、人間というものは飢えのために、死ぬということはなかなかないことなんだよ。おれはいつか二十七日間、地底に生き埋めになっていて、しかも助かった男の記録を読んだことがある。人間にとって必要なものは食物よりも水と空気だ。さいわい水と空気はここには十分ある」  それから男はまたこんなこともいった。 「それに、音禰、いざとなったらおれの肉をきりとってでも、おまえに食わしてあげるよ」 「いや、そんなこと……」  だが、私は男のそれほどまでの愛情がうれしく、 「あなた、あたしを抱いて……あなたの体であたしの肌を温めてえ……」 「うん、よし……」  ふしぎなことにはそのころまで、飢餓も私たちの情熱の火を消していなかったのだ。  ところが、それからまた粘土の壁に、棒が四本ふえたとき、私たちの身辺に、異常な出来事が降ってわいたのである。      救いの手  七日にわたる絶食と、それから無軌道な性生活は、さすがに私の肉体から、レモンをしぼるように精力をしぼりとっていった。  私はもう飢餓からくる胃の猛烈ないたみも感ぜず、終日けだるい|倦《けん》|怠《たい》感に、うつらうつらしているようなことが多くなった。それをはげまし、慰めるのは、ささやくような男の話し声である。男も飢えているのである。それにもかかわらず、かれはしょっちゅう話しかけ、それからときおり私の|手《て》|脚《あし》をこすって温めてくれたりした。  言い忘れたが二月という天候にもかかわらず、地底はそれほど寒くはなかったのだ。そしてそのことが私たちを凍死から救ってくれたのだが、それでも飢えがふかくなるにつれて、私の手脚は氷のように冷えきった。それを男が根気よく摩擦して、少しでも温くしようとつとめてくれるのである。  そのときも、私は男に脚をこすってもらいながら、うつらうつらしていたのだが、とつぜん、とおくのほうで悲鳴のようなものを、夢うつつとなく聞いたかと思うと、やがてずしいんと地ひびきのようなものを聞いた。 「あなた……いまのなあに?」 「|音《おと》|禰《ね》、じっとしておいで。誰かが落ちてきたようだよ」  男はくぼみからよろばい出ると、うえへむかって叫んでいたが、おとし|蓋《ぶた》はもうしまって、なんの応答もないらしい。 「音禰、懐中電灯があったね」 「ええ、ここ……」  男はちかごろめったに使わぬ懐中電灯をともすと、そこにひらたくのびている男の髪をひっつかんで、顔をしらべていたが、すぐ、 「あっ!」  と、いう力はないが、鋭い叫びをもらした。 「あなた、誰……?」 「鬼頭庄七……」 「まあ」  私がよろよろ起きなおろうとするのを、 「音禰、おまえはこっちへ来ちゃいけない。鬼頭は殺されているんだ」 「殺されて……?」 「うん、背中に|匕《あい》|首《くち》がつっ立っている」 「あなた、血がたくさん流れていて……?」  つまらないことを聞いたものだが、そのとき、|半《はん》|睡《すい》|半《はん》|醒《せい》状態だった私には、ひとが殺されたということも、ピンと頭にこなかったのだ。 「いや、さいわい血は流れていない。この匕首は抜かずにおこう。血が吹きだすとやっかいだから。……だけど、音禰」 「なあに……」 「これで、おれの予想が的中したってことがわかったろう。仲間割れがはじまったんだ。鬼頭を殺したのが|法《ほう》|然《ねん》さんか、史郎と由香利のカップルか、そこまではまだわからないけれど……」  久しぶりに異常な事態が起こったので、男の声はいくらか活気をおびていたが、私にはそんなことはどうでもよかった。男の声を子守り|唄《うた》のように聞きながら、私はまたうつらうつらと睡魔におそわれかけていた。  と、そのときである。とつぜん男が世にもうれしそうな叫び声をあげたのは。…… 「音禰! 音禰! しっかりおし、食べものだよ。食べものだよ。鬼頭庄七が握り飯を持ってきてくれたよ」  このことばかりは、いまもって|謎《なぞ》なのだけれど、そのとき鬼頭庄七は、赤ん坊の頭ほどもあろうという大きなお結びを六つ、竹の皮につつんで、背中に背負うていたのである。  おそらく仲間割れに不安をおぼえ、身に危険をかんじた鬼頭庄七は、仲間を裏切りおのれひとり、脱走しようとしたのだろう。男も指摘していたとおり、鬼頭庄七は顔や体ににあわず、気の小さな男だったということだから。  それを仲間に|覚《さと》られて、殺されたのだろうといわれているが、直接手をくだしたのが誰であったか、いまもって正確にはわからない。  しかし、背中に突っ立った短刀の|柄《つか》に、指紋がなかったところから、そこまで用心ぶかくふるまえるのは、古坂史郎以外にはないのではないかといわれている。  しかし、ほかで殺して、おとし穴まではこんできたことはたしかなのだから、それはひとりの人間では手に負えない仕事である。鬼頭庄七は人一倍、大きな図体をしているのだから。しかし、共犯者が何人いたとしても、かれらはこの|空《から》井戸を知っていたのだから、おそらくそれは史郎と由香利、ひょっとすると、法然さんも仲間だったのではないかといわれている。  いずれにしても、鬼頭庄七の背負っていたこのお結びが、当座の飢えを救ってくれたのだが、正直にいって私はそのとき、少しも食欲をかんじなかった。  私がそれをいうと、 「馬鹿! 馬鹿! そんな気の弱いことでどうするんだ。だけど、絶食のあとでいきなりお結びを食べて、体にさわっちゃいけないから、おれがいいようにしてあげる」  男はお結びを口にふくんで、|唾《だ》|液《えき》でそれを|粥状《かゆじょう》にして、少しずつ私の口に流しこんでくれた。 「あれ、おれ、飲みこんじゃったあ」  そんな冗談をいいながら、仰向けに寝ている私の顔を両手でかかえて、お粥を口から口へと流してくれる男の顔を、久しぶりに懐中電灯の光で見たとき、私の眼から涙がわき出してやまなかった。 「あなた、もうたくさん」 「うん、じゃ、これぐらいにしておこう。あまりたくさん、いちどに食べてもよくないからね」 「あなたもおあがりになって……」 「うん、おれも食うよ」  七日食わない男の顔は、相当|憔悴《しょうすい》もしていたし、|髭《ひげ》ものびていたけれど、しかし、|悪《いた》|戯《ずら》っぽい|瞳《め》のかがやきは、以前と少しもかわるところはなかった。 「あなた、あたしたちきっと助かるわね」 「助かるとも。これだけお結びがあれば、あと三日や四日しのげるだろう。音禰、だけどこんどは自重しようや。うっふっふ」 「あなた、お食事がすんだら灯を消して……。それから、私のそばへきて手を握ってて……」 「うん、よし」  鬼頭庄七のお結びのおかげで、私たちは少しずつ、元気を|恢《かい》|復《ふく》していくのがはっきりわかった。  こうして鬼頭庄七は、私たちの飢餓をすくってくれたのみならず、私たちのところへ救いの手をみちびいてくれたのだ。それは壁のうえにまた三本、棒がふえた日のことである。  手を握りあって私のそばに寝ていた男が、とつぜんがばと起きなおると、いそいで井戸のほうへ|這《は》い出していった。 「あなた、どうかして……?」 「光がさしたんだ。おとし|蓋《ぶた》があいたんだ」  もぐらのように|闇《やみ》になれた男の眼には、ほんのわずかの光でも感光するのだ。 「おうい!」  男ははらわたをしぼるような声を張りあげ、それから、 「音禰、音禰、懐中電灯を……懐中電灯を……」  鬼頭庄七のおむすびのおかげで、私もいざり出るくらいの元気はあった。男が下から懐中電灯を、ふりまわすと、 「誰かそこにいるのかあ……」  と、うえから声がふってきた。 「…………!」 「誰だあ……?」 「男と女」  しばらく声がとぎれたが、 「女は宮本音禰君じゃないか」 「そうだ。しかし、そういうあなたは……?」 「金田一耕助」  とつぜん、私の眼から涙があふれてきた。金田一耕助という名前を聞いて、なぜ私が泣いたのかわからない。おそらく、男の予想がまたもや的中したことに感動したのだろう。とにかく、そのとき、私は泣けて泣けてしかたがなかったのである。 「ところで、そういう君はだれだ」  金田一耕助がうえから|訊《たず》ねた。 「堀井敬三」 「ああ、そう、堀井敬三こと|高《たか》|頭《とう》五郎こと高頭俊作君だね。あっはっは」  と、金田一耕助は愉快そうにわらって、 「だけど、音禰さん、大丈夫……?」 「ええ、元気です」 「よし、待っていたまえ。いますぐに救い出してあげる」  金田一耕助の顔がいったんひっこんだとき、 「あなた」 「音禰」  私たちは井戸の底でひしと抱きあった。      二人の絞首刑吏  さて。私はここで、世にも不思議な物語を、お話しなければならない。  このことが、なぜ世にも不思議なことなのか、それはこの記録を、もうすこしあとまで読んでいただければ、ご了解ねがえることと思う。  いまになって当時のことを回想してみるに、いろいろ思い出すことが多いけれど、そのなかで私の記憶がもっともあいまいなのは、|空《から》井戸からすくいだされて、|鷺《さぎ》の湯までつれもどされるあいだの出来事なのである。  金田一耕助が救いにきてくれたとしって、俊作と抱きあった瞬間、私は|安《あん》|堵《ど》のために気がとおくなり、あとはいっさい空々漠々なのである。どういうふうにして空井戸から救い出されたのか、また誰に鷺の湯までつれてきてもらったのか、はなはだ記憶が|明瞭《めいりょう》でない。しかもこれからお話しようという出来事は、その間に私の味わった、世にも異様な経験なのである。  そこがどこだか私にもわからなかった。ただ露天だったらしいことは、私のまうえに星がチカチカ、またたいていたことでもうなずけるのである。あたりはまっ暗というほどではなく、|紗《しゃ》でおおわれたような薄明かりのなかに、三つ首塔の黒い屋根の|勾《こう》|配《ばい》が、くっきりとななめに空をきっていた。  私はどうやら土のうえにじかに寝かされていたらしい。それでいて少しも寒さをかんじなかったのは、毛布かなにかで体をくるまれていたせいなのか、それとも、そのときの異様な精神状態のためなのか。おそらくその両方だったのだろう。  また、三つ首塔の|風《ふう》|鐸《たく》がかすかに鳴っているのが、記憶にのこっているくらいだから、いくらか風があったにちがいないが、それでいて、少しも|頬《ほお》に冷気をおぼえなかったのは、これまた、そのときの異様な精神状態のせいだったのだろう。  さて、私のそばにはこんもりとした、丸い小さなトーチカのようなものがあった。私はそのほうへ頭をねじむけたおぼえもないのに、そこにそのような妙なものがあることを、どういうわけでかしっていた。そして、そのトーチカの黒い小さなアーチ型の入り口が、薄気味悪く私のほうへむいているのも、私はちゃんと心得ていた。  じつは私はさっきから、その真っ暗な入り口から、なにか変なものが……たとえば、お化けのようなものが|這《は》い出してくるのではないかと、手に汗を握るような|想《おも》いで恐れおののいているのである。それでいて、そこから逃げ出そうの、ひとを呼んで助けを求めようのという考えは、頭にうかんでこないのである。  すると果たしてそのトーチカのなかから、するすると黒い影が這い出してきた。ひとつの影のうしろから、もうひとつの影が這い出してきた。ふたつの影は音もなく、仰向けに寝ている私の左右ににじりより、うえから私の顔をのぞきこんだ。  そのとたん、私は冷たい手で、ぎゅっと心臓をにぎりしめられたような、はげしい|悪《お》|寒《かん》と|動《どう》|悸《き》をおぼえた。それは古坂史郎と佐竹由香利のふたりだった。  しかし、これはいったいどうしたことなのだ。ふたりは全身、黄褐色の泥にまみれているのである。顔も|手《て》|脚《あし》も着ているものも。……ふたりの顔はまるで泥のお面をかぶっているように、黄褐色によごれていて、|睫《まつ》|毛《げ》の一本一本にまで、赤茶けた泥がまぶれついている。そして、黄褐色の泥の仮面のなかから、眼だけがギラギラ異様にかがやいているのである。  ふたりは私の顔から眼をあげると、たがいに視線を見かわして、唇をねじまげてにやりとわらった。あとにもさきにも、私はあれほど気味の悪い、しかも、底意地の悪いわらい顔を見たことがない。  私は全身からつめたい汗が吹き出すのをおぼえた。ああ、古坂史郎と佐竹由香利は、こんなところにかくれていたのだ。そして、あたりにひとがいないのをさいわいに、ここで私を殺そうとしているのだ。声を出して助けを呼ばねば……手脚をうごかしてかなわぬまでも抵抗しなければならぬ。  だが、私の五体は金縛りにあったように動かなかった。  吐く息は|嵐《あらし》のようにはげしく、乱打する動悸は胸壁をやぶらんばかり、汗は滝のように流れながら、手脚をうごかすことはおろか、声を立てることすら出来なかった。  古坂史郎と佐竹由香利は、いかにも小気味よさそうに、黄褐色のお面をかぶった顔で、私の恐怖と|苦《く》|悶《もん》ののたうちを見おろしていたが、やがて意味ありげな視線がふたりのあいだにかわされると、由香利がなにやらとり出した。それは細い、|強靭《きょうじん》な|紐《ひも》だった。  由香利はこれまた黄褐色の泥の手袋をはめたような手で、その紐をひと巻き、私の首にまくと、 「さあ、史郎ちゃん、そっちの端をお握り」  と、じぶんは左手でいっぽうの端をにぎり、もういっぽうの端を古坂史郎のほうへ差し出した。そのとき、私の首や|咽《の》|喉《ど》にさわった由香利の手が、氷のようにつめたかったのを、私はいまでもはっきり思い出す。 「何をぐずぐずしているのよう。さあ、お握りったらお握り!」  いくらか|躊躇《ちゅうちょ》している古坂史郎を|叱《しか》りつける、由香利の声は絞首刑吏のように冷酷だった。  私はこの恐ろしいふたりの絞首刑吏から、逃れたいと身をもがく。いや、もがこうとするのだけれど、五体は依然として金縛りにあったように硬直している。吐く息だけは嵐のように耳をうつが、なお声は唇から出ないのである。  とうとう史郎がふるえる手で、紐の端をにぎりしめた。その手も泥の手袋をはめている。 「なんだい、史郎ちゃん、ふるえてるの。意気地なし。ああ、おまえはまだこの女に未練があるんだね。お馬鹿さん。おまえがどんなに|惚《ほ》れてても、この女がおまえのものになるもんか。だいいち、あたしがそうはさせないよ。さあ、いいかい。あたしが一、二、三と号令をかけるから、そしたらおまえ、力いっぱいそっちの紐の端をひくんだよ。あたしがこっちの端から紐をひくから。いいかい、わかったかい。史郎ちゃん」 「わかったよ。由香利。くどくどいうない」 「うっふっふ、威張ったって駄目だよ。手がふるえてるじゃないか。さあ、号令をかけるよ。一イ、二イ……」 「あ、いけない、由香利、おおぜいひとがやってきた」  史郎があわてて腰をうかせる。私の耳にもがやがやと、わめきながらこちらのほうへちかづいてくる、おおぜいのひとの話し声がきこえてきた。 「畜生! 畜生! この命|冥加《みょうが》なあまめ!」  由香利はくやしそうに舌打ちしながら、私の首のまわりから紐をとりのけると、それをまるめてポケットへつっこんだ。ざらざらとした肌触りから、どうやらそれは|真《さな》|田《だ》|紐《ひも》らしかった。 「さあ、史郎ちゃん。なにをぐずぐずしてるんだい。おまえ、そんなにこの女に未練があるのかい」 「やかましいやい。小娘のくせに、やきもちやくない」 「さあ、なんでもいいからはやくおいでよ。見つかったらたいへんだよ」  由香利は史郎の手をひいて、引きずりこむように、あの真っ暗なトーチカの穴の中へはいっていく。そのとたん私は完全に意識をうしなってしまった。  ゆらめく|提灯《ちょうちん》の灯や、わめき立てるひとびとの声を、遠く、かすかに意識しながら……。そのわめき声のなかに、 「ああ、ひどい汗! かわいそうに、悪い夢にうなされてるんだな」  と、聞きおぼえのある声がまじっていたのは、どうやら金田一耕助らしかった。      二人の行く方  その後私がはっきり意識を|恢《かい》|復《ふく》したのは、それからなお二日のちだったそうである。  |朦《もう》|朧《ろう》と混濁した意識のむこうから、やさしい聞きおぼえのある声がきこえてくる。 「かわいそうに。こんなにやつれて……」  と、涙にうるんだその声は、おやさしい品子さまではないか。ああ、私はまだ夢でも見ているのだろうか。 「いや、金田一先生、有難うございました。あなたが気がついてくださらなければ、この娘はあの男とともに、地下の|空《から》井戸で飢餓心中をしているところでしたな。あっはっは、いや、いまだから笑えることだけれど……」  と、深いひびきのある声でわらっているのは、どうやら建彦の|叔《お》|父《じ》らしい。ああ、それではこれはもう夢ではないのか。きっと金田一耕助氏の電報で、品子さまや建彦の叔父がかけつけてきたにちがいない。それにしても、上杉の|伯《お》|父《じ》さまは……?  私はなにか言おうとしたが、全身をおおうけだるい|倦《けん》|怠《たい》感に、口をきくことはおろか、|瞼《まぶた》をひらく気力すらなかった。いきおい私は三人の会話を、夢のように聞いているよりほかはなかったのである。 「いや、これはお嬢さんの御運が強かったんですな」  と、そのとき金田一耕助氏が語るのを、私は夢うつつのように聞いていたのだが、それはだいたい、つぎのようないきさつになるらしい。  三つ首塔のなかを|隈《くま》なく調査した金田一耕助氏も、はじめはあの空井戸に気がつかなかったそうである。あの空井戸のおとし|蓋《ぶた》のうえには、古びた|薄《うす》|縁《べり》が敷いてあったそうだから、金田一耕助氏のような人物でも、なかなか気がつかなかったのもむりではなかったらしい。  しかし、三つの首がまつってあるだけに、金田一耕助氏の関心が、つよくあの御内陣にひかれたのは当然だったろう。そういう意味でも、かれはなんどもあの周囲を調査しているうちに、薄縁のすぐそばの床にこぼれた一点の|汚《し》|点《み》に気がついた。それはやっと眼につくほどの小さな|斑《はん》|点《てん》だったそうだが、それが血ではないかと気がついたとき、金田一耕助氏ははじめて薄縁をあげてみる気になった。そして、そこにあのおとし蓋を発見したのであるという。  この話を聞きながら、私は夢うつつのうちに考えていた。  おそらく鬼頭庄七を殺した犯人とその共犯者は、あそこまで死体をはこんできたが、薄縁をめくり、おとし蓋をあけるとき、死体をいちじ床のうえにおいたのだろう。そのとき落ちた一点の血が金田一耕助氏に薄縁をあげさせたのだとしたら、なるほど私たちは運が強かったのだ。あんな場所に空井戸があろうとは、いったい誰が想像しえようぞ。  それにしても、金田一耕助氏はどうしてこの|黄《たそ》|昏《がれ》村へやってきたのか。それについて建彦叔父が|訊《たず》ねていたが、それに対して金田一耕助氏は、 「それは捜査上の機密ですから、目下の段階では申し上げるわけにはまいりません」  と、かるく言葉を濁していたが、私はしっている。  ああ、ここでもあのひとの予想はみごとに的中したのではないか。金田一耕助氏は犯人のあとを追って、ここへやってきたのにちがいない。それでなければこの地方に、三つ首塔があろうなどとは、金田一耕助氏がいかに名探偵といえども、気がつくはずがないのである。  それでは犯人もこの村へきているのか!  しかし、そのときの私の混濁した意識では、ふしぎにそれは恐怖の実感として迫ってこなかった。私はまるでめくら鬼の遊びをしているような気持ちで、うつらうつらとそれからあとも、|枕《まくら》もとの三人の会話を聞いていた。 「それはそうと、御隠居さん」  しばらくして、金田一耕助氏が切り出した。 「上杉先生はごいっしょじゃなかったのですか」 「はあ、誠也さんはある雑誌社の依頼で、一週間ほどまえから、関西から九州方面へかけて講演旅行に出ているものですから……。でも、主催者のかたによくお願いしておきましたから、おっつけ駆けつけてまいりましょう。ところで、金田一先生」  と、品子さまはあたりに気をかねるように声をおとして、 「いまむこうで、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部さまの取り調べをうけているかたですね。あのかたが|音《おと》|禰《ね》といっしょだったという話ですが、いったいどういうかたでしょう。建彦さんのお話によると、黒川さんの事務所で、お会いになったことがおありだとか……」 「ああ、あの人物ですか。あっはっは」  と、金田一耕助氏は朗かにわらって、 「あれはなかなか愉快な人物でしてね。表面は堀井敬三と名のって、わたしなんかと同じように、ひとから依頼された調査ごとなどを仕事にしている人物で、黒川弁護士などともそういう意味で接触があったんですが、それは表向きだけのことで、ひと皮むけばヤミ屋のボス。じつに多種多様な偽名や、かくれ家をもっている人物でしたね。あっはっは」 「まあ!」  と、品子さまはおびえたように、 「またそういうひとと音禰がどうして……?」 「いや、いや、御隠居さん、そこにはまだ底があるんですよ。ヤミ屋のボスから引きぬくと、これがまた意外な人物になるんです」 「意外な人物とおっしゃると……?」 「御隠居さんも佐竹さんもびっくりなすっちゃいけませんよ。あの人物こそ誰あろう、玄蔵老人の意中のひと、すなわちここにいられる音禰さんと夫婦にして、百億の遺産を譲ろうという|高《たか》|頭《とう》俊作君そのひとなんです」 「あっ!」  と、いう叫びが品子さまと建彦叔父の唇から、ほとんど同時にほとばしったが、それといっしょに廊下のほうでも、低い、鋭い叫び声が聞こえたかと思うと、 「誰……?」  と、いう金田一耕助氏の声がして、障子のひらく音がした。 「ああ、上杉先生、いまお着きでしたか」  ああ、伯父さまがいらしたのだ。私のことを心配して、わざわざ講演旅行のさきから、駆けつけてきてくださったのだ。  起きなければならぬ、起きてご|挨《あい》|拶《さつ》しなければならぬ……。  そう思いながらも私には、そうする気力がまだなかった。私は心のうちにすまない思いを抱きながら、依然として夢うつつのように、枕もとの会話を聞いているよりほかにしかたがなかった。  ひととおりの挨拶があったのち、 「兄さん、兄さん」  と、興奮したような声は建彦叔父である。 「いま金田一先生から、世にも意外なことを聞かされたところなんですがね」 「意外なことって……?」  それに対する伯父さまの声は、案外落ち着いていらっしゃる。伯父さまもいま廊下で、金田一耕助氏の話をお聞きになったはずだのに。 「いや、それよりも、姉さん、音禰はどうなんです。だいぶやつれているようだが」  私のことを気使うてくださるのは|嬉《うれ》しいけれど、なぜもっと熱心に、あのひとのことを聞いてやってくださらないのかと、私は夢うつつのうちにも、それがなにより悲しかった。 「ええ、でも、健康のほうはそれほど気づかうことはないんですって。まもなく意識を|恢《かい》|復《ふく》するだろうと、お医者さんもおっしゃってるそうですよ」 「ああ、そう、ところでここへくるみちみち評判を聞いたんだが、音禰はなんでも男といっしょだったそうじゃありませんか」 「兄さん、兄さん、そのことなんですよ」  と、建彦叔父の興奮した声が聞こえた。 「世にも意外な話というのは。……金田一先生の話によると、その男こそ誰あろう、音禰のいいなずけ高頭俊作なんだそうです」  伯父さまはしばらく黙っていられたあとで、 「そんな馬鹿な!」  と、吐きすてるような調子だった。 「高頭俊作なら、国際ホテルで殺害されたじゃありませんか」 「ところが先生、あれは|贋《にせ》|者《もの》だったんです。あいつは俊作のいとこで五郎というんですが、幼いころに五郎の父、即ち俊作の叔父にあたる男の|悪《わる》|企《だく》みで、身分姓名をいれかえてしまったんですね」 「その男じしんがそういっているんですか」 「いや、これはわたしが調査した結果、判明した事実なんですがね。ただ、残念なことには、いまとなってはあの男の身分を、はっきり証明出来るような証人も証拠物件もないんです。それでわたしも頭を悩ましてるんですが……」 「金田一先生。証人や証拠もないことを、そうかるがるしく……これは、音禰にとってじつに重大問題ですからね」  伯父さまの苦りきったお顔が見えるようである。伯父さまがそういうふうにお疑いになるのももっともだが、私にはそれがひどく悲しかった。 「いや、ところがね、上杉先生、ここにひとつ希望があるんです。と、いうのはあの三つ首塔ですがね。あそこにあの男が高頭俊作であるということを、証拠立てるような品物が、かくしてあるんじゃないかと思われる節があるんです。それがあの男と音禰さんを、ここへ導いた誘因じゃないかと思われるんですがね」  しばらくしいんとした沈黙がつづいたが、ふと品子さまのお声で、 「おや、誠也さん、あなた東京をたつとき、持ってらしたシガレット・ケースは……?」 「姉さん、あれはどこかへなくしたんですよ」  と、上杉の伯父さまはパチッとシガレット・ケースを鳴らせて、 「金田一先生、その品物というのは……?」 「いや、それがまだよくわからんのです。あの男が口を割らんのでね。ああ、警部さん、どうでしたか」 「やあ、上杉先生、いらっしゃい」  と、等々力警部の声で、 「いや、まだよくわからんのですがね。あいつもまだ体がほんとうじゃないので、あまりきびしく追究するわけにもいかんし、とにかく身柄をおさえたんだからゆるゆるやります」 「ところで、古坂史郎や佐竹由香利のゆくえは?」 「さあ、それがまた疑問なんでしてね。鬼頭庄七の死体が投げこまれた時分には、ふたりもこのへんにいたはずでしょう。それはいまから五日まえのことになるんだが、このへんの乗り物という乗り物を調査したところでは、この前後にふたりに該当するような人物が、乗りこんだ形跡は全然ないんです。だから、当然、この近辺に潜伏していなければならんはずだが、やっこさんたち、いったいどこにかくれているのか……それに|法《ほう》|然《ねん》とやらいう坊さんも、からきし行く方がわからないんだが……」  ああ、史郎と由香利のふたりなら、と、心のうちに叫びながら、私はまた|朦《もう》|朧《ろう》たる|昏《こん》|睡《すい》状態におちいったのである。      真田紐  私がほんとうに|覚《かく》|醒《せい》したのは、その夜の真夜中すぎのことだった。そして、私を覚醒にみちびいたその夜の|鷺《さぎ》の湯の騒動が、きずつきがちな弱い女の心の支えとなって、私は急速に|恢《かい》|復《ふく》していったのだ。  真夜中ごろただならぬあたりの気配に眼をさますと、室内にあかあかと電気がついており、雨戸の外をがやがやと、何やらののしりながらいききするひとの足音が聞こえる。  何事が起こったのだろうと、ものうげに|瞼《まぶた》を開き、かるく頭をもたげた私の眼に、廊下で立ち話をしていられる品子さまと上杉の|伯《お》|父《じ》さま、それから建彦|叔《お》|父《じ》の姿がうつった。むろん三人とも寝間着姿で、品子さまは寝間着のうえに羽織をはおっていられた。 「兄さん、姉さん、|音《おと》|禰《ね》、大丈夫でしょうね」  と、建彦叔父のささやくような声。 「ええ、こちらへは来なかったようだけど……建彦さん、それじゃ古坂史郎って男が忍びこんで来たっていうの」  と、品子さまの声はふるえている。 「どうもそうらしいんです。裏木戸と雨戸が一枚あいていて、土足で踏みこんだあとがあるんです」 「あのとき、おれがちらと見た姿がそうじゃなかったかな、|厠《かわや》からかえってくるとすぐ、あのドスンバタンの騒ぎが起こったんだから……。あのとき|誰《すい》|何《か》してみればよかったね」  これは伯父さまの声である。 「そんなこわいことよして。あなたの身にあやまちがあったらどうするの」  と、品子さまはかるくたしなめて、 「それで建彦さん、どうなの、あのひと、首を絞められたっていったわね」  そのとたん、私は寝床のうえに起きなおったが、三人はまだ気がつかず、 「そこがねえ、姉さん、|暗《くら》|闇《やみ》のなかながら、あの男が眼をさまして抵抗したのと、ひとの駆けつけるのがはやかったので、犯人は目的を遂げずに逃亡したんですが、だいぶこっぴどく絞められて……なにしろ十日あまりの絶食で、体が弱ってるところですからね」  ふらふらと寝床のうえに立ちあがる私の気配に、三人がいっせいにこちらを振りかえった。 「あら、音禰、気がついたの」 「伯父さま、おばさま、すみません。あのひと、どこにいるんですの」 「音禰、おまえはいっちゃいかん。おまえはここに寝ていなさい」 「いいえ、伯父さま、いかせて……。いって、あたし介抱しなければなりません」 「音禰! 音禰! あの男はいったいおまえのなんなんだ!」  |日《ひ》|頃《ごろ》ににあわず伯父さまの、ものに狂ったような眼が恐ろしかった。しかし、私はもう|臆《おく》してはいられない。真正面から伯父さまの眼を|視《み》かえして、 「はい、あのひとはあたしの|良人《お っ と》でございます」 「なにを!」 「伯父さま、すみません」 「音禰、もういちどいってみろ。誰にことわっておまえは……おまえはあんな男と……」  なにかしら絶望的な怒りにくるう伯父さまの、怒気満面にあふれたお顔が、日頃|闊《かっ》|達《たつ》で|諧謔《かいぎゃく》的なかただけに、私にはひどく印象的で恐ろしかった。しかし、私はいかねばならぬ。 「伯父さま、すみません。でも、いかせていただきとうございます。あたしは良人の介抱をしなければなりません」 「音禰! おのれは……おのれは……」  まるで、つかみかからんばかりの伯父さまの権幕に、いままであっけにとられて、ふたりのようすを見くらべていた建彦の叔父が、あわててうしろから抱きとめた。 「まあ、まあ、兄さん、どうしたんです。宿のものに聞こえるじゃありませんか。音禰、おまえもおまえだ。そんな衰弱した体で……」 「ええ、でも、あたし大丈夫。おばさま。伯父さまによくお|詫《わ》び申し上げて……」  三人のそばをすりぬけて、いこうとする私の後から、 「音禰や、いくならこれを着ておいで。|風《か》|邪《ぜ》をひくといけないから」  うしろから、宿の|丹《たん》|前《ぜん》を着せてくださる品子さまのお声は涙にうるんでいた。 「おばさま、すみません。それでは伯父さまを見てあげて……」  ふらつく|脚《あし》をふみしめて、廊下をいく私のうしろから、 「音禰、おまえはいくのか、あの男のところへ……音禰、おまえはいってしまうのか……」  と、追っかけてくる上杉の伯父さまのお声は、なぜか悲痛で絶望的だった。  男の部屋はすぐわかった。あかあかと電気がついて、障子の外の廊下で、四、五人宿のひとたちが立ち話をしていた。障子をひらくと仰向けに寝た男の|枕元《まくらもと》に、金田一耕助氏と|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部、それから|田舎《いなか》の医者らしいひとに、宿の主人もかしこまっていた。あとで聞くと男は人工呼吸によって、やっと呼吸を吹きかえしたのだった。 「あっ、音禰さん」  金田一耕助氏の声に男はむっくり頭をもたげた。思ったよりも元気で晴れやかな顔色が涙の出るほどうれしかった。 「あなた……」  私がよろばうように|縋《すが》りつくと、 「音禰……」  と、男は私を抱きよせて、ひとまえもはばからずはげしいキスをした。そのあとで私は男の胸に顔を埋めてむせび泣いた。 「音禰、もう泣くことはないんだよ。このとおり丈夫なんだから。おまえこそ、どう、体の調子……?」 「あたしはもう大丈夫でございます。二、三日もすればもとどおりになると思います」 「おまえもこっちへ来ないかい。おたがいに介抱したりされたりしようよ。おれ、もうおまえを片時もはなさないよ」 「あたしもおそばを離れません」  私は眼をあげて男の首のまわりを見た。そこには紫色の|紐《ひも》のあとが、肌もすりむけるほどに食いいっている。 「まあ、こんなひどいことを……」 「ああ、もうすこしで|冥《めい》|途《ど》とやらへ引っ越すところだったよ。いつものおれなら負けゃあしない。あべこべに犯人をつかまえてやるんだが、やっぱり衰弱してるんだね。腹がへっては|戦《いくさ》が出来ぬとはこのことだ。あっはっは、さあ、音禰、|膝《ひざ》からおりておくれ。皆様が見ていらっしゃるじゃないか」 「はい」  いまさらのように燃えるような|頬《ほお》を意識しながら、男の膝をおりたとたん、等々力警部のまさぐっている紐が眼にとまって、 「あら!」  と私は思わず大きく眼を|視《み》|張《は》った。それは|真《さな》|田《だ》の組み紐ではないか。 「ああ、音禰さん。あなたはなにかこの紐に……」  と、等々力警部が膝をのりだす。  ああ、あれは夢だったのだろうか。幻だったのだろうか。それとも現実の出来事だったのだろうか。いずれにしても、あのとき首にまきついた紐の感触は、たしかに真田紐だった。  私がその話を打ちあけると、等々力警部と金田一耕助氏がさっと緊張して、 「ご主人、あの塔のそばにトーチカのようなものがありますか」  と、宿の主人をふりかえった。 「そら、炭焼きがまのことやございませんでしょうか。|法《ほう》|然《ねん》さんはいつもじぶんで、炭をやいてはりましたが……」 「しかし……しかし……」  と、金田一耕助氏は半信半疑の面持ちで、 「あのとき、われわれはまず音禰さんを救い出し、それから俊作君の救出作業にとりかかったのだが、そのあいだ音禰さんは、塔の内陣へ寝かせておいたんだ。炭焼きがまのあるような、戸外へ寝かせておいたおぼえはないが……」  と、そういってから金田一耕助氏は、急に気がついたように、 「そうそう、そういえば三つ首塔からおふたりを運び出したとき、いちど急ごしらえの担架のぐあいが悪いというので、音禰さんの担架を地上へおろしたことがある。そうそう、そういえばそばにトーチカみたいなものがあったっけ」  金田一耕助氏は興奮したように、もじゃもじゃ頭をガリガリバリバリ|掻《か》きまわしながら、 「担架の修理にはたしか五分ほどかかったが、しかし、そのあいだじゅうそばには大勢ひとがいたし、しかも音禰さんは意識を失っていられたんだが……音禰さん、あなたはまえにもそのトーチカみたいな、炭焼きがまのそばへいったことがありますか」 「いいえ、いちども……。だからそのときも、炭焼きがまとは気がつかなかったんです」 「変だな。いままでいちども見たこともないものを、夢に見るはずがないし……音禰さん、それで首にまきついた紐の感触は、たしかに真田紐だったとおっしゃるんですね」  私は等々力警部の手にしている紐に、ちょっと指を触れてみて、 「はい、たしかに、これとおなじだったように思います」 「そして、史郎も由香利も、全身泥まみれになっていた……と、おっしゃるんですね」  金田一耕助氏と等々力警部は、真田紐と私の顔を見くらべたのち、しいんとしずまりかえって眼を見かわせる。  私はなにかしら、ゾーッとおそわれたような気持ちになって、男のほうへすりよった。      恢復期  もともと健康なふたりだった。  べつに病気があって倒れたわけではなく、絶食のために衰弱しているだけのことだから、医者の指導でおも湯からおまじり、おまじりからお|粥《かゆ》、お粥から御飯と、食事を正道にかえしていくにしたがって、ふたりとも日ましに健康を|恢《かい》|復《ふく》していった。  そして、三日目ごろからそろそろと、|鷺《さぎ》の湯のお庭を散歩できるようになり、五日もたつとすっかりもとの健康状態にたちもどった。いや、いや、以前のように男にたいする疑惑や不安がないだけに、私の身うちには若さと健康がみなぎりあふれた。 「|音《おと》|禰《ね》、おまえはどうしたんだい。ちかごろまたいちだんと美しくなって来たじゃないか。まるで照りかがやくようだぜ」  男がそんなことをいって、感歎したような|溜《た》め息をもらしながら、私の姿を見上げ、見おろすようなこともたびたびあった。 「だって、あたしにはもう考えることがなくなったんですもの。悩みも苦しみも、みんなみんなあの|空《から》井戸の中へおいてきたんですもの」  しかし、そうはいうものの私の悩みは、すっかり解消したわけではない。それは|伯《お》|父《じ》さまの予想をはるかにこえたあのお怒りである。伯父さまも品子さまも建彦の|叔《お》|父《じ》も、まだ鷺の湯に滞在していられたが、私は伯父さまのお怒りを恐れて、なるべくそのほうへ接近しないようにしていた。ただ、ときどき伯父さまのお留守をうかがい、品子さまのもとへ御機嫌うかがいに出向いていったが、品子さまはただお泣きになるばかりで、男のことについては何もお|訊《き》きにならず、また、何もおっしゃろうとはしなかった。  私は固く信じていたのだ。男の|身《み》|許《もと》……この男が真実の|高《たか》|頭《とう》俊作であることが証明されたら、きっと伯父さまも品子さまも許してくださるであろうことを。そして、それについて何よりも心配だったのは、手型を|捺《お》したあの巻き物のことである。 「あなた。あの巻き物をお探しになって?」  ある夜、男に|訊《たず》ねると、 「いいや、音禰、そんな暇ないじゃないか。あれっきり寝込んだんだもの。だけど、音禰、おまえ誰にもそのことを言やあしないだろうね」 「ええ、でも、あなた、金田一先生はご存じよ。伯父さまや建彦の叔父にいってらしたわ」 「音禰!」  男はギョッとしたように、 「金田一先生が、巻き物のことを……」 「いいえ、巻き物とはご存じないらしいわ。でも、あなたの身許を証明出来るなにかが、あの塔の中にあるらしいって……」 「そんなこと伯父さまや、建彦の叔父さんにいったのか」  男はひどく不安らしく、 「音禰、音禰、おまえもう大丈夫だろう」 「大丈夫って?」 「いや、もう外出できるだろう。明日にでもさっそく三つ首塔へいって、巻き物を探してみようじゃないか。おまえも手伝ってくれるだろうね」 「ええ、そうしましょう。でも、あなた、建彦の叔父を疑っていらっしゃるの」  それにたいして男はなんとも答えなかった。  だが、その翌日になって私たちは、三つ首塔捜索に出かけるわけにはいかなくなった。  言い忘れたが私たちは健康が恢復するにつれて、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部や金田一耕助氏から、いろんなことを質問された。それにたいして私たちは、包みかくすところなく、いままでの出来事いっさいをうちあけた。さすがに国際ホテルの一室で、ふたりが結ばれたときのいきさつを語るときには、男もてれたし、私も|真《ま》っ|赧《か》にならずにはいられなかったが、しかし、等々力警部や金田一耕助氏がまじめに聞いてくれたのが有難かった。  等々力警部や金田一耕助氏は、いっぽう、やっきとなって古坂史郎と佐竹由香利のゆくえを捜索していたが、その後も|杳《よう》として、ふたりの消息がわからないらしかった。|法《ほう》|然《ねん》さんも同様である。  さて、男と三つ首塔探検にいくと約束した日は、朝から空が鉛色にくもって、十メートル以上の|飆風《ひょうふう》が、丘から丘、谷から谷へと吹きあれていた。それでも私たちが出かけようと、外出の支度をしているところへ、金田一耕助氏と等々力警部がやってきた。 「ああ、お出掛けですか」 「はあ、ちょっと足ならしに散歩を……」 「それはちょうどよかった。音禰さんにちょっと見ていただきたいと思って……」 「あたしに何を……?」 「三つ首塔のそばにある炭焼きがまですがね。あなたが夢にごらんになったトーチカというのが、それであるか、いちどたしかめておきたいと思うんですが……」  私は男と顔を見合わせたが、こちらもちょうど三つ首塔へ、出掛けようと思っていたところである。男のうなずくのを見て、 「承知しました」  と、私は何気なく答えたが、そのときそこにあのような、恐ろしいものが待ちかまえていようとは、どうして私が知っていよう。      第五章 三つ首塔炎上  私は今後何年生きるかしらないが、その日、そこに展開されたあの|凶《まが》|々《まが》しい光景こそ、生涯消しがたい夢魔となって私の|脳《のう》|裡《り》にのこり、私をおびやかしつづけるだろう。  いまこうして筆をとっていても、回想があの陰惨なシーンにたどりつくと、筆持つ指が思わずふるえる。私のやさしい、男らしい良人がそばにいて、微笑をもってはげましてくれるからこそ、この記録を書きつづっていくことが出来るのだけれど。  まず、私の眼にうかぶのは、暗い|飆風《ひょうふう》のなかにゆれにゆれている、あの凶々しい三重の塔の姿である。いまにして思えば三つ首塔は、そのとき断末魔の運命にあったのだ。そして、吹きすさぶ暗い、鉛色の飆風にもまれて、骨も砕けるような断末魔のうめき声をあげていたのだ。  その三つ首塔を百メートルほどかなたにのぞむ|崖《がけ》|下《した》に、問題の炭焼きがまが立っていた。そして、私はひとめその炭焼きがまをみたせつな、それがいつか私の夢にみた、トーチカであることをはっきりしった。このトーチカのアーチ型をした暗い穴から、泥まみれの古坂史郎と佐竹由香利が|這《は》いだしてきて、そしてまたそこへ這いこんでいったのだ。  私は思わず悲鳴をあげて男の腕にすがりついた。私はいちどもここへ来たことはない。それにもかかわらず、私ははっきりこの炭焼きがまを夢に見たのだ。三つ首塔もちょうどあの位置に建っていた。 「|音《おと》|禰《ね》、音禰、しっかりおし。おまえが夢に見たのは、たしかにこの炭焼きがまだったんだね」 「そして、この穴から古坂史郎と佐竹由香利が這いだしてきて、あなたを絞め殺そうとして失敗し、またそこへ這いこんでいったんですね」  |等《と》|々《ど》|力《ろき》警部と顔見合わせながら、金田一耕助氏の声はふるえてしゃがれていた。 「は、はい……」 「金田一先生、しかし、この炭焼きがまをいったいどうしようというんですか」  男はしっかり私の腕をかかえたまま、ふしぎそうにあたりを見まわした。そこには、てんでにシャベルや|鶴《つる》|嘴《はし》をもったおまわりさんや、私服の刑事が、げんしゅくな顔をして炭焼きがまを取りまいていた。少しはなれたところに、上杉の|伯《お》|父《じ》さまと建彦の|叔《お》|父《じ》が、村の人達にまじって、ふしぎそうにこちらを見ていた。 「いや、|高《たか》|頭《とう》君」  と、金田一耕助氏はてれたように、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「われわれは|俄《が》|然《ぜん》、超自然主義者、神秘主義者に転向したんですよ。音禰さんがこの炭焼きがまのなかから、古坂史郎と佐竹由香利が、這い出してきたという夢をごらんになったところに、なにかしら、超自然的な、現代科学の限界を|超《こ》えた意味が、ありはしないかということを考えはじめたんです。それでこれからこの炭焼きがまを|叩《たた》きこわして、なかの地面を掘り返してみようと思うんです。さあ、皆さん、はじめてください」  金田一耕助の言葉の意味を、まだはっきり理解したわけではなかったが、なにかしら恐ろしい|戦《せん》|慄《りつ》が、あとからあとから、私の背筋を這いのぼってきた。 「あなた……あなた……」 「音禰、音禰、しっかりおし。おれがついてるんだから大丈夫だよ」  男は強い、たくましい力で私の背中を抱き、|眼《ま》じろぎもせずに、警官たちの作業を見まもっている。私も見まいとするのだけれど、どうしてもそのほうから、視線を反らすことが出来ないのだ。強いエレキのような力が、私の視線を炭焼きがまへ吸いよせる。  粘土で固めた炭焼きがまのトーチカは、警官たちの鶴嘴の一撃で、木っ葉みじんと砕かれていく。飆風のなかにこまかい粘土の粉が、パッと散って舞いあがって私たちの頭上から降ってきた。男は私の肩を抱いたまま五、六歩後退する。  風はいよいよ吹きすさんで、三つ首塔はゆれにゆれ、断末魔のキイキイ声をあげている。三つ首塔を抱く丘の、葉を落とした裸の木々の|梢《こずえ》は、まるで女の乱れ髪のように吹きなびき、ざわめき、ゆれる。  炭焼きがまのトーチカは、またたくうちに打ちくずされ、警官たちのシャベルはすでに土を掘っている。そのそばに立って、シャベルのさきを|視《み》まもっている金田一耕助氏の|蓬《ほう》|髪《はつ》が、まるで魔物のように逆立ち、ゆれる。 「あ、あった!」  とつぜん、警官のひとりが叫んで、土のうえにひざまずいた。 「気をつけてください。傷をつけないように……」 「あっ、ここにもあった!」  また、べつの警官の叫び声。シャベルを捨てて土のうえにしゃがみこんだ。ほかの警官たちや私服たちも、みんなシャベルや鶴嘴を捨てて、ふたりの警官のまわりに集まり、両手を泥だらけに土を掘りはじめる。  いったい、何があったのか。あのひとたちは何を掘り出そうとしているのか……。  警官たちの人垣にさえぎられて、私たちのほうからは見えなかったが、男はすでに察していたらしく、 「音禰、しっかりしておいで。おれがついているから大丈夫だ」 「は、はい、あなた……」  私の歯はガチガチ鳴った。|細《こま》かな戦慄があとからあとから背筋を這いのぼり、私の体は林のはだか木の梢のように、男の腕のなかでゆれにゆれていた。 「あなた。しっかりあたしを抱いていて……」 「うん、よし!」  やがて、警官たちの唇からいっせいに、驚きと怒りにみちた|罵《ば》|声《せい》がもれ、じぶんたちが掘った穴から、なにかを引きずり出しているようだったが、 「音禰さん、あなたみたいな女性をわずらわすのは、たいへん恐縮なんですけれど、ちょっとこれを見てくださいませんか」  金田一耕助氏の声とともに人垣が左右にわれたとき、私はそこに見たのである。  全身赤茶けた粘土にまみれたふたつの死体を。……  ふたつの死体は顔も手脚も着ているものも、黄褐色の泥にまみれて、顔かたちさえハッキリしなかったが、まぎれもなく泥まみれのふたつの死体は、あの夜の古坂史郎と佐竹由香利にそっくりだった。  ああ、そうなのだ。  ふたりはこういう黄褐色の泥にまみれた顔のなかから、眼だけギラギラ光らせていた。|睫《まつ》|毛《げ》の一本一本さえ、黄色い泥にまみれていた。そして、これまた黄色い泥にまみれた四つの手で、|真《さな》|田《だ》|紐《ひも》の両端をにぎり、左右から私の首をしめようとした。…… 「音禰、音禰! しっかりしろ、おれがついてる! おれがついているから大丈夫だ!」  男の声がうんと遠いところから、聞こえてくるような気持ちであった。男にはげしく体をゆすぶられて、一瞬、失神しそうになっていた私は、やっとその一歩手前でくいとめたが、そのとき等々力警部の恐ろしい|呟《つぶや》きが、私の耳にはいってきた。 「金田一先生、ふたりの|咽《の》|喉《ど》のまわりにのこっているこの跡は、真田紐でしめた跡のようですね」 「あなた! あなた!」  私は男の胸のなかで絶叫した。 「あのふたりは、あたしが夢を見たあとで殺されたんですの。それとも……それとも、あたしは幽霊におそわれたことになるんですの」 「音禰さん、どうやらあなたのおっしゃる、あとの場合のようですね」  金田一耕助氏のげんしゅくな言葉が耳にはいったとき、私はもういちど失神しそうになった。 「いやよ! いやよ! そんな|怖《こわ》いこと……そんな怖いこと、いやよ! いやよ!」  私は男の胸に顔をうずめ、駄々っ児のように首をふったが、そのとき、警官のひとりがもらした言葉が、ふっと私の心をとらえた。 「警部さん、ここにこんなシガレット・ケースが掘り出されたんですが、これ、被害者のものでしょうか。それとも犯人の……」  シガレット・ケース……?  私はさいきんどこかで、おなじような言葉を聞いたような気がして、ふっと顔をあげて、警官の手にしたそれを見たが、 「あら! それは上杉の伯父さまの……」  男があわてて私の口に|蓋《ふた》をしようとしたが、もうときすでに遅かった。  金田一耕助氏と等々力警部をはじめとして、警官たちはいっせいに、むこうに立っている上杉の伯父さまをふりかえった。  上杉の伯父さまはびっくりしたように、|眉《まゆ》をひそめてこちらを見ていられたが、そのうちに、警官の持っているシガレット・ケースに気がつかれた。……  ああ、私は今後何万何千年生きるとも、あのときの伯父さまのお顔を、|脳《のう》|裡《り》から|拭《ぬぐ》い去ることはできないだろう。  みるみるうちに|頬《ほお》がこわばり、髪の毛が逆立ち、|日《ひ》|頃《ごろ》の|闊《かっ》|達《たつ》な伯父さまの温顔が、悪鬼のようなもの|凄《すさ》まじい形相に|変《へん》|貌《ぼう》したかと思うと、くるりと身をひるがえして、三つ首塔のほうへまっしぐらに走り出していた。 「そいつをつかまえろ! その男を逃がすな!」  等々力警部の怒りにみちた声。  だが、建彦の叔父や村のひとたちが、上杉の伯父さまの挙動に気がついてふりかえったとき、伯父さまの姿はもう遠くはなれていた。 「畜生! 畜生! 悪党め! 悪党め!」  |飆風《ひょうふう》のなかを気がくるったように走っていく、等々力警部や警官たちの、うしろ姿を見送りながら、私は男の腕のなかでよろめいていた。風はますます吹きつのってきて、おそらく十五メートルを越えていただろう。 「あなた、あなた! どうしたんですの。上杉の伯父さまがどうかしたんですの」 「音禰、音禰、しっかりおし。おまえは何も考えんほうがいい」 「だって、だって、伯父さまのシガレット・ケースが、どうしてあんなところに……?」 「だから、だから、おまえは何も……あっ!」  とつぜん男が絶叫したので、私はギョッとして顔をあげたが、ちょうどそのとき吹きすさむ、飆風のなかに髪振りみだして、三つ首塔へとびこんでいく、上杉の伯父さまのうしろ姿が見えていた。 「音禰、音禰! 放せ、放せ、あの塔のなかにはおれの命が……おれの生命が……」 「あなた、あたしもいきます。あたしをおいていっちゃいや!」  飆風のなかをキリキリ舞いをしながら、男のあとを追って走っていく私は、なにもかも、狂ってしまったのだと思わずにはいられなかった。  トーチカのなかから掘り出された、泥まみれのふたつの死体……妙なところから出てきたシガレット・ケース……とつぜん悪鬼のように変貌した上杉の伯父さま……悪党! 悪党! と、|罵《ののし》りわめく等々力警部や警官たち……  きょうのこの天候のように混乱した私の頭脳では、それらの出来事をつなぎあわせ、整理する能力にかけていた。ただひとつハッキリしていることは、あの塔に愛する男の運命がかかっているという、ただそのひとつのことだけ。  伯父さまよりひと足おくれて等々力警部の一行が、三つ首塔へ駆けつけたとき、その面前に立ちふさがったのは、観音びらきの重い|樫《かし》の扉だった。怒りにみちた怒号とともに、その扉は警官たちによって乱打されたが、頑強にそれを挑ねかえすのは、伯父さまがなかから|閂《かんぬき》をおろしたのだろう。 「|鶴《つる》|嘴《はし》を……鶴嘴を……」  等々力警部がさけんだかと思うと、言下に二、三人こちらへ駆けもどってきた。そのひとたちが私とすれちがっていったとき、 「ああっ!」  と、いう悲痛な絶叫が、私のまえを走っていく男の唇からほとばしった。文字どおりそれは、はらわたもついえるような声だった。  私も|飆風《ひょうふう》のなかに顔をあげ、そして見たのである。われわれの希望が夢のように崩れおちていくのを。  三つ首塔の内部から、もうもうたる煙が吹き出している。  ああ、この塔には電気がきていないのだ。照明はすべて原始的な石油ランプや|蝋《ろう》|燭《そく》や、菜種油でまかなわれている。  私はつよい石油の|匂《にお》いをかいだ。と、思ったつぎの瞬間、もうもうたる煙のあとから、おろちの舌のような|焔《ほのお》が、めらめらと舞いあがるのを見た。  扉のまえにむらがっていた警官たちも、これを見るとわっと叫んで後方へ散った。鶴嘴をかついだ二、三人が、塔のほうへひきかえしていったときは、完全にもうあとの祭りだった。おりからの飆風にあふられて、焔の舌はみるみるうちに、三つ首塔全体にひろがっていく。 「ち、畜生!」  一瞬、放心したように立ちすくんでいた男が、歯ぎしりをするような声を立て、|炎《も》えあがる三つ首塔めがけて駆けだそうとするのを見て、私はあわててその腕にとりすがった。 「あなた、あなた、落ち着いて……」 「放せ! 放せ! 音禰! おれの命が……おれの全生命が……」 「だって、あなた、だって、あなた……」 「放せ! 放せ! 音禰!……」  |阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》のように|猛《たけ》りくるうとは、ああいうときにつかう言葉だろう。男の腕にとりすがった私が、ボロ|雑《ぞう》|巾《きん》のように振りまわされているとき、 「よしたまえ、高頭君、いやさ、俊作君」  と、そばへきて、男の腕をとって引きもどしたのは、もじゃもじゃ頭の金田一耕助氏。 「君はぼくが金田一耕助であることを忘れたのかね」 「え?」 「君はもう少しぼくのことを、|識《し》っていてくれると思ったが、案外だったようだね」  自信にみちてにこにこしている、金田一耕助氏の表情をみているうちに、男の|瞳《め》にさっとひらめくものがあった。 「金田一先生、そ、それじゃあなたが……」 「まあ、聞きたまえ、高頭君」  そのときの金田一耕助氏の態度にも口ぶりにも、みじんもてらいげはなかった。かれはただ淡々として、男にいってきかせるように、 「ぼくはいま三つ首塔に火を放った、あの犯人をひそかにつけてここへきた。そして、あの三つ首塔を発見した。ぼくはあの|空《から》井戸を発見するまえに、塔のなかを|隈《くま》なく捜査したよ。幸か不幸か、塔にはぼくの捜査を邪魔するような人間は、ひとりもいなかったのでね。そして、ぼくがあのようなだいじなものを、見落とすような男だと思っているのかい」 「せ、先生!」  男はべったりそこへひざまずいた。私もいっしょにひざまずいて、男の肩に手をおいた。 「ぼくははじめて君が……いや、君たちふたりが、追い求めているものがなんであるかもしった。ところで、ねえ、高頭俊作君」 「はい」 「これは等々力警部さんなどもよくご存じだが、ぼくはよくよくの確信、あるいは確証がなければ、断定的な口はきかない男だ。そのぼくが君を高頭俊作君とよんでいる。これはたいへん失敬だったが、空井戸から君を救い出したとき、君は一時的に失神状態におちいった。そのときぼくはこっそり指紋をとらせてもらったよ。しかも、ぼく、指紋鑑別にゃ自信があるんだ」 「先生! 金田一先生!」  土のうえに両手をついて、ふかく|頭《こうべ》をたれたとき、男の眼から|滂《ぼう》|沱《だ》として涙があふれた。  ああ、そのとき、飆風のなかに|蓬《ほう》|髪《はつ》をなびかせ、吹きあれる風によれよれの|袂《たもと》や、|袴《はかま》の|裾《すそ》をはためかせながら立っている、この小柄で貧相なひとのすがたが、なんと偉大にみえたことであったろう。文字どおりその背後から、後光がさすように思われて、 「先生、ありがとうございます」  私もすなおに両手をついた。  そのとき、三つ首塔はパチパチと、ものの|弾《はじ》けるような大音響とともに、全身から金粉を吹きあげたかと思うと、一団の焔のなかにつつまれた。 「さあ、これで何もかも終わったんだ。犯人は三つ首塔とともに運命をともにした。もう血なまぐさい|殺《さつ》|戮《りく》は起こらないだろう」  金田一耕助の|呟《つぶや》きをききながら、私たちは抱きあったまま、飆風のなかに炎えくずれていく三つ首塔を、いつまでも、いつまでも|視《み》つめていた。     大団円  ああ、なんという安らかな日々であろう。あの血の海に全身ひたされ、もがき、あえぎ、あがいていた私に、このような安らかな日がかえって来ようとは。……  私はいま|湘南《しょうなん》の海を見おろす暖かい一室で、この手記を書きつづけている。私のそばには愛する良人が、くつろいだ姿勢でソファにより、静かに本を読んでいる。ときどき私たちは眼をあげて、愛情にみちたりた微笑をかわす。  玄蔵老人は海のかなたで死亡し、そして、私たちはいま|莫《ばく》|大《だい》な遺産相続の手つづき中なのである。私たちは黒川弁護士夫妻の|媒酌《ばいしゃく》で結婚し、|熱《あた》|海《み》のこの家も黒川さんのお世話で手に入れたのだ。  この家へはときおり建彦|叔《お》|父《じ》と、笠原薫が手をたずさえて遊びにくる。ふたりもちかく結婚するそうだが、遺産相続の手つづきが終わったら、このふたりにもなんとかしなければならないだろうと、私たちは話している。建彦叔父はそんな心配は無用だとわらっているが。……  いまの私たち夫婦の最大の関心事は、傷心の品子さまをいかにお慰めするかということである。品子さまはいま東京のおたくを引きはらって、|鎌《かま》|倉《くら》で傷心の身を養っていられる。|伯《お》|父《じ》さまを信ずることがふかかっただけに、品子さまのお歎きがおいたわしい。私たちはいくたびか、この家へお迎えしようと申し上げたのだが、品子さまはおききいれくださらない。しかし、いつかはこの誠意が通じて、きっと私たちと生活をともにしてくださるだろう。  それにしても、わからないのは人の心である。伯父さまが私を愛していられたなんて。しかも、いまそばにいる良人が私を愛するような意味で。 「そうです。それがすべての悲劇の根本なんです」  と、金田一耕助氏が厳粛な顔で説明した。 「上杉先生は|音《おと》|禰《ね》さんを、誰にもわたしたくなかったんでしょう。そこでまず、音禰さんの良人とさだめられた|高《たか》|頭《とう》俊作君……じっさいはいとこの五郎君だったんですが、その男を殺した。だけど、そのために音禰さんが、遺産相続の権利を失うことを惜しまれた。それは、じぶんじしんの物欲のためではなく、おそらく愛する音禰さんのために惜しまれたのでしょう。ところが、第二の遺言状が発表されたとき、志賀雷蔵や鬼頭庄七の発言から、ひとりでも死ねば、それだけ音禰さんの相続額がふえることをしられた。そこであの恐ろしい|殺《さつ》|戮《りく》が開始されたんですね。それはおそらくじぶんのために、全財産の相続権をうしなわれた、音禰さんにたいする|贖罪《しょくざい》ともいうべき、お気持ちだったんじゃないでしょうか」 「しかし、金田一先生、それじゃ上杉先生は、還暦祝いの夜、すでに笠原操が佐竹の一族であることを、しっていられたんでしょうか」  良人のこのもっともな質問にたいして、金田一耕助氏はこうこたえた。 「さあ、そのことです。それあるがゆえに上杉先生は、ながくわれわれの盲点のなかに、かくれていることが出来たんです。先生がそのことを、ご存じであるはずはなさそうでしたからね」 「しかし、それではなぜ……?」 「高頭君、物事をすべて、合理的に見ようとすることはよいことです。また、そうでなければなりませんが、しかし、いっぽう世の中には、ふしぎな暗合や偶然が、ありうるということも知っていなければなりませんね。と、いってあの晩、薫と操の姉妹があそこへ来たということは、暗合でも偶然でもありません。佐竹建彦氏がじぶんたちの一族として、ふたりをあそこへつれてきたんですから。ところが、上杉先生があの部屋……五郎君の殺された部屋から、出てきたところへ偶然操がいきあわせたとしたら……これはもう、操が佐竹の一族であろうがなかろうが、そんなことには関係なしに、生かしておくわけにはいきませんね。それがたまたま、操が佐竹の一族であったがために、かえって先生、ひじょうに有利な立場に立たれたわけです」 「なるほど」  良人は感慨ぶかい面持ちだったが、私の感慨はまたひとしおだった。  あとから思えば、操は三番目の犠牲者だったらしいのだが、私がじっさいに目撃した最初の犠牲者はあのひとだった。あれ以来、私はおびただしく流された血の海を、渡らなければならなかったのだ。  それを思うと私はいま、こうした安らかな境遇のなかに身をおいていても、なおかつ冷たい汗のにじむような、|戦《せん》|慄《りつ》をおさえることが出来ないのだ。良人はできるだけはやく、忘れるようにといってくれるのだけれど。 「しかし、金田一先生、あの秘密探偵を殺したのは……?」 「上杉先生は五郎君に、あのような|刺《いれ》|青《ずみ》があることを、ご存じなかったんじゃないでしょうかねえ。だから、被害者とじぶんは、縁もゆかりもない、まったくのあかの他人でとおせると思っていらしたんでしょう。たったひとり、ふたりの関係をしっているのは秘密探偵の岩下氏。だから、これを殺して口をふさいでしまえば……と、いうことなのでしょうねえ」  以上が金田一耕助氏の説明であり、この説明によってすべての|謎《なぞ》は解明されると思う。  その他の殺人の場合、犯人が上杉の伯父さまでありえないという反証は、どこからも出てこなかった。  たとえば第二の遺書が発表されたのちの、最初の犠牲者は島原明美だったが、あの事件の場合でも、私のアリバイはきびしく追究されたが、誰も伯父さまのそれに眼をむけたものはなかった。おそらく、ほかの事件の場合でもそうだったのだろう。  講演旅行の途中伯父さまは、二日ほど単独行動をとられたそうだが、おそらく、古坂史郎のトランクの中にあったあの写真から、三つ首塔の所在をしられた伯父さまは、ひそかに|黄《たそ》|昏《がれ》村へやってこられた。そして……そして。……  ただひとつここに、誰にも理解出来ないのは、私が見たあの恐ろしい夢である。あれが事件解決の端緒になったのだから、それを思うと私はいまでも、歯ぎしりがでるような、恐ろしさを感じずにはいられない。  しかし、それについては、私はふかく考えまいと決心している。  金田一耕助氏のような合理主義者でさえ、 「世の中には理外の理というものがあるもんですね」  と、|憮《ぶ》|然《ぜん》としていたくらいだから、私などがいくら考えたところでわかるはずがない。  ただひとつここに付け加えておくが、|法《ほう》|然《ねん》さんはあれから十日ほどのち、たそがれ峠の山深く、|縊《い》|死《し》|体《たい》となって発見されたそうである。法然さんはひとの手によって|縊《くび》られたのではなく、みずから縊れて死んだのだそうである。  しかも、法然さんの死亡時日は、古坂史郎や佐竹由香利よりあとだろうといわれ、ふしぎなことには、法然さんの縊れて死んでいた木の根もとには、鬼頭庄七がもっていたとおなじような、竹の皮が五、六枚散乱しており、その竹の皮には飯粒が、いっぱいこびりついていたということである。  これを思うに、私の良人が|空《から》井戸のなかで予想したとおり、古坂史郎と佐竹由香利、法然さんと鬼頭庄七、この四人のあいだに血で血を洗うように深刻な、仲間割れが生じたのではないかといわれている。  法然さんも鬼頭庄七殺しに、参画したかどうかはべつとしても、かれもまたこの仲間から逃げだしたくなったのだろう。そして、たっぷり食糧を用意して、たそがれ峠の山奥深く逃げこみ、しばらくそこで食いつないでいたものの、食糧がつきるにおよんで、みずから縊れて死んだのであろうといわれている。  これもひとえに、同性愛地獄の果てだったかもしれぬ。  さて、これでだいたい委曲をつくしたつもりだが、ここにひとつ私じしんに疑問がのこった。それは古坂史郎と佐竹由香利の死体とともに、伯父さまのシガレット・ケースが掘り出されたとき、良人が私の発言を防ごうとして、あわてて私の口に|蓋《ふた》をしようとしたことである。それをこれから|訊《き》いてみよう。 「あなた。あなたにお|訊《たず》ねしたいことがございますの。かくさずにおっしゃってくださる?」 「なんのこと? 音禰」 「あなたはひょっとすると、上杉の伯父さまが犯人だってこと、まえからご存じだったんじゃございません?」  良人はだまって私の顔を見ていたが、私の思いつめた顔色に気がつくと、立ち上がって良人専用の化粧ダンスの|抽《ひき》|斗《だし》から、指輪のケースを取り出した。 「あけてごらん」  何気なく私はそれを開いたが、そのとたん、思わずあっと|呼《い》|吸《き》をのんだ。なかには真珠でつくったボタンがひとつおさまっていたが、それはあきらかに伯父さまの、ワイシャツのボタンではないか。 「あなた、これは……?」 「音禰、いつか黒川先生のところへ関係者一同が集合したとき、伯父さまもいらしたね。そのときおれはこのボタンを、伯父さまのワイシャツに見たんだ。ところが後日、江戸川アパートで殺されたヘレン根岸が、そのボタンを|掌《てのひら》に握っているのを発見した。だけど、おまえの心を傷つけたくなかったから黙っていたんだ。伯父さまをこのうえもなく敬愛している、おまえの純情をふみにじりたくなかったんだ。わかる?」 「あなた……あなた……」  私は涙がせぐりあげてきた。涙はあとからあとから私の|頬《ほお》をつたって流れた。私はこういうひとを悪党と呼びつづけてきたのだ。 「音禰、もう少し落ちついて、おれの話をきいてくれないか。これはおまえにとっても、とてもだいじなことだと思うんだが……」 「はい、どういう……?」 「伯父さまは多くのひとを手にかけて来られた。そして、三つ首塔のそばでシガレット・ケースが掘り出されるまで、|尻《し》っ|尾《ぽ》ひとつお出しにならなかった。だから、世間のひとたちは伯父さまのことを、悪の天才、|稀《き》|代《たい》の計画的犯罪者のように思っている。しかし、じっさいはそうじゃなかったと思う」 「はあ……」 「伯父さまはただ、いきあたりばったり、いわば出たとこ勝負で決行していられたに過ぎないと思うんだ。それが伯父さまの地位や身分や名声、それといろんな偶然が積み重なって、救われていらしたに過ぎないと思うんだ。たとえば東京で起こった殺人事件の場合、いつもそこには宮本音禰なる女性と、正体不明のヤミ屋のボスの影がちらついていて、捜査当局はそのほうへ|眩《げん》|惑《わく》されてしまっていたんだ。金田一先生はべつとしてね。このボタンやシガレット・ケースはそのいい例だが、伯父さまはほかにもいろいろ、ヘマをやっていらしたんじゃないかと思う」  そうなのだ。学者肌の上杉の伯父さまは、ちょっと、そそっかしいところがおありになって、よく忘れものをしては和子伯母さまに|叱《しか》られていた。……  私がそのことをいうと、良人もうなずいて、 「そうだろう。そういうひとがああいうことを決行された。それもひとえにおまえを愛し、そして、金田一先生も指摘していられたとおり、おまえにたいする|贖罪《しょくざい》の気持ちから、ああして多くの血を流されたんだ。だから、伯父さまは世間がいうような、悪の天才でもなければ、天才的犯罪者でもなんでもなかった。だからおれも伯父さまを許してあげやすいし、おまえも伯父さまを、許してあげなければいけないと思うんだ」 「あなた。ありがとうございます」  私はとうとうその場に泣き伏した。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル13 |三《み》つ|首《くび》|塔《とう》  |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成14年1月11日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『三つ首塔』昭和47年8月30日初版発行           平成 8 年9月25日改版初版発行 ========= 次の校正者にお任せする部分 ========== 399行 ※[#ここに画像]